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不木軒漫筆(遺稿)

三昧境

 戯作ではどうしても三昧境に入り得ない私も、実験室ではすぐに、三昧境に入り得るので、過去半ヶ年ばかり久し振りで楽しい生活をして来た。冬中は寒さが厳しく、煖房装置が不完全だから、一時実験を中止したが、暖くなり次第試験管いぢりを始めようと思つて居る。
 一つの疑問の現象を捉へて、かうではあるまいかと推定してその実験を行ひ、その推定が証明された時ほどうれしい事はない。まさしく探偵が犯罪の謎を解いたときと同じ喜びである。のみならず、推定が全く予期に反して(※1)居た場合にも、却つて新らしい現象に導き入れられるので、どちらにしても嬉しいづくめである。よく「魂を打ちこむ」といふ言葉がつかはれるが、ある仕事に故意に魂を打ちこまうとするよりも、自然に打ちこまされてしまふといふのが、本当に「魂を打ちこむ仕事」ではあるまいか。私にとつて血清学研究はどうやら魂を打ちこまされる仕事であるらしい。
 たゞ、今のところ、余技をもとでに生活して行かねばならぬのが苦しいけれども、これはどうも致し方がない。従つて研究専門になり得ないので、当分は鳥とも獣ともわからぬやうな蝙蝠式の生活を続けるであらう。さうしてことによつたら蝙蝠式が自分の本性であるかも知れない。昼間寝て居て、夜になるとうごめき出すところなどすでに形だけはさうなのだ。

影響

 新聞に自分の文章や意見が発表されると、未知の人から手紙が来る。その手紙の数によつて反響の程度がわかるが、一月中旬大阪朝日新聞の「黎明をうたふ」欄に発表された私の言葉は、随分反響が多かつた。
 その反響には二種類あつが(※2)、一つは肺病に関し、もう一つは大衆文芸に関してゞあつた。あれは昨年の十二月、同新聞の記者某氏と長時間に亘つて語りあつたことの一部分であつて、相当円滑に言つたつもりのことが、随分露骨に書かれてあつた。
 昨年六月に腰痛を患ひ、爾来執筆不可能となつて、凡そ半ヶ年腰痛が去らなかつたことを「また六月にへたばりましてネ」と私が言つたものだから、それがそのまゝ書き出しとされて居た(。)(※3)すると、私の既知未知の友は、私が咯血したものと思ひ、見舞状をくれるやら、又その咯血から再び恢復したことを感心してくれたりしたのである。ことに同病者は私が受難しては再び平気になつて働くことに非常に力づけられるものらしく、さうした手紙が沢山舞ひ込んだのである。肺病患者を本当に救ふためには、もつとゝゝゝ(※4)病のために苦しまねばならぬことを痛感した。
 次に大衆文芸に関して、私は、他の大衆作家は知らず、少くとも私自身は金を得るために書くのだと語つたところ、他の作家も大ていさうであるかのやうに書かれてあつたので、誠に相済まぬことに思つた。
 ところが、九州のある読者から、痛切に同感であるといふ手紙が来た。さうしてその手紙の中には、
「一たい今の大衆作家は、大衆文芸がどうのかうのと尤もらしいことを言ひながら、書くものは、金もうけのためとしか思はれぬやうな杜撰なものを発表して、すました顔をして御座るがさうした姿を見ると、私は唾でも吐きかけてやり度い気がする。」
といふ意味のことが書かれてあつた。
「唾でも吐きかけてやりたい」とは、この人ばかりでなく、多くの人の心ではあるまいか。私自身、どう自惚れて見てもコムマ以下の作品しか書けず、たゞ運がよかつたために、その作品が相当の値で売れるところを見ては、立派な力量を持ちながら、運の悪いために原稿の売れない人から、唾を吐きかけられても当然のことである。だから私は、思ふがまゝに、金もうけのために書くと言つたのだが、さうした作品が長く「市場」にはびこる訳はないから、早晩「良貨」に駆逐されるにきまつて居るし、私自身もその覚悟は十分にして居るのである。さうして、それと同時に一般大衆作家たるものは、たとひ私のやうな態度の人はないにしても、この読者に代表された一部の人々の心に対して、大に警戒し努力する必要があると思ふ。

返事

 以前はさうでもなかつたが、六月以来、物を書くことに困難を覚えてから手紙に対する返事を書くことが非常に億劫になり、そのうちつひ忘れてしまふやうなことが度々あつた。誠に相済まぬことゝ思ひながら、どうも致し方がない。返事を受取らぬ人は嘸私をうらむで居られることゝ思ふ。
 数年前から、私は年賀状を廃した。別に主義があつてゞはなく、面倒なためである。従つて沢山の年賀状はまつたくの貰ひつぱなしである。
 けれども、今迄、誰からも、それについてはお叱りを蒙らなかつた。中には「ひどい奴だ」と思はれた人もあらうが、別に直接私に何とも言つて来る人はなかつた。
 ところが、今年はある人からお叱りを蒙つたのである。多分二月になつてからだつたと思ふが、同じ名古屋市内に住ふ「憤慨生」といふ人から郵税未納のヱハガキが届いた。三銭払つて読んで見ると、
「あなたは随分ひどい人だ。年賀状に返事をしないといふのは実に呆れた男だ。たつた一銭五厘の銭が惜いのか。円本の印税で沢山の金を握りながら、ハガキ代ぐらゐを出し惜んで、義理を欠くとは何事だ。自分で書きたくなければ、家内の人に書かせたらどうだ」。(※5)といふ意味の言葉が書かれてあつた。して見ると切手を貼らなかつたのは、一銭五厘を惜んだ罰に三銭を払はしてやるといふ意味である。いやもう、なかゝゝ(※6)手厳しい折檻であつた。
 私は年賀状を繰つて(※7)それが何人であるかをたしかめようかと思つたが、それもやはり面倒なので、いまだに誰であるかを知らず、また詫状をも書かないのである。尤も故意に切手未納のハガキを送るやうな人間には、金輪際手紙は出さぬつもりだが、それにしても、このやうに、私を「あさましい人間だ」。(※8)と思つて居られる人は少なくないであらうから、来年からは、賀状の返事を出さうかとも思ふが、来年にならなければわからぬことである。

短冊

 どう間違つたか近頃では、私を一かどの俳人でゞもあるかのやうに、諸方から短冊を送つて揮毫を求める人がある。短冊を書くのは訳のないことであるけれど、扨それを郵送するのが、実以て面倒なので、つひそのまゝに捨てゝ置くと、中には半年も過ぎてから、それを返してくれなどゝ言つて来る人があるので頗る面喰つてしまふ。半年も経つうちには、雑誌や書物の下積みになつてしまつて、捜し出すだけでも一通りの困難ではない。だから更にそのまゝにして置くと、むかうではそれが専門であるのか、しつつこく言つて来て、可なりに心の平和がかき乱される。だからいよゝゝ(※9)憎人的になつて知人に逢ふのさへ近頃ではあまりうれしくないのである。
 喜多村緑郎氏にきいたことだが、泉鏡花氏は、女にたのまれた時だけ短冊を書いて与へられるさうである。その理由は、女が短冊をほしがるのは、義理や何かで言ふのではなくて、心の底からほしいのだから書いてやるといふ話である。私はまだ女の人から頼まれたことはなく、頼まれゝば、鏡花氏のやうな理由でなくとも、またたとひ郵送の面倒があつても、直ちに書くだらうと思ふが、遠国の未知の人からの依頼はいつも躊躇するのである。
 何でも、聞くところによると、文士の短冊を集めて売り払ふやうな人もあるらしく、さうした人に御奉公申上げるのはあまり気持のよいものでない。
「貴様のやうな人間の短冊が売れると聴くだけでも光栄ではないか。」と言はれゝばそれ迄だが、高い値ならまだしも、まづい句、まづい書体相応の値段で恥ざらしになるのはまつ平御免である。

健康増進研究会

 三月一日大阪毎日新聞社で催された健康増進研究会に招かれたとき、その顔ぶれを見て私は喜んで出席することにした。こゝ五六年の間は、小酒井不木として出席する会ばかりであつたのに、久し振りに小酒井光次として出席する会合に招かれたのは、何となく嬉しかつたからである。
 出席者は衛生学者又は衛生の実際に当つて居らるゝ人ばかりで、名をよく聞いて居て、はじめて逢ふ人も多かつたが、十年ぶりで逢ふ人も可なりあつた。さうして、色々話して居るうちに自分の故郷へ戻つたやうな感じがし出した。やつぱり私は医学が性に逢ふのかなと思つた。
「どうして私が、このやうなお歴々の間へ呼ばれたのですか。」
ときくと、木下博士は、
「むかしは衛生学者だつたではありませんか。」
と言はれた。さうだ。私も衛生学の講義についてプランを立てた事がある。欧米の都市の衛生設備を視察したこともある。けれど、駸々として進む医学に十年もはなれた自分である。どうして皆さんの間に立つて臆面もなく意見をのべることが出来ようぞ。
 かう思つて、私は研究会の席に就いた。ところが皆さんの意見をきいて私は安心した。たとひ具体的の数字などは挙げ得なくとも、物の「原理」なら私にも十分のべられるといふ自信がついたのである。さうして、人間は、考へる習慣さへつけて置いたなら、十年ぐらゐ学界から遠ざかつても、ぢきに取り戻せるものだと悟つたのである。
 この悟りを得たことは、「研究室に於ける私」に非常な力をつけてくれた。一年ぶりで大阪へ行つたのが、大へんな利益を齎らしたことを私は感謝しつゝある。(了)

(※1)(※2)原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文ママ。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)原文ママ。
(※9)原文の踊り字は「く」。

底本:『猟奇』昭和4年5月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2009年11月7日 最終更新:2019年11月8日)