大正十四年の冬頃から、名古屋市中区G町に住む某電力株式会社員山尾杉太郎方及びその弟なる中区N町の桶製造職山尾廣次郎方に誰とも知れず無名の葉書を送るものがあつた。十二月八日、弟廣次郎の受取つたのは、
『親が居なきやうれしかろ、丸髷結はしてうれしかろ、間夫に出来た子でも可愛かろ、ドしみつたれで手癖が悪く、昼からぜんざいの買ひ喰ひはよせ、鍋喰ひもよからうよ、せいだして可愛がれ妻ノロジー』
とあつて、男の筆蹟とも女のそれともわからなかつた。当時廣次郎は三月に結婚した絲子と同棲中であつて、葉書の文句はたしかに絲子を中傷したものらしく、誰かのいたづらかも知れぬと思つてそのまゝにしておいた。
それきり廣次郎は無名の手紙を受取らなかつたが、翌大正十五年になると、兄の杉太郎方へ無名の手紙が度々舞ひこむに至つた。それは主として杉太郎の細君の悪口を書いたもので、『お前の嫁を追ひ出せ』とか、『お前の嫁は悪い事が知れたので本家へ来ぬげな、本家の金を盗んでは顔向けなるまいて云々』といふやうな文句であつたが、四月二十一日附の葉書には、『お袋は祈らないでも後三月で死ぬぞ、お前の内のもの三人は祈り殺すからそのつもりで居れ、訳あつてこれきり端書はやらぬぞ、お前の嫁を先に死なせてやるは、お前の内のものゝ為にどの位難儀してるかわからないのだぞ、その恨(うらみ)でも大きいぞ、お前の内の者誰も医者へかゝつても直らないぞ。』と、鉛筆で書かれてあつて、明かに脅迫の文句に変つて来たけれど、『これぎり端書はやらぬぞ』とある故、別に警察へ届けもせずに過してしまつた。
杉太郎は当時三十五歳、妻貞子(二十五歳)との間に六歳をかしらに三人の子を儲け、月給百円を受けて借家三軒を持ち、肺を病む末弟を同居させて居たが、夫婦仲は至つてよく、近所の風評も極めて良好で、平和な家庭を営むで居た。因に両親は弟廣次郎の家即ち本家に居住して居た。
さてその後百日あまり、何ごともなくすんだが、八月になつて、突如として杉太郎の妻貞子宛に、無名の脅迫者は端書を送つた。それには、
『山尾の婆(ばゝあ)は本家の嫁を追ひ出すことが出来ないので此度はお前を追出しに行つたぞ云々』とあつたが、次で廣次郎方についた葉書には、『お前もよほど意気地のない奴だ、自分の孫まで殺さうとする親だ、かもうものかやつつけてしまへ、後がせいゝゝ(※1)するぞ、グヅゝゝ(※2)して居ると、お前まで婆(ばゝあ)のために殺されるぞ』とあり、更にその後杉太郎宛の葉書には『(前略)貴家が一家のことを思ひ、細君は気の毒なれど離別したまへ(中略)そのまゝで居るときは気の毒だが一家は全滅だぞ』とあつた。
けれども両家ともまだ届出はしなかつた。十月になつて弟の廣次郎が、妻の絲子を、両親の気に入らぬために離縁し、翌昭和二年一月、市内の某料理店の酌婦本田花子を後妻に迎へることになると、兄杉太郎のもとに次の如き無名の葉書が舞ひ返(こ)(※3)んだ。
『オレの××したモカが嫁入りするので、何処へときいたらN町の桶屋だといつた、モカ位がよく似合ふぞ、お前の嫁ももとはモカだろ、家中モカヽヽ(※4)でよからう云々』としてなほ終りにエロチツクな文句が附け加へてあつた。さうして当の廣次郎へは、
『モカと××したいばつかりに嫁をいぢめだし、子供を干し殺すとは、貴様は余程大馬鹿野郎の助平爺(すけべいぢゝい)だな、三十にもなつたらしつかりしろよ』といふ葉書が着いた。
なほ、後妻にならうとする本田花子も葉書を受取つた。
『貴様は子の二人も置いて行く後に恨(うらみ)の残るのを知らんか、オレは山尾に恨(うらみ)があるものゆゑ、貴様が行けば生命(いのち)を取るからそのつもりで居れ、貴様に男のあることもオレは知つとる、山尾家は今に皆殺しにしてやるのだ、貴様も片破れになるぞ、今に兄嫁もきちがひにしてやる、貴様も生命(いのち)が惜しけりや考へよ』
然し結婚式は滞りなく行はれた。すると兄杉太郎に、
『貴様はよくもお花を引張つて来たな、オレに勝てると思ふと大馬鹿だぞ、今に貴様の息の根をとめてやるわ、オレの魔の手が一年後に動くか三年後に動くかそのときを頼みにして居れ、オレの恨(うらみ)は天まで届いて居るわ云々』当の廣次郎には、同じやうな脅迫をかねたエロチツクな葉書が届いた。
二月十七日午前、杉太郎方では春季大掃除のため、家人は二階に上つて居たが、その隙に何ものかゞ新聞紙片に墨書きで、
『オハナノマブヨリオレイシテアゲル、マダボカボカ』と書きそれに人糞を包んで勝手場の戸棚に置き、同所にあつた四円在中の財布を盗んで行つた。
そこで杉太郎は遂に堪忍袋の緒をきらし、M署へ訴へ出たのである。
M署から直ちにF刑事名(ほか)(※5)三名が出張して捜査に取りかかつたところ、妻の貞子はこれまでの脅迫状を一束にして渡しながら、委しく事情を物語つたので、刑事たちは一先づ引き上げ、山尾一族に怨恨をいだくものゝ所為であらうと思ひ、その方の探索に取りかゝつたのである。
ところがその翌日、杉太郎の妻貞子はわが家の入口に良人の勤めて居る会社の請求書が落ちて居たので、何気なく拾つて見ると、その裏に、鉛筆で、
『ポリに言やがつたな、(中略)貴様はこれまでまあ大目に見てやるが、廣の奴はまだ材木が濡れとるで、よくかわきあがつた時に焼いてやる。婆(ばゝあ)に早くくたばるやう薬を加減してやれよ云々』と書かれてあつたので、貞子が同居の弟に見せると、弟はびつくりしてM署に届けた。
と、その夕方、更に入口に、
『何時(いつ)でも燃える様によくかわかして置くやうに廣に言つて置け云々』といふ紙片が発見されたので、警察では、山尾一家の内情と親戚関係、廣次郎の先妻絲子の動静、後妻花子の情夫関係について精細に調査をすゝめることになつた。
すると、こんどは廣次郎方へ脅迫状が舞ひ込むに至つた。二月二十六日には、『早くかわかしとけよ、よもや忘れめえな、四年前に俺に何と言つたか、兄夫婦が居なきや嫁を離縁せずに済むが、何言つても兄が居るので困るといやがつたろ、忘れめえな、それでも俺は前田の家に火をつけてやつたのだ、二千円出せばまあよいが、出さなきや一年後か二年後に火の礼をやる』と鉛筆書きの葉書が来たので、警察は、三月一日、廣次郎の先妻絲子が当時市内に奉公して居るのを拘引して問ひたゞしたところ、案外たやすく脅迫状の数々は自分の所為であると白状し、廣次郎一家をうらむのあまりに行つたことだと説明した。なほ前記脅迫状中の前田とあるのは廣次郎の近所で、廣次郎の懇意にしてゐる家であるが、昭和元年十二月二十八日の夜にたしかに前田方に放火した旨を自供したのである。で、検事は直ちに絲子を起訴し、こゝに山尾一家ははじめて安堵の胸を撫で下すに至つた。
ところが絲子の予審中である三月二十九日、山尾廣次郎は再び例の脅迫状を受取つた。
『冷(すゞ)しい顔しやがつて、俺の居るのを知らぬか、いちやいちやしやがつて、モカの××もさぞよかろ、絲は不幸にしてつかまつてやがるが、俺はそんなヘマはやらぬぞ』
驚いたのは廣次郎よりも司直の人たちである。さては絲子は誰か看守のうちに腹心ものでもあるのかと、警戒して居ると、四月九日に廣次郎は又もや脅迫状を受取り、更に五月十七日厳重な警戒の眼をくらまして脅迫状が廣次郎に達し、それと同時に絲子は自供を翻したので、予審判事は、脅迫状の主(ぬし)は他にありと見込んで絲子の身柄を釈放したのである。
警察は再び捜索に着手したが、何ものとも知れなかつた。すると、十月二十三日の午前中、杉太郎の隣りにある同人所有の空家に二回まで放火したものがあつた。火は大事に至らず消しとめられたが、翌二十四日の午前十一時頃杉太郎の妻貞子が裏へ出た僅かの隙に仏壇の抽斗にあつた二十円の金を窃取し、なほ二女M子(三歳)の毛髪を切つて逃走したものがあつた。
越えて二十九日杉太郎方で四十円の金が盗まれた。すると、十二月二十八日午前九時頃弟の廣次郎方の勝手場に放火したものがあつたが、ちやうどその場に居合せた杉太郎の妻貞子が発見して大事に至らなかつた。
昭和三年一月二十五日杉太郎方の仏壇の抽斗にあつた六十五円と庭にあつた下駄一足が盗まれた。さうしてその翌日投書があつて、例の如きおどし文句と、窃盗のことが書かれてあつた。
で、警察では、やつと、考へて見ねばならぬことを考へるに至つたがなほ適当な時機を待つて居ると、一月三十日の午後二時頃、何者かゞ突然杉太郎方に侵入して、勝手場に居た貞子の頸をハンカチでしめ、貞子を昏倒せしめて逃走し、出外(ぐわいしゆつ)(※6)先から帰つた弟が之を発見して届け出たので、警察の人々が直ちに出張して訊問すると、貞子は、『(※7)まつたく見たことのない人でした。』
と答へた。まつたく貞子の知らぬ男が、あのやうに山尾一家の事情を知る筈がないのと、なほ貞子の頸の圧痕が極めて軽微で、医師の鑑定では、昏倒する程度でないといふことであつたから、貞子を問ひつめたが、貞子は頑として主張をかへぬので、一先づ帰宅せしめることになつた。
が、警察では、今はまつたく貞子を怪しとにらみ、その日から杉太郎の向側の家の二階を極秘に借りて、貞子の行動を昼夜監視することにしたのである。
二月三日午後五時頃、貞子は表庭で新聞紙片に書いた脅迫状を発見したと届出た。それには、『五日午後十一時迄ニ若宮境内マデ金一千円持参セヨ、若シ刑事ニ云フト一代貴様ノ家ノウカバヌ様ニシテヤルゾ』と書かれてあつた。看視員はその時間に同家に出入りした者がないことを知つて居たので、いよゝゝ(※8)貞子を怪しいと思ひ、遂に最後の実験を試みることにした。
二月六日午前九時頃、刑事は杉太郎方に出張し、昨夜(ゆうべ)若宮境内を警戒したが誰もあらはれなかつた旨を告げ、なほ念のために警戒を続けたいから杉太郎とその弟に一しよに来てほしいと言つて誘ひ出し、そのあとで、監視員は厳重に貞子の動静をうかゞつたのである。
かくとも知らず貞子は良人たちが去るなり、間もなく二階の障子をあけて、外部を見廻はしたが、直ちに下に降りて表庭にヒラリと紙片様のものを投げ出した。二人の看視員は直ちにかけつけて拾ひあげると、それは杉太郎の名刺であつて、その裏に、
『犬ヲゴロゴロツレヤガツテ大バカヤロウ、其テニノラヌワイ、オトナシヅクデコイ、一千円ガ惜クバソレデヨイ』
と書かれてあつた。絶体絶命である。その名刺をつきつけられて、貞子は恐れ入つてしまつた。かくて三年にわたる謎は完全に解かれたのであつた。
これだけ書いて気がつくと、はや予定のページ数を越えて居る。この事件は最近の日本に起つた女性犯罪のうち最も興味ある一つで、筆者は他日委しくこれが記録を行ふつもりである。人物の名はわざと変名にして置いたが、あとのことは警察の記録によつたもので、畏友コ増氏の好意に感謝する。
犯罪の動機については色々に考へられるが、これは検事局の記録を拝見した上で判断したいと思ふ。たゞ以上の記述で、女性犯罪の特種な点だけは書き得たつもりである。
因に貞子は幾年かの懲役に処せられ執行猶予となつた。
(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)(※6)原文ママ。
(※7)原文括弧なし。
(※8)原文の踊り字は「く」。
底本:『新青年』昭和4年3月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年6月9日 最終更新:2017年6月9日)