どこまでが常識心理で、どこまでが変態心理であるかといふことを、はつきり区別することは、何人にとりても不可能である。平素温順な人が酒を飲むと非常に粗暴になるのは、酒即ちアルコホルが、その人の性質を変化せしめるのではなくてその人が本来蔵して居る粗暴な性質がアルコホルのために引つ張り出されたに過ぎない。換言すればアルコホルが、粗暴な性質を作り出したのではなくて、たゞ隠れて居た粗暴な性質を明るみへさらけ出した迄である。酒を飲まないときは、意志の力とか又はその他の微妙な抑制作用が働いて悪い性質を抑へつけて居るのであるが、酒を飲むとアルコホルのためにその抑制作用が麻痺して、所謂「酒乱」の状態を現出するのである。かうした訳で、何人にも本来、善悪の両性質が具はつて居るのであつて、どちらかが強くあらはれるとあらはれぬによつて、善人と悪人が区別されるに過ぎない。されば、変態心理と名づけられる心理状態も、その実常人の心の底に具はつて居るのであるが、たゞそれが表面にあらはれて居ないだけである。平素、迷信を一も二もなく排斥している人が心にはげしいシヨツクを受けたときなどに、いつの間にか迷信に陥るのは、つまり、迷信的な性情が何人にも具はつて居る証拠である。
スチヴンソンの有名な小説に「ジエーキール博士とハイド氏の不思議な事件」といふのがある。これはジエーキールといふ優れた医学者が、自分に善悪二つの性質が具はつて居ることを知つて、この二つの性質をはつきり区別して、ある期間は善人となり、ある期間は悪人とならうといふ望を懐き、研究の結果、一種の毒薬を発見し、それを飲むと身体の形までが変化して、悪人となり、ハイドといふ名であらゆる悪事を行ひ、又別の薬を飲むと、もとのジエーキール博士といふ善人となる話を、作者一流の艶麗な筆を以て書いたものである。そして遂にはジエーキール博士の持つて居る悪の性質が、あまり屡ば毒薬を用ひた結果、それを用ひない平時にもあらはれるやうになり、辛うじて、元に戻す薬で防いで居たが、最後に、いくら薬を飲んでも治らぬやうになり、悪人ハイドになり終つて自殺するといふのが、この物語の梗概である。
これはもとより作り話であるけれど、人間の持つて居る善悪二面を、巧みに描いたものといふことが出来る。むかし、ある人が哲人ソクラテスの顔貌を相して、残忍性と放蕩性が具はつて居ると言つたら、彼は徐ろに、「如何にも自分にはさうした性質が具はつて居るけれど、たゞその性質に打ち克つて、外へあらはさぬやうにして居るのだ」と答へたと伝へられて居るが、世の悪人たちの犯罪性を見て自分にも、多少の程度にさうした犯罪性を持つて居ることに気附かぬ人は、恐らく一人もあるまいと思ふ。
犯罪人類学を建設して、犯罪学に一新生面を開いたイタリアの学者ロンプロソーは、犯罪者を常人と異なつた人間と見做し、犯罪者には、精神的にも、肉体的にも、原始人類に似よつた所があつて、所謂、アタヴイズム(祖先戻り)の現象が顕著に認められることを、該博な研究によつて証明したが、多くの犯罪者が祖先戻りの状態を多分にもつて居ることは、争はれない事実であるけれど、凡ての犯罪者が必ずしもさうであるとは限らず、周囲の状況によつて、祖先戻りの状態を顕著に持つて居ないものでも、よく犯罪者たり得るものである。それ故現今では、犯罪者を二種類に分ち、先天的に犯罪者たる性質を備へて居るもの即ち祖先戻りの状態が顕著なものと、社会的事情に迫られて犯罪を行ふものとすることになつて居るのである。然し、この社会的事情に迫られてなつた犯罪者は、つまり、その心の奥に潜んで居た犯罪性が、社会的事情のために、表にあらはれて出来たものに過ぎないのであつて、かういふ見地から見るときは、あらゆる犯罪は、人々が原始時代に持つて居た性情を、その儘発現した状態と見做すことが出来る。
通常変態心理と呼ばれて居る各種の状態、例へば、諸多の迷信を始め、残忍性(血を見て喜ぶ性質)とか、人肉が食べて見たいといふ欲望などはいづれも現存の野蛮人種に最も顕著に見らるゝ所であつて、私たちの祖先である原始人類にも、同様に存在して居つたことは疑ふ余地がなく、従つて、それ等の変態心理が基となつて行はれた犯罪は、原始時代に於ては少しも珍らしいことではなく、また「犯罪」と呼ばれるべきものではなかつたのである。即ち、現今に於ては、さういふ心理が漸次その影を潜めたから、異様に感ずるに過ぎない。而もよくゝゝ(※1)考へて見るときは、凡ての人の心の底に、多少の程度に存在して居ることが認められるのであつて、ゲーテは、「自分のなさなかつた失敗が、他人によつてなされたことはまだ聞かぬ」と言つたが、私は、「他人の行つた犯罪で、自分が決して為さぬと思ふやうなのはまだ聞かない」とさへ言ひたいと思ふのである。
私たち各自が、原始時代の性格を多分に発現して居る小児時代を振返つて見るならば、誰しも、残忍性や復讐心が極めて旺盛であつたことに気づくであらう。たゞそれが成人になると、教育の結果とか、その他の事情によつて、一時影を潜めて居るだけであつて、いざといふ場合には忽ち現はれて来るのである。例へば、大勢の人が一団となつたときは、所謂群集心理といふ一種の異常な心理を構成して、各自が恐ろしい犯罪をも敢てする。早い話が、昨年の大震火災のとき、血腥い惨劇が到る所に行はれたことは、読者の記憶に新たなる所であらう。これは決して日本人に限つた現象ではなく、如何に文明を誇る国民でも、あゝした事情のもとには、同じ惨劇を敢てしたであらうと思ふ。現にアメリカでは群集による私刑(リンチ)が公然として行はれて居るのを見ても、思ひ半ばに過ぐるものがあらう。
以下、私は、変態心理に基く各種の犯罪を述べ主として此犯罪心理について考へて見ようと思ふ。
ドイツの犯罪学者アシヤツフエンブルグは、「迷信に基く犯罪は、人々の教育程度が、ある高さに達すれば無くなるであらう」と言つて居る。如何にも、科学の発達と共に各種の迷信は多くその影をひそめ、従つて迷信による犯罪も、知識の発達と共に少くなる訳ではあるが、然し、人々の心の底に、原始人類からの記念物として残つて居る、迷信的性情だけは、如何に科学的知識が発達しても、之を駆逐することは出来ない。
人体の脂肪から作つた蝋燭は、これを携へて窃盗にはいると、家人が熟睡するといふ迷信から行はれる殺人、母体内にある胎児の心臓を喰へば超自然的な力量を得、自分の姿を他から見えなくすることが出来るといふ迷信から行はるゝ姙婦の虐殺(、)(※2)人間の血液が各種の疾病就中癲癇を治療するといふ迷信から行はれる殺人、人間の生胆が高価に売れるといふ迷信から行はれる殺人などは、たとひ行はれるとしても比較的稀であつて、教育程度が高まれば、或はアシヤツフエンブルグの言ふやうに無くなつてしまふかもしれない。また花柳病をなほすために、処女を犯せばよいといふ迷信から行はれる強姦や、吸血鬼(ヴアムピール)の迷信から、他人の墓をあばいて、死骸の頭に釘を打ちこむなどゝいふ犯罪も、やはり追々その数を減ずることは否み得ない。けれど、かの色々な新らしい宗教が起つて、その信者を餌に犯罪の行はれることが今日、却つて減じないのみか、益々殖えて行く傾向があると同じやうに、反対に、いつの間にか迷信の擒となつて、犯罪を行ふものも恐らく永久に絶えないであらうと思はれる。ことに非常の時に際しては、科学的知識も理性も形をひそめ易いのが常であるからである。
(つゞく)
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文句読点なし。
底本:『東京』大正13年9月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1924(大正13)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2005年6月18日 最終更新:2017年9月29日)