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小酒井不木氏の 一時間健康法

 一日のうち、一時間を利用して健康のためはかると言ふ事は、何人にとつても必要なことであらうと思ふ。けれども人によつて境遇も違い生活状態も異つて居るから、健康のために一時間を利用し得ない事情にある人もあり、又慢性病にかゝつて療養生活を営んで居る人などは終日健康のために費して居るので特にその内の一時間を利用する必要がない様に思はれる。
 真に健康な人は健康の事など少しも考へないでいよゝゝ(※1)健康に暮して行き、不健康な人は健康のことを考へ詰にして尚且つ不健康を嘆いて居る。然し、真に健康な人でも一日のうち一度ぐらゐは自分の健康状態について反省してみる必要はあると思ふ。反対に不健康の人は一日に一度ぐらゐ、健康について考へない時間があつてほしいと思ふ。
 健康法と言へば誰しも先づ散歩とか運動とかを考へるであらうが、忙しい人は多くさういふことをする時間を持つて居らぬ。故に一時間健康法なるものは仕事をしつゝあつても又他人と応接しつゝあつても出来るものでなくてはならぬと思ふ。が幸ひにしてそれに適した健康法がある。それ故私はそれを皆さまにおすゝめしたいと思ふ。
 それはどんな事かと言ふに、臍下丹田に力を入れて、その部分で腹式呼吸の様に運動を営む事である。臍下丹田に力を入れる事は人間が永い間経験して得た最も安全な最も確実な健康法であり、それは単に人間の身体を健全にするばかりでなく人間の精神をも健全にする、かの禅家の坐禅が即ちこれで、臍下丹田に力を入れて物ごとを考へる時は血液の循環がよくなり、頭脳も明快に働くのである。尤も私は坐禅のことは知らぬから坐禅の効能を説く資格はないが、とにかく臍下丹田に力を入れて腹壁ことに下腹壁を強健にする事はその人の心身を強健に導く機縁となると思ふ。
 従来よく腹式呼吸が健康を増進せしめるやうに言はれて来た、又何々静坐法なるものが健康法として推奨された。その形式は違つても下腹に力を入れこれによつて呼吸の際の腹壁運動を行ふことは健康を増進するに役立つことが多くの人によつて経験されたのである。
 故に私は一時間健康法として、之を推奨したいと思ふ。静坐する余裕のある人は静坐して行ふのもよろしいけれど、さもない人は外出先でも事務を執りながらでも、また歩きながらでも、或は寝て居りながらでも行ひ得る。必ずしも呼吸と調子を同じくする必要はないのですから他人と談話しながらでも出来るのである。
 外出先で薄着のため寒さを感じたやうな時、下腹の運動を暫くつゞけて行ふと全身が汗ばんで来る。天気の加減で気分がふさいだ時など之を行ふと気が晴々として来る、悲しい時心がいらゝゝ(※2)した時之を行ふといつの間にか悲しさを忘れ気分が落ちついて来る。
 下腹の運動であり乍ら、全身の血行をよくするから室内に居ても散歩したと同じ効果があり、雨が降つてテニスをやつたと同じ効果がある。故に之は(※3)どんな多忙の人にも行ひ得るのである。
 又慢性病で床について居る人など、下腹部に重い病気を持たぬ限りは之を行ふ事が出来る。前述の如く慢性病者はその病気を一時なりとも考へない時間を作らねばならぬが、この下腹部の運動を行つて居るとその内病気を忘れる事が出来、従つて之は慢性病者にとつても欠くべからざる健康法である。
 仕事をやつて疲労を感じた時、ぼんやり休息するのは一つの消極的の方法で、この消極的方法の代りに下腹部の運動を行ふと再び気力が恢復してすぐに仕事に取りかゝれる、それ故私はあらゆる人にせめて一日に一時間臍下丹田に力を入れて下腹の運動を行つて貰ひたい(。)(※4)之は成るべく空腹時に行つた方がよい。(婦人画報より)

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文句読点なし。

底本:「心霊医学」1929(昭和4)年4月20日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2020年4月17日 最終更新:2020年4月17日)