一九一〇年九月のある朝のことである。アメリカ、カリフォルニヤ州ロヂ町の郊外の森の中を通つた数人の農夫は、一台の幌なし自動車が、半焼けになつて、とある木陰に横つて居ることを発見した。
「や、大へんだ。自動車の中に、人間が焼け死んで居る。」
真先にかけつけた一人の農夫が顔色をかへてかう叫んだので、あとの男たちも恐るゝゝ(※1)近寄つて見ると、屍骸の大部分は灰になつて、僅かに胴骸の一部分が形を存して居るに過ぎなかつた。あたりには半焼けになつた乾草が散らばり、肉の焼けた臭と石油の臭がまじつて、何ともいへぬ不快な臭気が漂つて居たので彼等は思はずも顔を掩つた。自動車は勿論故意に焼かれたものであつて、素人眼にも恐ろしい犯罪が行はれたことはよくわかつた。若し前夜雨が降らなかつたならば、自動車も屍骸も共に灰になつてしまつたかもしれない。
「どうもこれはケルスさんの自動車のやうだが。」と一人がいふと、
「さういへば、この燃え残りの洋服もケルスさんのものらしい。」と他の農夫が答へた。
急報によつて駆けつけたケルス夫人は、直ちに、それが彼女の良人の自動車であることと、屍骸の着て居る洋服も、まさしく良人のものであることを認めた。
アレキサンダー・ケルスは、今年五十歳になる、ロヂ町での屈指の大富豪で、ロヂ町から十哩ばかり離れた所に、広大な牧場を持ち、其処に事務所が置いてあるので、時々自ら自動車を運転して牧場の見まはりに出かけたから、附近の農夫たちは、彼の自動車をよく見覚えて居たのである。
一方、ロヂ町の警察署からは、探偵長コルマーと助手スミス、写真師と警察医とが、時を移さず駆けつけた。現場の撮影が終つた後、探偵長コルマーは先づ現場附近の様子から取調べにかゝつたが、前夜の雨で手がゝりになるやうな足痕などは何一つ残つて居なかつた。次に自動車の上に指紋が残されてないかと捜して見たが、写真に撮影出来るやうなものは一つも発見されなかつた。
屍骸は自動車の腰掛台の下の所に横つて居た。頭部と上下肢は殆んど燃え尽して、あたりには白骨が散らばつて居た。それ故屍骸の身許を知るべき直接の手がかりは無い訳であるが、灰の中から出た金時計や鍵束や指環をケルス夫人に示すと、一目で良人のものだと断言したから、死んで居るのは間違もなくアレキサンダー・ケルスとわかつた。夫人の話によると、ケルスは昨日大金を紙入れに入れて持つて出たのであるが、燃え残りの洋服の中にもまた灰の中にも、それらしいものが発見されなかつたので、ケルスは多分強盗のために殺され、金を奪はれ、焼かれたものであらうと推察された。たゞ胸にも腹にも致命傷らしいものが見当らなかつたので、探偵長が頭部の灰をかきくづして見ると、やがて一個のピストルの弾丸が出た。而もピストルは何処にも見当らなかつたから、愈よ自殺ではなくて、ケルスは頭部を射たれて殺されたことが明かとなつた。
やがて屍骸が解剖に附されるべく、警察署から派遣された人夫によつて運び去られると、探偵長コルマーは周囲に垣を築いた見物人を遠ざけ、あまりに意外な出来事に呆然として居た夫人に向つて訊ねた。
「奥さんは昨夜御主人が御帰りにならなかつたのを不思議に思ひになりませんでしたか。」
「いえ、事務所に参りますときは、よく泊つて来るので御座います。」
「御主人はいつも自動車を御自分で運転なさいますか。」
「はあ。」
「先刻、御主人が大金を持つて御出かけになつたと御話になりましたが、どれ程御持ちでしたでせうか。」
「それはよく存じません。」
「ではどうして大金だといふことを御存じですか。」
「それは主人自身が出がけにさう申しましたから。」
「御主人は度々大金を持つてお出かけになることがありますか。」
「よく存じません。主人は平素あまり事務のことに就ては私に話しませんから。」
「では昨日、その大金を何に御使ひになるとは仰しやいませんでしたか。」
「はあ。」
「どうも有難う御座いました。」
その日の午後、探偵長コルマーは、事務室の机の前に腰をかけ、三時に始まる屍骸解剖と、ケルスの事務所に走らせた助手スミスの帰りを待ちわびつゝ、この事件に就て、深く思考をめぐらせて居た。現場の模様からして強盗殺人には間違ひないとしても、常習性の強盗ならば、金時計その他の貴重品に手を触れぬのは、珍らしいことであつて、なほ又自動車に火を放つて屍骸もろ共焼き払ふといふことも頗るおかしいことである。またケルスに(※2)自分で自動車を運転して居たのであるから、若し強盗がケルスを途上で要撃したのであるならば、屍骸を運転手台に置いた儘、火を放つて然るべきである。そこに何かの理由がなくてはならない。そこで第一に考へらるゝことは、ケルスが森の中へ来たとき、強盗団は木陰から躍り出て自動車をとゞめ、然る後ケルスを引摺り下して一発のもとに殺し、金を奪つて屍骸を自動車の腰掛台の下の所に運び、然る後犯跡を晦ますために火を放つたのであるかもしれない。第二に考へらるゝことは、ケルスに遺恨あるものがケルスを殺し、憤怒のあまり屍骸に色々の侮辱を加へ、然る後自動車もろ共焼き払ひ、毒喰へば皿までといふつもりで、所持の金をも奪つたのであるかもしれない。第三に……かう考へて来たとき、室の時計が三時を報じたので、彼は解剖室へと急いだ。
屍体解剖の結果も、これといふよい手がゝりを齎らさなかつた。焼け残つた屍体のことであるから、死後の経過時間を明かに判断することは出来なかつた。血液中に一酸化炭素が証明されなかつたので、屍体は殺された後に焼かれたものであるとわかつた。頭と四肢とが焼け落ちて居るから、屍体の年齢を判断することは出来なかつたが、凡そ五十歳前後と鑑定され、又栄養状態も良好であつた。胃腸の解剖の結果、胃の中からは、よく消化されて居ない二三個の葡萄が出たばかりであつた。年齢の点、栄養の点がケルスに一致したので、屍体はケルスであらうと推定され、やがてケルス未亡人に引き渡されたのである。
探偵長コルマーは屍骸解剖の結果が、あまり多くの光明を齎らさなかつたのに軽い失望を感じ、助手スミスの報告を今か今かと待ちかまへて居た。
夕食が済み、時計が九時を打つてもスミスは帰らなかつた。十哩も隔つたケルスの事務所へ行くのであるから、時間のかゝるのも無理はないと思つた。丁度時計が九時半を示したとき、スミスはにこゝゝ(※3)しながら、探偵長の室に入つて来た。
「先生、面白いことを聞いてきました。」かう言つてスミスはその日の捜索の結果を物語り始めた。
ケルスは昨日十時頃事務所へ来て、昼飯をとり、いつも事務所へ来るときは、一泊するか又は午後六時頃迄居る習慣であるのに、昨日に限つて午後三時頃急用が出来たといつて帰つて行つたが、別にこれといふ変つた様子も見られなかつた。何か特別な用事があつたのかと訊ねて見ても誰も知つて居るものはなかつた。従つてケルスが何故大金を持つて出たかを説明し得るものは一人もなかつた。
事務所を出たスミスは沿道に牧畜に従事して居る人々に、ケルスのことをたづねたが、たゞケルスの横死に非常に驚くばかりで、この事件に手がゝりになるやうなことを告げ得るものは一人もなかつた。その附近一帯はケルス所有の広大な牧場であつて、沢山の牛の群が暖かい風に吹かれて呑気さうに遊んで居た。スミスが逢ふ人ごとに根気よくケルスのことを訊ねて来ると、やがて、その一人は、ケルスが昨日帰りがけに。(※4)牧場管理人のチヤーレスを呼び寄せ、運転手台に並び腰かけさせて走り去つた旨を告げたのである。
チヤーレスは丁度三ヶ月前に、ケルスが自分で連れて来て、牧場で働かせることにした男であつて、ケルスと同じ位の年輩の独り者で、無口ではあつたが忠実に仕事をした。彼が何処の生れで、どういふ手順で雇れて来たのかは、彼の下宿して居る家の主婦さへ知らなかつた。彼はこちらへ来てから、夜一度も家をあけたことはなかつたのに、昨夜に限つて帰つて来なかつたと、その主婦はスミスに語つた。
この手がゝりに力を得たスミスは、ケルスが通つたらしい沿道を訪ね来ると、ロヂ町の一つ手前の町で、ケルスが昨夜ある料理屋で食事をしたことを聞き出したので、早速その料理屋を訪ねると、入口に近い計算台に居た女は、ケルスが、昨夜八時頃、自動車を街に置いて入つて来、何やら喰べて再び出て行つたことを物語つた。
「二人一しよだつたでせう?」とスミスが訊ねると、
「いゝえ、ケルスさんお一人でした。」と女は答へた。
「では自動車の中に誰か待つてて居なつ(※5)たですか。」
「いゝえ、そとを眺めて見ましたが、自動車はたしかにからでした。」
「ケルスさんの給仕をしたボーイは居りませぬか。」
生憎そのボーイは用事があつて外出し、行先がわからなかつたので、スミスは料理屋を出て、一先づ探偵長の許に帰つたのである。
「いや御苦労だつた。いゝことをきいて来てくれた。それで君はこの事件をどう思ふ。」とコルマー探偵は訊ねた。
「どうもそのチヤーレスが怪しいと思ひます。」
「怪しいとはどういふ意味かね!」
「つまりチヤーレスがケルスの加害者でないかと思ひます。」
「ふむ」とコルマーはぢつと考へこんで言つた。「然し、ケルスがその料理屋へ来たときには、チヤーレスはもう居なかつたぢやないか。」
「さうです。チヤーレスは恐らく途中でケルスにわかれ、ケルスが食事をして居る間に、先廻りして森の中にかくれ、自動車を襲つたのではないでせうか。」
「さうだね。チヤーレスは昨日下宿へ帰つて来なかつたのだから、或は金を奪つて逐電したかもしれない。兎に角、チヤーレスの行衛を調べることが最も肝要だ。それにしても料理屋のボーイに逢へなかつたのは残念だつたね。」
「明日行つて逢つて来ます。」
「いや、料理屋へは僕が行くから、君は明日ケルスの関係銀行を訪ねて、どんな財政状態だつたか調べて来てくれたまへ。」
翌日探偵長コルマーは拠ない差支が出来て午前中役所に留まつたが、午後早々ケルスが一昨夜食事をした料理屋を訪ねた。幸にもケルスに給仕したボーイが居たので、彼は色々のことを訊ねた。ケルスはこの料理屋とは馴染であつて、その夜別に変つた様子もして居なかつたとボーイは告げた。
料理屋を出た探偵の顔には少なからぬ満足の色が浮んで居た。彼はその足でケルス未亡人を訪ねると、午前中に行はれた葬式に疲れたものか、喪服を着た夫人の顔は非常に蒼ざめて見えた。
「誠にとんだことで御座いました。かうした御取込の中で甚だ恐縮で御座いますが、二三御訪(※6)ねしたいことがあつて参りました。」
「何なりともどうぞ。」
「御主人の御様子に近頃何か変つたことは御座いませんでしたか。」
「何だか落つかなかつたやうで御座います。時々、いつ殺されるかもしれぬなどと申して居りました。」
「すると誰かゞ脅迫でもして居たので御産(※7)いませうか。」
「それはよく存じませんが、そのためか丁度一ヶ月ばかり前に生命保険に加入しました。」
「いくら程御加入になつたか御承知で御座ま(※8)すか。」
「五万弗です。」
「受取人は?」
「私です。」
「恐れ入りますが御主人の御居間に案内して頂けませぬでせうか。」
「宜しう御座います。」
居間には大きな机が一つと椅子が二三脚あつて、傍の壁には金庫が作りつけてあつた。探偵は夫人の許可を得て、机の抽斗や金庫の中を調べたが、別に脅迫状らしいものはなく、金庫の中には十数枚の株券があつたが、現金は更に見当らなかつた。
「御主人はピストルを御持ちでしようか。」
「はあ、以前から一挺持つて居ましたが、近ごろまた、町で自働ピストルを買ひました。」
「それを御買になつた店を御存知ありませぬか。」
「存じません。」
「近頃になつて御宅へよく出入りする人は御座いませんか。」
「別にありません。」
「牧場で御使ひになつて居るもので近頃度々御伺ひするものは御座いませぬか。」
「あゝチヤーレスですか。仰の通り時々参りました。」
「どういふ用事で来ましたでせうか。」
「それは存じません、何でも主人が三ヶ月ばかり前に。(※9)町の口入屋から見立てゝ連れて来たのでして、非常に正直だといつて喜んで居ました。」
「その口入屋を御存じでせうか。」
夫人が口入屋の名を知つて居たので、探偵はそれを手帳に書きとめた。
「チヤーレスがどうかしましたか。」と夫人は不安気に訊ねて。
「実は一昨日御主人が事務所からの御帰りがけにチヤーレスと御一緒に自動車に御乗りになつて居たさうでして、チヤーレスはその晩下宿へ帰らなかつたといふことです。」
「まあ、まさか……」と夫人は眼をむいて驚き乍ら叫んだが、意外の報告に言葉を続けることが出来なかつた。
「チヤーレスはそんなに度々参りましたか。」
「度々と申しましても月に三度位の割でした(。)(※10)」
「いつも参りますと長く居リ(※11)ますか。」
「いゝえ、三十分ばかりで必ず帰りました。」
「何かチヤーレスに怪しいことはありませぬでしたか。」
夫人は暫く考へて居たがやがて言つた。
「別に怪しいことはありませんでしたが、最後に参りましたとき、私が庭に居りましたのに挨拶もせずに怒つた顔して帰つて行きましたから、どうしたのですと、あとで主人にきゝますと、何でもないといつて相手にもなりませんでした。」
「一昨日御主人はチヤーレスに逢ふとは仰しやいませぬでしたか。」
「はあ。」
「色々どうも有難う御座いました。」
かういつてコルマーはケルス邸を辞し、直ちに町の口入屋を訪ねた。口入屋の話によると、ケルスは今から半年も前から、牧場の管理人を捜して居たが、どうもケルスに気に入つたのがなかつたところ、三ヶ月前にチヤーレスを紹介すると、一目で気に入り、別に委しい身許調べもせずに雇ひ入れたのであるから、彼が何処の生れであるか、又過去にどんな仕事をして居たのか知る由もなかつたのである。
口入屋を出た探偵は、次にとある銃砲店を訪ねた。狭い町のことであるから他に沢山の銃砲店はなく、運よくもそれがケルスに一ヶ月前ピストルを売つた店であつた。探偵はそのピストルの番号を聞いてハツと思つた。といふのは屍骸の頭部から出た弾丸と、ケルスの買つたピストルとが一致して居たからである。若しチヤーレスがケルスを殺したとすれば、彼はケルスと並び乗つて居るときに、ひそかにケルスのポケツトからピストルを奪ひとつたにちがひなかつた。
探偵が愈よ満足して役所に帰ると、助手のスミスもまた満足さうな顔をして探偵長を待つて居た。
「どうだぬ(※12)、銀行の方は?」
「ケルスさんの関係して居る銀行は三つありますが、三ヶ月前から度々大金が引き出され、いつも小切手を持つて来るのが、どの銀行でも同じ男だといひます。」
「チヤーレスだらう。」
スミスは驚いて探偵長の顔を見つめた。「どうしてそれを?」と彼は息をはづませて訊ねた。
「チヤーレスでなくてはならぬからさ。」かう言つてコルマーは、ケルス未亡人、口入屋、銃砲店で聞いて来た委細を物語つた。
「ではやつぱり、犯人はチヤーレスですね。この上は一刻も早く彼の行衛を捜さねばなりません。」と、探偵の話を聞き終つたスミスが言つた。
コルマーは暫く考へて居たが、やがて徐に口を開いた。
「さうだ。チヤーレスの行衛を捜すのが最も肝要だ。」
チヤーレスの行衛は然しながら、とんとわからなかつた。事件を担当したコルマーとスミスは別に苛々した様子もなく、何やら頻りに活動して居るらしかつたが、二人以外には何事も洩らさなかつたので、警察署内でも二人がどんな方針でチヤーレスを捜してゐるのかを知つて居るものはなかつた。
二週間過ぎ、一月たち、三ヶ月を経たけれどもチヤーレスの行衛はさらにわからなかつた。始め頻りに警察の無能を攻撃した新聞も、近頃はもう何も書かなくなつて、迷宮に入つたケルス殺害事件は、漸く人々から忘れられやうとした。
すると十一月上旬のある朝、ロヂ町の人々は次の新聞記事を読んで、大に驚かされたのである。
ケルス事件の犯人逮捕さる。
本年九月、ロヂ町を騒がせたアレキサンダー・ケルス殺害事件は、一時迷宮入りを伝へられたが、昨夜ユーレカ町停車場に於て、意外にも殺された筈のケルスが、事件の犯人として、探偵長コルマー、助手スミスの両氏によつて逮捕された。コルマー探偵長は事件の当初から、ケルスを怪しいと睨んで居たが、ケルスを逮捕するために、わざと牧場管理人チヤーレスの行衛を捜索して居るやうに見せかけて居たのであつて、自動車の中に殺され焼かれて居たのは即ちチヤーレス自身であつた。ケルスは警察に送らるゝなり、犯行の顛末を一切自白したが、それによると、ケルスは単に夫婦生活を始め、現在の単調なる生活に厭気を生じたゝめに、姿をかくし新らしい生活を営みたいと思ひ、替玉になるべき犠牲者を物色中、丁度、年齢、体格のよく似たチヤーレスを見つけたので、直ちに之を雇ひ入れ、先づ彼の手によつて銀行から幾回かに預金を引出さしめたのであるが、チヤーレスはケルスの行為を怪しと睨み、遂にケルスを脅迫するに至つたので、銀行から充分金を引出さぬ先に、チヤーレスの殺害を行つたのである。その朝ケルスは事務所を訪れ、午後、用事ありとてチヤーレスを同乗せしめ、途中人なき所で、一発のもとに射殺し、屍体を腰掛台の箱の中にかくして、大胆にも料理屋へ入つて食事し、後ロヂ町の手前の森に来て自動車をとゞめ、屍体の衣服と自分の衣服を取りかへて、所持の品を屍体につけ、深更まで待ちて、附近の乾草を集め、石油をかけて火を放つたのである。そして、かねて引出して置いた金を懐にしてテキサス州に走つたのであるが、犯人に通有な性質として、犯行の場所を見たいといふ念にかられて出かけて来たのを張込中の探偵に逮捕されたのである…………。
× × × × ×
ケルス逮捕に殊勲を建てたコルマー探偵長は、ある日助手スミスと対座して、この事件の話を始めた。
「先生は始めからケルスを怪しいと思つて居られたのですね。」
「自動車と屍体が焼かれてあることゝ、自動車の中の屍体の位置とを見たときに、おかしいと思つたよ。然し僕も料理屋のボーイに逢ふ迄は確信を得なかつたのさ。ボーイに、ケルスさんは何を喰べるかときいて、鰯の鑵詰を御たべになりましたと答へられたとき、僕はとび上る程うれしかつたよ。屍体解剖の結果、胃の中には二三の葡萄があつたのだからね。して見ると屍骸はケルスではなくてチヤーレスにちがひない。かう思つて未亡人……いやケルス夫人に逢ふと、ケルスが最近、殺されるかもしれぬといつて居ることをきゝ、更に口入屋では、ケルスが、身許もよく調べずに年齢、体格のよく似たチヤーレスを雇ひ入れたことをきゝ、最後に銃砲店で、屍骸の中の弾丸がケルスのピストルから出たといふことを知つて、愈よたしかになり、更に君から、ケルスがチヤーレスに金を引き出させて居たことを聞いて、動かぬ確信となつたのだよ。然し、何といつてもこの事件に確定的の証拠を与へてくれたのは鰯の鑵詰だよ。」
「それにしてもケルスもよほど注意深く計画したものですね。若し鰯を食はなければ、どうしてもチヤーレスが加害者としか考へられませぬから。」
「どんなにうまく計画した殺人でも、どこかに手ぬかりはあるものだよ。殺した屍骸を自動車にかくした儘料理屋へ入るなど、よほど大胆だが、その大胆がつまり禍したのだね。」
「犯行の現場へ立ち廻つて来るのも、さういへば大胆ではありませんか。」
「それは大胆といふよりも、殺人者に共通な心理だよ。つまりその心理を応用したればこそ逮捕が出来たのだ。犯人の推定だけは、すぐれた推理と観察の力で出来るが、犯人を逮捕するのは、どうしても天の力を借りなければならん。今回のことも、全く天のお蔭さ。」
(完)
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)(※5)原文ママ。
(※6)原文ママ。
(※7)原文ママ。
(※8)原文ママ。
(※9)原文ママ。
(※10)原文句読点なし。
(※11)原文ママ。
(※12)原文ママ。
底本:『新小説』大正13年6月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細集成 1924(大正13)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2005年7月16日 最終更新:2017年9月29日)