野の百合の花の様に白き肌を持ち、葡萄のやうな黒髪、猩々緋のやうな紅い唇を有した預言者ヨカナンは、ザヂスムスの権化ともいふべきサロメの為に其首を失ひ、天照大神正八幡宮も頭を傾け手を合せて地に伏したまふべき日蓮は立正安国論を書いて蒙古来襲を預言し。(※1)伊東や龍口の法難に出逢つた。然し乍ら大聖世尊が楞迦山に於て龍樹菩薩の出現を預言したのは末世の凡夫に取りて如何にも気持のよい事柄である。
人類が創世以来現今に至るまでの歴史的考察は従来の科学によりて大凡そ其の輪廓を知ることが出来、それと同時に他の生物の起成、其相互の関係併せて地球其ものの変転他の天体との交渉等も略ぼ明かにせられたのであるが地球の将来、人類の未来に就ては何等科学的説明換言すれば科学的根拠ある預言は与へられて居ないのである。
釋迦は龍華三会の暁即ち其在世よりして五十六億七千萬年後に強(※2)勒菩薩がこの世に出現することを説き且其当時の人間の有様にも説き及んである。もとより其の実否を左右することは出来ぬが少くとも現今の智識階級に存する我等を満足せしむる説ではない。されば我等は是非共我等の将来に就ての科学的説明が知りたいのである。但しいふ迄もなくそれは仮定説で Hypothesis あることは何人も承認せねばならぬ。
ダーウインの進化論は人類の歴史的説明に関して動かすべからざる根拠を与へた。許多の例証――解剖学的、比較解剖学的、胎生学的、化石学的等と其間を結び付くる天才的想像とを経緯とした自然科学界は勿論精神科学の方面にも絢爛の錦繍を飾ることが出来、人々は一斉に自然淘汰生存競争 natural selection, struggle for existenece の語を称誦した。然し乍ら燎乱の花も遂には萎まねばならぬと等しく炎々たる焔をあげしこの思想も最早残灰となるのやむなきに至つたので、吾等は進化論では満足出来なくなつて来た。我等は光輝ある人類があらゆる生物界を征服した勝利の歌を口ずさむで居る訳には行かなくなつた。是非とも此際将来の経路が知りたくなつて来た(※3)。進化とはそも何を意味するであらうか。人類がこれ以上進化するであらうか。我等が想像して居るやうな火星に住む人類(人類か何かわからぬが)のやうに発展して行くものであらうか。或はキユーピツトのやうに四肢の外に羽翼が出来るやうになるであらうか。或は極楽浄土の阿弥陀仏のやうに三十二相八十随形好を具へ得るものであらうか。
過去の事実を基礎として将来を推定することは理の当然である。されば従来の科学的見解により自分は人類の将来は暫く措き人体其ものの将来に就て想像して見ようと思ふ。
瓜の蔓に茄子は実らず、鴉は其子もまた黒い。然れば人の子もやはり人であらねばならぬ(※4)。楚王の妃は鉄丸を生み、近江の賎婦は腕を産むだと伝へらるゝが、もとより之は捏造の伝説に過ぎぬ。然れば現今の人体は最早行き止りと想像すべきか。更に語を進めて最早退化期であると見倣すべきか。
ハツクスレーは地球の変遷は之を曲線であらはすならば抛物線のやうであらうといつた。石を斜に上に投げるとき石はある点に至りて最高となり次の瞬間には再び下降し始めて以前の水平にもどる。然し出立点と終着点とは同一の所でない。恰度人類でも其他の生物でもそれと等しき経路を取るものであらうと想像したのである。然らば第二に起る問題は其最高に達した期は現今であるか或は未来に来るか、或は既に過ぎ去つた時代にあるかの解決である。
太陽の寿命は天文学によりて既に其後半にありといはれてある(※5)。然らば地球もまた同じであるべきか。地球上の生物将た人類も然るべきか。これ我等が切に熟考すべき所である。人体が現在の状態以上に発展することが若し出来ないとすれば我等が有する人体は最も完成せられたものであるが、或は最早衰頽の悲運に沈淪し始めたものであらねばならぬ。
比較解剖学的に人体の胎生期を研究観察して見ると、ある時期に於て豚や蝮と同一の形態を存して居ることが解る。これによりて人体が其胎生期に於て人類が過去に経過して来た個体の発育経路を繰返して居ると想像せられてある。即ち個体の発生は系統の発生と一致するとの説である。また血清反応(沈降素反応及補体結合反応)によりて人類の蛋白質と猿類の蛋白質とが非常に類似して居ること。其他解剖学的に大脳の発育状態等によりて人類は猿から進化したものだといはれて居る。茲に於て吾等は考へねばならぬ。豚の胎児と蝮の胎児とが似て居るによりて蝮は将来幾星霜かの後に於て豚となるであらうか、また猿が今後幾多の歳月を経て人となるであらうか。外界の状態が最早進化に適せぬから猿が人となることは恐らく出来まいとするならば人も最早人として終らなければならぬ(※6)。原始人類の遺骨を発掘観察して外観が頗る猿に近いから猿から間違なく進化したものだといはれて居るが、よしそれを是認したところで今後猿が人となることは何人も想像し難い所である。
茲で我等は生命の起原に就て一言せねばならぬ。生物は無生物より進化したとは一般の人が認めて居るやうであるが地球創成の始に当り何故其一部分だけが生物となつたかゞ疑問である。私は火雲星である時分より既に生物として発生すべき部分が存して居たのではあるまいかと思ふ(※7)。即ち生命の無窮 Ewigkeit des Lebens を信ずるものである。然らば一歩進みて後世猿となるべき部分もまた人となるべき部分も定まつて居て、各生物独立に発展して来たものではないかと考へられる。斯く論じて来るとダーウインの種源論其ものを破壊して了ふことになるから之は他日に論ずることとする。兎に角自分は今後猿が人に進化することは絶対的にあるまいと信ずるのである。
そこで人体に就て考へる。ド・ブリースが月見草を培養して突然趨異 mutation をなすことを観察し且突然趨異によりて出来た種類は遺伝的性質をも有することを知り、其後其他の生物に於ても認めらるゝやうになつた。然し突然趨異と雖もやはり旧の形態が伺はれるものである。そこで仮に人体に突然趨異(又は突飛性変化ともいふ)が行はれたとする。それは如何なる形態を有するものであらうか。恐らく従来の科学で説明の出来ぬやうなものは生じないであらう。力士は稀に出るものである。然しこれは突然趨異ではなくして寧ろ内分泌の変異によりたるものである。また一代に得たる形質が遺伝するや否やもまだ判然して居らぬ。近時着々明かにせらるゝ内分泌作用の研究によりて人工的に動物に変態を生ぜしめても其形態たるや病的に列せしむべきもので進化では決してない。
然るに眼を転じて暗黒面を考へる。人智の発達によりて人は益自然状態を破壊する、即ち denaturieren せんとする。齲歯を充填することを知つたが為齲歯を持つ者が多くなつた。眼鏡を工夫したが為に眼の屈折異常が増加した。即ち演繹していふならば智識の発達と共に人体は益病的状態を多くするやうになつた(※8)。これ蓋し人体の衰退の徴候ではあるまいか。茲に於ては自分は「自然に帰れ」と怒号したくなる。かくてダーウインの進化論によりて進化のことのみを夢みて居た人類は既に恐ろしき破壊の斧に接しつゝあるではあるまいか。
若し人類がこれ以上の形態の進化をのぞむならばそれは現今の人類を破壊して後のことであることを自分は揚言する。
(※1)(※2)原文ママ。
(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)(※8)原文圏点。
底本:『洪水以後』(大正5年2月11日号)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1916(大正5)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2007年3月12日 最終更新:2007年3月12日)