新年号所載のすべての作品について感想を述べるべきであるけれど、今その悉くを読む暇がなく、編輯者の註文によつて、「押絵の奇蹟」と「悪夢」とについて書くにとゞめる。
最初雑誌を手にしたとき、多分江戸川氏がかねて「押絵云々」の小説を書くといふことが先入主となつたのだらう。ばらゝゝ(※1)つと最初の部分のページを繰つて、各頁の上部にある小見出しを読み、さらに、その分量の甚だ多いのを知つて、江戸川氏の近頃の精力は大したものだとびつくりしてしまつた。さうしてその時、ふとヒポクラテスといふ文字が目につき、「おやツ」と思つてそのあたりを読むと、例の妊娠時の印象に関する説話である。
さてはこれがこの物語の中心となつて居るのだなと思つて、最初のページを読んで見ると、「夢野久作」とあるのに二度吃驚(びつくり)した。さうして、これはいけないことをしたと思つた。
といふのは、探偵小説に於て物語の中心となつて居るタネを知ることは禁物だからである。
ところが江戸川氏の小説はたとひタネがわかつて居ても兎に角作品の持つニホヒに魅せられて読まずに居られないが、一般の作品は必ずしもさうと限らない。
で、私は「押絵の奇蹟」の作者に対してはなはだ済まぬことをしたとさへ思つたのである。
けれどもそれは杞憂に過ぎなかつた。いかにも初めの部分を読んだときに全体の筋書は朧ろげながら知れてしまつた。それにも拘はらず、あれだけの長篇を一気に読ませた作者の筆は決して凡庸ではないと思つた。
たしかに探偵小説壇近時の大きな収穫の一つに数へてよい。
ただ私がこの作に必ずしも随喜の涙を流し得ぬのは、押絵の美がどの点に存在するかといふ疑念があるからである。
私は押絵といふものをよく知らない。けれども人形師が人形の顔に苦心するほど、押絵師が似顔に全精力を注ぐものかどうか、を疑ふものである。従つて、この作品に於ては、折角の押絵が恋の仲介をつとめて居るだけに過ぎぬやうであつて、押絵そのものが、怪奇の中心となつては居ないのである。
無論作者はその意図ではなかつたかも知れぬが、題名と内容とがぴつたりしない感がある。
「悪夢」は江戸川氏一流の作品である。ポオの The man who was used up. を思はせる怪奇小説である。ポオや亂歩に取り扱はせねばをさまらぬ題材である。ただここで一寸書いておきたいことは、ポオの怪奇小説は、皆が皆さうではないけれども、どこかにユーモアがにじみ出て居ることを感じないでは居られない。それが時としては一層物凄さを増させる。
江戸川氏の作品は必ずしもさうでなく、題材の取扱ひ方があくまで厳粛である。厳粛であるがために却つてユーモアを感じさせることがある。
が、何といつてもみなみなユニツクな作家たちである。
(※1)原文の踊り字は「く」。
底本:『新青年』 昭和4年2月
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2024年12月16日 最終更新:2024年12月16日)