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数学者ド・ラニーの臨終

小酒井不木

 ド・ラニーは友人たちに囲まれて臨終の床に横(よこた)はつた。
 前夜から彼の意識は混濁し、医師が絶望を宣告したので、今やもう彼の死はたゞ時間の問題であつた。
 けれども、たとひ生命は助からぬにしても、今一度物を言はせたいといふのがその場の人たちの切なる望みであつた。
 といつて、彼の耳元に口をつけて彼の名を呼んでも、もはや答へ得ない状態だつた。医師は無駄だと思ひながら気つけ薬を嗅がせたが、何の効験もなかつた。人々は悲しさうに口を噤み、ド・ラニーの荒い呼吸(いき)づかひが部屋に響き渡るのみであつた。
 全身これ数学! といつてよい程数学に魂を打ちこんだド・ラニーだつた。彼の死は数学界をどんなに寂しからしめるだらう。沈黙のうちにも、友人たちの胸は、彼を惜しむ心で一ぱいになつた。
 突然一人の友人が、『いゝ事がある。物を言はせて見よう』と小声で言つたかと思ふと、ド・ラニーの耳元に口を寄せてたづねた。
『十二を二乗するといくつか』
 するとド・ラニーの口がむくゝゝ(※1)と動いて、
『百四十四!』
 言葉ははつきりして居た。だが、次の瞬間、この偉大なる数学者の呼吸は永久に止つた。

(※1)原文の踊り字は「く」。

底本:『キング』昭和4年6月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2012年11月16日 最終更新:2012年11月16日)