Durch Lesen Kann man viel lernen, durch Denken kann man mehr lernen.
(読書によりて人は多くを学び、思索によりて人はより多くを学ぶ)とは独逸の Sprichwork.(諺)である。これによりて我等は独逸人の不断の用意が読書よりも思索にあることを窺ひ知ることが出来る。実にこの世にありとしあらゆる書物は吾等の思考の糧として存在するに過ぎないのであつて、独逸が自然科学の領域に於ても従来常に覇を唱へて来た所以は観察を主とした学問に於ても、思考の一事を軽んじなかつたが為である。ヒツポクラテスが、「医にして同時に哲学者たる人は即ち神に近し」といへるは、Philosophie ist Nachdenken (哲学とは思索なり)との定義が是なりとせば、真正の医学にもまたこの思索の須要なることを称導したと見做すべきである。
溜滞せる水は腐敗し易く、変動なき生活は厭き易い、過去の歴史に憧憬して、将来を啓発することなきものは敗残の民族である。吾等は歴史を基礎として、新たに理想の国家を建設しなければならぬ。尊き自己の生命を中心として努力精進しなければならぬ、強行進軍を行はねばならぬ。復活しなければならぬ。
自然科学の光輝ある歴史は僅かに一世紀に足らぬ。而して其間の急激なる進歩は何人も賞讃の辞を否む訳には行くまい。然し乍ら吾等日本人が其進歩に如何程の功績を齎したかを思ふとき吾等は憮然として嘆ぜざるを得ぬ。何時々々迄も模倣をのみ敢てして、抑も何等の権威を有するものぞ、今や独立の時である。復活の折である。吾等は此際科学研究者に向ひて一大覚醒を促がす者である。
抑も科学研究には種々の方式ありと雖も、凡そこれを二つに分つことが出来ると思ふ。其の一は即ち消極的研究方法、其二は即ち積極的研究方法である。科学の目的は要するに法則を発見するにある。此の法則の発見の為に、或は消極的、或は積極的の手段を講ずるのである。消極的手段とは観察 Speculation を主とし、積極的手段とは想像 Imagination を主とする。従来の科学は勿論この両様の手段によりて発達を遂げしものなれども、今後の科学は主として想像に拠らなければならぬことを自分は主張するものである。
事物の客観的観察はいふまでもなく部分的の場合が多い。之に反して主観的観察は往々錯誤ありと雖も、的中すれば綜合的である。而して従来科学の羸ち得たる幾多の事実は、今や吾等をして想像の世界に馳駆せしむるに充分である。且又科学界現時の状況を看るに、想像に依らずむば到底進歩し能はざる危機に置かれてある。況んや吾が日本に於ておや。
ヱールリツヒは科学研究に四個のGを要することを言つた。Geld(金)geduld(忍耐)geschickt(巧妙)gluck(幸運)が是である。然しながら自分は尚之に Genie(天才)を加へたいと思ふ。天才を加ふるとき、科学研究に携はるものは、尠からず悲観せざるを得ぬ。何となれば天才は生れながらのもので之を養成することが難いからである。けれども従来の科学発達の経路を穿鑿するに、いつも天才の力が主要となつて居る。然しながら稀に出づる天才を待つて居ては学問の進歩に対して尚更に悲観せなければならぬ。それ故吾等は天才の要素を代表する想像力の養成に心懸けねばならぬ。換言すれば自己の尊き生命力によりて努力精進するのである。茲に於てか科学は芸術と一致する。殊に前に掲げた独逸語のGが、「芸」の字と其音相通ずるは奇と謂はねばならぬ。
テスラの電気学に於ける、ヱールリツヒの医学に於ける、其偉大なる業蹟は常に想像の力によつたものである。「想像は世界を支配する」とは誠に動かすことの出来ぬ真理である。今は最早翻訳の時代ではない、紹介の時代でもない。吾等は進まねばならぬ、新らしき世界を築かねばならぬ。
科学の終局はいつも「生命」の問題に及んで来る。仏蘭西の南セリニアンの地で、昆虫の生活研究に身神を捧げたアンリ、フアブルは「自分は観察する、説明はしない」といつて、只管に昆虫生活の驚異を讃嘆した。誠に自然界に観察せらるゝ幾多の微妙なる法則は、観察の進めば進む程、益々其幽玄神秘なるに驚かるゝのである。或は野の末、山の端に分け入りて生物の遺跡を訪ひ、或は深海の底、大地の中を穿鑿して生命の謎に出逢ふ時、たゞゝゝ(※1)自然人生の偉大なるを謳歌するより外はない。かくして我等は自然科学によりても我等の生命の不可思議の力を有することを認め得たのである。
されば我等は今や其の生命の力によりて科学其ものを進歩せしめなければならぬ。主観によりて科学の向上を計らねばならぬ。観察の時代は既に過去に葬られて了つたからである。
従来の日本の科学界は泰西の産物を輸入するにのみ汲々として、少しも独創的の所がなかつた。日本には日本独特の装をした科学がなくてはならぬ。日蓮はいふ「日蓮は日本国の魂也」と(。)(※2)またいふ「譬へば宅に柱無ければ保たず、人に魂無ければ死人也」と。日本の科学者たるものは、須らく此の心に住すべきである。
欧洲戦争は我等が眠れる心を覚醒し我等に独立すべき好機を与へた。我等は何時まで他人の思想に支配せられ、本然の魂を汚すべきぞ。言ふまでもなく、泰西の思潮を吾等の糧とするは差閊ない、否何処までも吸収すべきである。然しながら其等は単に吾等が活動の背景たるに止まらしむべきである。
最後に我等は直感に就て語らねばならぬ。聯想作用の発達は軈て直感を産む経路たり得ることはいふまでもない。今後の科学に於ては必ずや直感と想像が主とならねばならぬ。これによりて我等は未知の世界より永遠の真理を攫み出すべく努力すべきである。
Imagination と Inspiration。これ実に復活すべき科学研究の最大要素たることを自分は断言する。尺蠖の伸びむとするとき先づ其身を縮むといふ。然しながら永久に縮むで居ては何の意味もない。千里の目を窮めむと欲せば更に一層楼に上らねばならぬ。
上記の意義を詮じつめて見れば、科学に於ける英雄主義の主張ともいへる。我等はいつまでも同一の思想にのみ停滞して居る訳にはゆかぬ。科学にも時代精神(ツアイトガイント)の発現は明かに認めらるゝものである。実験(エキスペリメント)によりて得たる事実は毫も之を左右することの出来ぬ真正なるものである。然しながら吾等の主観を離れた実験はあり得ない。これ即ち科学に時代精神の認めらるゝ所以である。実験は科学者に取りて瞬時も欠くべからざる手段であるが我等は実験によりて法則を見出すのではなく直感又は想像によりて得たる法則を実験によりて証明するやうになるべきことを主張するのである。之れ蓋し自己を完成し物を完成する所以で、之れが為に我等は最大なる努力精進、強行進軍を要するものである。即ち言ひ換へて見れば科学に於ける英雄主義の主張となる訳である。
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文句読点なし。
底本:『洪水以後』(大正5年2月1日号)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1916(大正5)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2007年3月12日 最終更新:2007年3月12日)