○ 去る霜月の中旬より、かりそめの病に臥して呻吟今に凡そ三旬、近日此弥生町の僑居を跡にして煙霞療養に赴かむとす。襁褓離れて始めての大患に、そゞろに此の身の不運をかこちぬ。冬の日影は斜に病室の窓を射て、蒼白の皮膚を聊か薄紅く染めしかば、漸く一片の元気起りてこゝに漫筆を運ぶに至りぬ。
○ 増一阿含教(※1)に曰く「世尊諸比丘に告て言く、比丘よ疾病人は一に食物を選べ、二に時に随て食へ、三に医薬に親しめ、四に愁と喜と瞋とを懐ふなかれ、五に看護の人に向て従順なるべし」と。一二三の箇条はわれつとめて之を守りしと雖も四五に至りては動もすれば之に叛かむとす。来し方行く末を思ふとき万感交々胸に漲りて之を遮る術を知らず果は悲怨哀恨の情に迫られて、涙は枕を浮かすこと幾そ度。おぞましと思へども之を■(※2)ふこと能はざるは蓋しこれも病の為か。果敢なきは我身なりけり。
○ 病床に寂莫を慰め呉れし友は二人。曰くハイネ、曰く馬琴、後者の八犬伝はわが中学時代よりの友にして、前者の詩集は高等学校の時代より、わがポケツトを離すこと能はざりき。ことにそのブーフ・デル・リーデル中に収められし短詩は悉くわが思ひを語り尽し、就中「北海」詩篇はわれをして海に親ましめし唯一の動機なりき。われもとより山海の旅行を嗜めり。山の巍峨たる、ーの崎嶇たる、愛すべきの限なりと雖も、そのローマンス多き、その伝説に充ちたる海の、親しみ深きには較ぶべからず。試にハイ子が一篇を口ずさめば心は忽ち砂白き浜辺にさまよひて、ソールの神や、ルーナの女神の葛藤を、金色の夕日に照された洋上にまのあたり目撃するの感あらしむ。いざや一刻も早う海気療養に赴かむ哉。
○ つれゝゝ(※3)なるまゝに鏡にむかひてわが面を検す、■(※4)骨高く聳えて、頬は窪み、面は窶れて、皮膚の血色褪す。偶ま眼下即ち涙堂に小なる黒子あるを認む。陳氏の相書に「涙堂に黒痣斜紋あれば老に到て児孫を剋す」とあり。この卦宜しからずと雖も「老に到て」とあるに力を得て、わが本復の願叶へりと思惟せり。荀子に非相の篇ありて、相学を嘲ると雖も、素問内経にも色脈即ち観相のことを説けり。実に■(※5)戚は牛を相し、伯楽は馬を相し、虔煥は剣を相し、東方朔は笏を相す。本朝にては三善清行、安倍晴明等斯道の達人なり。今や世界の大転期に際し、皇国また多端、此時に際し、よく国を相して、泰山の安きに置くものは誰?
○ 卯年も最早残り少なくなりて、まさに辰年を迎へむとす。抑も十二支に選ばれたる動物を考ふるに、哺乳類九、鳥類一、爬虫類一、而して動物学者の分類に苦めるもの一、こはいふまでもなく来らむ年を標榜する辰即ち龍是なり、和漢今昔其の名を知れども未だ形を見ざるは龍なり。豢龍氏は龍を屠り后■(※6)は之を射たりとの説あれども確かならず。抱朴子に、蛇も千載を歴ぬれば化して龍になるといへるに対し、陸佃が■(※7)雅に、龍はおのづから龍にして、蛇はおのづから蛇也とて其の非を弁ぜしは、輓近生物学の知見に照して正しき所説なり。
○ 天地陰陽二気の昇降、雲を起し雨を降し、春見れて冬蟄す。是を名けて龍といふとの説を真とせば龍は生物にあらず。然し乍ら十二支に動物を列したりとせば、龍は必ずや生物なり。今分類学上其の形態を穿鑿するに、三停九似の説ある也。即ち角は鹿に、頭は駝に、眼は鬼に、頂(※8)は蛇に、腹は蜃に、鱗は魚に、爪は鷹に、掌は虎に、耳は牛に似たりといふ。又龍に種類多く(、)(※9)應、蛟、先、黄、青、赤、白、元、黒龍等之なり。應龍は翼を有すといふに至りては益其奇態に驚くのみにして、而も愈よ何れの類に属せしむべきかに迷はざるべからず(。)(※10)而してなほ其性淫にして、牛と交れば龍馬を生むといふ説は到底現今の生物学的知見に容るゝ能はざる所なり。
○ 絵画彫刻等よりして、龍もし実在せば蛇に近きを察するもの甚だ多かるべし。さすれば龍を爬虫類に列せしむべきか。何れにしても奇怪不可思議なるは龍の本態なり。
○ われ幼より龍を好む。蓋し合するときは体をなし、散ずる時は章をなし、雲気に乗じ陰陽に養はれ或は明に或は幽に、大なる時は宇宙に■■(※11)し、小なる時は拳石の中にもかくれ、春は天に登り、夏は雲を凌ぎて鱗を奮ひ、秋は淵に入り、冬は泥に淪み、其本態を捕捉せしめずして、よく万物を制するが故なり。
○ 今や龍年を迎へむとす。我等は龍の如く身を処し、龍の如く活動せむ。雄龍の鳴くときは上に風ふき、雌龍の鳴ときは下に風ふく。痛快なるかな。
○ 病龍の降せし雨は其水腥しといふ。読者宜しく諒すべし。われもし健在なりせば大に筆を呵して読者に見ゆべきに、今は蟠龍のやむなきを如何せむ。
○ 句あり。
病める葉もそのまゝ床の黄菊かな
(※1)原文ママ。
(※2)「逍」の「肖」部分が「自」。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文一文字判読不能。
(※5)うかんむり+「必」+「冉」(横棒は二本とも外に飛び出す形)。
(※6)「羽」の下に「廾」。
(※7)土偏に「卑」。
(※8)原文ママ。正しくは「項(うなじ)」。
(※9)(※10)原文句読点なし。
(※11)1文字目は行人偏+「尚」、2文字目は行人偏+「羊」。
底本:『洪水以後』(大正5年1月1日号)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1916(大正5)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2007年3月12日 最終更新:2007年3月12日)