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水の本体 (Corpora non agunt nisi fluida.)

 蛙飛び込む古池の水の音は、談林の弊風を覆せし革命の警鐘となり、手に掬(むす)ぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世の象徴となる。滄浪之水清兮、可以濯我纓、滄浪之水濁兮、可以濯我足。茲に至つて水も大なる謎となる。
 無辺落木蕭々下、不尽長江滾々流の杜甫の詩を誦するものは誰しも雄大悲壮の光景に心を奪はれ、
 Das Meer hat seine Perlen,
 Der Himmel seine Sterne,
 Aber Mein Herz, mein Herz,
 Mein Herz hat seine Liebe.
(海に真珠あり、空に星あり、わが心わがこの心に恋の火花あり)といふハイ子が北海詩篇中の一齣を朗吟する者は、悉く優美典雅な思に酔ふであらう。
 誠に水を離れて自然なく、また人生もない。されば希臘哲学の開祖ターレスは水を以て宇宙万有の本源となし、管子もまた水を万物の本源、諸生の宗実とした。然し乍ら水の本体を正確に捕(※1)し得たものは抑も幾人あるであらうか。雲霧雨雪も水の然らしむる所、狂瀾怒濤もまた水の然らしむる所、菊水のコに齢をのばし、生井栄井に生の濫觴を恵まるゝことは誰しもよく存知する所であつて、之を謡ひ之に額くの輩は古来数多いには違ひないが、果して其中の幾人が水の全実在を知り得たるかを思ふときは、転た遣瀬ない気分とならざるを得ない。
 分枝せる科学は何れも水を其研究の対照(※1)として其性質を明かにせむと企てた。現今に至るまで其の性質につきて知り得たる所のものは極めて数多く、左に先づ其の二三を述べて見やう。
 既にアルキメデスは水の中に物体を沈むるときは、其物体の重さは真の重さよりも、己が排除したる液体の重さだけ軽きことを発見し、(アルキメデスの原理)パスカルは水の一部に圧力を加ふるときは圧力の強さは増減なく四方に伝達することを知つた。(パスカルの原理)
 次に物理学者は水の表面張力を研究し、更に進みて水が一定の温度及び気圧の下に其態を変ずることを明かにし(、)(※3)膨張の関係、密度の関係を始め、気体としてはボイルの法則、シヤールの法則に従ふべきことも知られたのである。
 水が低きにつく性質あることは「孟子」にも論じてあるが、地球の産物である以上、ニユートンの法則に従つて重さが成立する。温度を離れて水なきが如く、重さを離れて水はない。
 化学者は水の組成を明かにした。そして水は水素二分子酸素一分子よりなることを知つた。即ち水は H2O なる分子式を有して居る。この分子式は水が気体即ち水蒸気である場合にもまた固体即ち氷である場合にも通有である。
 又水は他の物質(可溶性物質)を溶解して其物質の溶液を作り、其物質の分子をしてイオン化せしむる性質がある(。)(※4)即ち電離の現象を呈するのである。
 生物学に於ては主として水と生物との関係を研究する。動物体の諸組織が約六十パーセントの水から成立つて居るのを知るのみでも盖し思半ばに過ぐるものがある。医化学の泰斗ポツペ・ザイレルは「凡ての生活体は水、就中流水の中に生活す」と叫んで居る。
 地質学者は永年に亘る水の力の働きの偉大なるに驚き地文学者は地表に於ける水の分布が陸地よりも多きを嘆じ気象学者は空気中に於ける水蒸気の離合集散の美を賞し、其応用の方面に於ては水力又は蒸気拡散の力を(※5)りて発電又は機械運転を行はしむ。
 科学によりて得られたる水の性質は斯の如く千種万様であるが、其研索の方法が進めば進む程なほ幾多の性質を知り得ることは勿論である。然し乍らかくの如き分枝的科学の力に依るときは果してよく水の真相を会得し得るか、否現代の分れたる科学は単に物の一面を窺はしむるに過ぎぬので、群盲象を判じて一人も象の真形を知らざりし弊害は、盖し科学の最大欠点である。
 私は予てより哲学なき現代の科学に尠からず慊焉の感を懐くものである。実験によりて得られたる事実は、思索によりて厳正なる批判を試みねばならぬ。それと同時に其の事物の歴史に照して咀嚼し消化して然る後それに同化せしめねばならぬ。茲に於てあらゆる科学は綜合せられ帰一せしめらるゝのである。
 翻て水に就て説かむ。水といへば人は直ちに其液体である場合――一気圧の下に摂氏零度以上、百度以下に於ける H20 ――を脳裡に描く。恐らくは其状態をこそ水と名けられたに違ひない。然し乍ら広意の水 water は氷 ice 及び汽 steam をも包含して居る。それ故広意の水はアルキメデスパスカルの原理を含むと同時に、ボイルシヤールの法則を含み、またイオン説をも含むのである。
 然れども心を静かにして水の由来を考ふるに、地球が火雲星から分離した時分にはいふまでもなく液体としては存在することが出来なかつた。また今後地球の温度が漸次冷却するに至つては、必ずやまた液体として存在することが出来ぬ。即ち水が液体である時代は、地球生成の歴史及び将来に比較すれば誠に僅少の時間に過ぎぬので、幾多の原理、法則は単に一時の幻影に帰して了ふものである。極端にいへば人類の探り得たる原理や法則は人類と共に滅亡するのである。時間に於ても空間に於ても普遍通有なりと思はるゝ原理法則の多くは実は一時的のものであらねばならぬ。斯く考へ来るとき我等は分枝発展した科学の贏ち得たる法則にのみ憧憬するを已めて、永遠に亘る事物の生滅に心を向けねばならぬのである。
 現象にのみ執着するものは実在を忘却する。自然科学は単なる現象に執着するが故に、動もすれば其全実在を看過する。水を研究しつゝ而も水の本体を知らざらむとして居る。自然科学は迷信を去りて正確なる智識を得せしむる手段に外ならずして、自然科学によりて淘冶せられたる智識は軈て事物の真相を看破せむとするの具に供せられねばならぬ。
 稀代の大生理学者ヂユ・ボア・レーモンは自然科学を究めた揚句、世界の七不思議を説いた。然し乍ら不思議は永久に不思議ではない。現象にのみ執着するときは不可思議は依然として不可思議に終るであらう。
 三諦円融、一念三千は天台宗のモツトーである。厳正に批判せられたる科学的智識は飽くまで之を修得せねばならぬ。然る後之を綜合統一するとき茲に一念三千の理は存すべきか。其歴史を知りたるものは其将来を知らざるべからざるべく、其将来を知らむと欲せば先づ其従来の知見を諦かにせねばならぬ。
 九十の春光酣なれば、木々に嫩芽は溌溂として萌ゆる。田圃土暖かなれば緑は愈よ深い。其の木の形態も、其の葉の色彩も皆間接に水の然らしむる所。況してや行雲流水の美、潺湲滾々の響に於てをや。我等を始め我等の周囲は皆水の世界である。我等の五官は我等の血液によりて其機能の原動力を供給せらるゝを思はゞ、我等の認識も畢竟水による。五体も水、自我も水、自我一元は水一元、水に執着してはならぬと同時に自我にも執着してはならぬ。自我に執着してはならぬと同時に非自我にも執着してはならぬ。
 風蕭々たれば易水は寒し。残月の映つた桶の水が溢れて大悟徹底するものは幾人なるか。顕微鏡可なり、試験管可なり、畢竟唯一に向つて進むことを忘れてはならぬ。其本体を見むと欲せば、自己を完成せしめば(※6)ならぬ。努力精進しなければならぬ。「江水流春去欲尽、江潭落月復西斜、」時節は今である。適当なる期を失つてはならぬ。

(※1)(※2)原文ママ。
(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)(※6)原文ママ。

底本:『洪水以後』(大正5年4月11日号)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1916(大正5)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2007年3月19日 最終更新:2007年3月19日)