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澤田氏を悼む

 諸君!
 のつぴきならぬ用事が突発致しましたゝめに、やむなく草稿を代読してもらつて、責を塞がねばならぬことを遺憾に思ひます。尤も病身の私が申し上げるよりも、この方が遙にお聞苦しくないかも知れません。かねて私はこの追悼演説会の開かれることを存じて居りまして、必ず出席させて頂くつもりで居りましたのに、生憎、他の約束のために他行しなければならなくなり、今一日早いか、或は遅かつたならばと残念でなりません。
 今日、こゝにお集まりになつた皆さんは、申すまでもなく、澤田氏生前の熱烈なる後援者であると信じます。さうして、今もなほ澤田氏の死を、夢のやうに、まるで現実とは思はれぬやうに思つておいでになるであらうと思ひます。愛する人、敬する人のなくなつた時、私たちは、その当座その人がまだ生きてゐるかのやうに思ふのが常であります。皆さんの中には、いまにも、どこか舞台の一隅から、あの元気な姿が飛び出して来はしないかと思はれるでありませう。しかも、その夢の世界からさめて、はツと現実の我にかへるとき、やるせない悲しみがむらゝゝ(※1)と胸中に起こつてまゐります。新聞によつて、はじめて澤田氏の死を知つた時と同じ心臓の鼓動を左の胸に感ずるのであります。
 私は澤田氏の病気を救ひ得なかつた今の医学をうらみました。かりそめにも私は医学を修めて、医学の力の果敢ないことをよく承知して居ります。けれども、三十何歳といふ働き盛りの、しかもかけがへのない尊い身体を救ふ方法がないといふのは、何といふ情ないことでありませう。運命といひ、又は寿命といふ、そんな言葉で、この際片附けられては、たまらないくらゐ、私は澤田氏に未練を持つのであります。
 私はかねて、如何なる方面に活動する人であつても、意志の強固な人に共鳴し、かつその人を尊敬するのであります。凡そ、現代人に共通した弱点のうち、最も著しいものは、意志の薄弱なことであると私は思ひます。ちやうど人力車が減つて行くやうに、現代人の意志が減退して行くのではないかと、私は案じるのであります。さうした人々の中にあつて、澤田氏は、鋼鉄よりも強固な意志をもつて、多くの苦難と戦ひ、見ごとに征服して進んで行きました。私は不幸にして澤田氏と個人的に交際をしませんでしたから、私の観察は誤つて居るかも知れませんが、意志が並々であつては、到底あれだけの事業をなしとげることは出来ないと思ひます。僅に頭角をあげるにも、何処かに非凡なところがなくてはなりません。いはんや一世の人気を一人に集めるにおいては、澤田氏は、非凡をもつて満たされて居たといはねばなりません。
 澤田氏は休息といふことを知らなかつたやうであります。さうして皆さんの中には、澤田氏が、今少し休息を心がけたならば、かくの如く早世せずに済んだであらうにと思ひになる方があるかも知れません。けれども私はさうは考へません。澤田氏にとつては活動するといふことが唯一のたのしみで、休息にまさる慰安を活動によつて得られたにちがひありません。活動を生命とするものにとつて、休息ほど苦しくもまた恐ろしいものはありません。それは私自身の心に引きくらべて、多少なりとも忖度し得るやうに思ひますが、とに角、その心持ちは、澤田氏の如き天才的活動家でなくては理解し難いであらうと思ひます。
 このやうな天才的活動家は、めつたに世の中にありません。だから、私は澤田氏の死を惜しみてもなほ余りあることに思ふのであります。たつた一人の死によつて世の中がげつそり寂しくなつたやうに思ひます。中江兆民はその著『一年有半』の中に、文楽座全盛時代の浄瑠璃をきいて、摂津大椽、大隅太夫の至芸に酔ひ、かゝる名人と同時代に生れたことを喜ぶと書いてをりますが、まことに名人と同時代に生れることだけでもすでに幸福でありますから、その名人を失ふことほど不幸なことはないのであります。澤田氏を思ふとき、私はこの兆民の言葉を思ひ出さずにをられません。
 けれども私たちは、いつまでも歎いてばかりをられません。逝いた人は再び生きかへりません。私たちは何とかして故人の霊を慰めねばなりません。さうして故人の霊を慰むべき唯一の道は、故人が基礎を築いた新国劇を立派な殿堂に仕上げるべく、及ばずながら力を尽くすことより外ありません。
 いま、新国劇の人たちは、背水の陣を敷いて、いはゞ血みどろの戦ひをなしつゝあります。故人の強固な意志が一人一人に宿つて居るかのやうに、本当にゝゝゝ(※2)御覧の通りの真剣な努力をなしつゝあるのであります。私は新国劇の「この一戦」に何とかして勝利の栄冠を得させたいと祈つてやみません。これは勿論皆さんとても同感であらうと思ひます。
 私は最後に、澤田氏の冥福を祈り、皆さんの御健康を祈つて、私の弔辞を終らうと思ひます。

これは、別項、長谷川伸氏の文中にもある通り、名古屋における三月二十七日新国劇の故澤田正二郎氏追悼講演会に小酒井氏は講演せられる筈であつたのが、病気のため出席せられず二十七日のその朝、重患の中にこの一文を草して代読させられたものである。その小酒井氏は、この一文を草してから僅々五日の後、氏自ら不帰の客となられた。この「澤田氏を悼む」の一文こそ小酒井氏の真に最後の絶筆である。

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。

底本:『サンデー毎日』 昭和4年4月14日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2021年11月9日 最終更新:2021年11月9日)