化学者が事物を研究するには分析から始めて、後合成に至つて初めて完成の域に達するのである。其他の科学に於てもほゞ是れと同じ径路を取つて進むものである。所が現代に於ける科学は此の分析の時代であつて未だ合成の時代には達して居ない。是れを人体の生理に例へて見れば、食物の消化は為たけれ共未だ同化作用に達して居ない状態と見ることが出来る。若し現代文明の或る方面が科学の為めに引き起こされたものとすれば、科学から見た現代文明が少なくとも未だ消化の時代であつて、恰も我々の腸管の内容物と見る様なものである。であるから或る人の眼には極めて汚穢な色彩として卑下するかも知れない。而し其の汚穢な腸管の内容物は、やがて我々の調和したる美しき機関を形成するに等しく、科学的現代文明もおそらく近き将来に於て、美しい結果を来たすべく、換言すれば第二の文芸復興を待ちて美しい花を結ぶのであると思ふ。であるからかゝる過渡の時代には、種々特異なる現象を見るは到底免かれない。従つて一方から言へば、精神上にも或は人類の肉体上に於ても種々の病的現象が生じて来る。是れ等の精神上の病的現象は自分の取り扱ふ範囲ではなくして、茲では主として肉体的方面を観察して見たいと思ふ。即ち現代の科学文明なるものが、吾人の肉体に対して何程の影響を及ぼして居るか、勿論精神作用が肉体に及ぼす影響の多大な事は言ふ迄も無いが、其れ等の詳細は略して、即ち物質的生活より来る単なる機械的刺戟が――少なくとも科学的文明の結果たる刺戟が如何に病的に人類に作用するかと云ふその有様を述べるのである。先づこれを研究するには二様の方法がある。第一は人口増減の方面より見ることゝ、第二は疾病其のものゝ方面から観察することである。人口問題に就いては多数の学者に依つて現今大いに論ぜられて居るので、今茲で喋々すべきではないが、勿論生存競争と云ふ事が大関係をして居るけれ共、又一方から見れば人類の健康其のものが偉大なる関係を有して居るのである。
文明的知識が進歩するにつれて尚武の気性の衰滅して行く事は免かれない。例へは(※1)卑近なる例を取つて見れば、女子の分娩することは、文明国の女子程分娩に伴ふ陳(※2)痛を厭ふ傾向がある。其れと同時に科学の進歩に依つて、産科医が無痛に分娩の出来る方法を案出した。是れに依つて分娩に対する恐怖を抱かしむると同時に、一方では無痛性分娩を行ふ際の魔睡薬(モルフインよりの製薬)に依つて女子の健康は著しく減退して行く。女子と同じく男子も等しく精神的苦痛を避けんが為めに、アルコホルの需要を多くする。自分は曾て言つた。――文明人が絶滅するはアルコホル中毒とモルフイン中毒とであると。これは勿論極端なる所説であるけれ共、文明の一面が如何に人類の団体を毒しつゝあるかは凡そ察し得られる。尚ほ自分は此の際特殊な疾患を選んで文明に対する批評をして見たいと思ふ(。)(※3)
かの結核が近時著しく増加して来て、衛生学的智識が極めて進歩したにも拘はらず、益々繁殖して行く傾向を示し、特に都会生活には極めて著しい事は普ねく知れ度(※4)つてゐる事実である。殊に科学的智識の産物である工業の発達につれて、工場生活と称する極めて、不自然な、病的な生活状態を益々拡めつゝある今日に於ては、結核を初め諸種の病気が、盛に増加して行く事は当然である。結核等の問題は誰しも口にする事であるから、自分は茲に瘤腫(※5)の問題に就いて其の一般を窺つて見やう。抑瘤腫(※6)なるものゝ起生に就ては幾多の説があるけれ共、ウイルヒヨーの説に従へば身体の或る一部分に絶えず繰り返へされてゐる一種の刺戟が与へられる時には、其の部分の組織がかくして癌腫を発生すると云ふのである。又コーンハイムの説に依れば、身体の或る一部分に先天的に他の部分と組織の異つた一種の細胞が包容せられてゐて、其れが後来ある機会のもとに異つた発育をすると云ふのである。而し近時山極博士の兎の耳の研究に依つて見ると、癌腫は主として刺戟にのみ依つて起ると云ふウイルヒヨーの説ははゞ(※7)慥められたのである。そこで現代文明なるものが一方から云へば諸種の刺戟の増加を意味するものである為めに特に癌腫の問題を選んだのである。従来の研究に依れば、癌腫の発生は凡そ一定の年齢に於て来たるもので、何れの国に於ても約四十歳前後に最も著しいと云はれて居る。今コルブ氏の一万人に就いての研究に依れば左の表に示す通りである。
職業 \ 年齢 | 三〇―四〇 | 四〇―五〇 | 五〇―六〇 | 六〇以上 | 一般に |
農業 | 二、〇 | 七、七 | 二六、五 | 八三、六 | 一五、二 |
工業 | 二、一 | 一〇、三 | 三五、一 | 一二四、七 | 一一、二 |
商業 | 三、一 | 一〇、七 | 三四、二 | 八四、六 | 一五、二 |
旅館 | 三、六 | 一七、五 | 五七、一 | 一八八、四 | 二一、三 |
無職 | 一、七 | 一〇、二 | 三四、八 | 一三七、八 | 一一、八 |
是れに依つて見れば農業に従事する者が最も癌腫の少ない事が分る。英国に於ける千九百年から千九百二年に於ける統計に依れば一万人中左の如き割合である。
年齢 | 二五―三五 | 三五―四五 | 四五―五五 | 五五―六五 | 六五以上 |
農 | 〇、八 | 三、二 | 一〇、四 | 二七、五 | 六二、九 |
一般人 | 一、〇 | 四、〇 | 一四、五 | 三六、二 | 六三、八 |
茲に於てもやはり農業が最も少ないわけである。又ベーラ氏の研究に依れば、癌腫は木材工業に於て最も多いと云つてゐる。コルブ氏のババリアに於ける一万人の研究に依れば左の如くである。
年齢 | 三〇―四〇 | 四〇―五〇 | 五〇―六〇 | 六〇以上 |
木材工業 | 二、七 | 一三、二 | 四四、八 | 一〇七、五 |
他の工業 | 二、一 | 一〇、三 | 三五、一 | 一二四、七 |
其他の職 | 二、一 | 九、四 | 三二、二 | 一〇八、二 |
尚ほ又千九百年から千九百二年に至るプリンチング氏の一万人に就いての統計は左の如くである。
年齢 | 二五―三五 | 三五―四五 | 四五―五五 | 五五―六五 | 六五以上 |
裁判官、教師、医師、其の他精神的作業者 | 〇、三 | 二、九 | 一一、八 | 三二、三 | 六〇、九 |
農業 | 〇、八 | 三、二 | 一四、一 | 三一、〇 | 六一、二 |
鉄工業 | 〇、七 | 四、四 | 二四、六 | 三六、三 | 八三、二 |
商業 | 〇、七 | 三、七 | 一五、九 | 四一、三 | 七一、九 |
靴屋 | 一、一 | 三、九 | 一五、七 | 三八、一 | 六九、〇 |
裁縫師 | 〇、八 | 四、四 | 一五、五 | 四四、五 | 七一、九 |
一般人 | 一、〇 | 四、〇 | 一四、五 | 三六、二 | 六三、八 |
以上の表に依れば精神上の作業をする者や鉄工業に携はる人等は中間に位し、商人は少し多く、最も多きは靴職と裁縫師とである。是れに依つて現代の生活なるものが、特に特殊の生活が如何に人類の肉体を害してゐるかを察する事が出来ると思ふ。尚ほ統計を掲げる煩累を避けて言へば、近代の癌腫の死亡率は従来よりも著しく増加してゐる、アルコホルの需要増加に依つて癌腫も従つて増加する(、)(※8)換言すれば精神的動作の増加がアルコホルの需要を増加せしめ、従つて癌腫の起生をも促がすとも考へられるのである。殊に近時理学の進歩に依り諸種の放射線の人体に応用せらるゝに至り、一方に於て其れ等が著名なる医学的効果を齎らしてゐると同時に一方に於ては其れ等の取り扱ふ者が皮膚の癌腫に罹る事も多くなつて来たのである。
何れにしても智識の進歩は反つて一方から云へば疾病を増加せしめると認める事が出来るのである。かの丘博士が云はれた如く、前世紀の動物が他の動物を征服したる特長が仇となつて倒れた様に人類の頭蓋骨の発達はやがて人類を滅亡するに至らしむると云ふ説は其の頭脳の働き即ち、特に其の智識的方面の発達はおそらく人類をして肉体上の危機に立たしむると云ふ自分の想像と一致して、極めて面白い現象であると思ふ。故に少くとも現今の文明を代表する現代の都会生活の如きは、極めて不健康であると結論せねばならぬ。そして第二のルネツサンスを待つ迄かのルツソーのやはり自然に帰へれと云ひたくなつて来る。特に田園の生活が上述の癌腫に対する関係のみならず、一般の健康に対して極めて自然的である事に依つて、田園生活なるものが全人類の肉体的方面に多大の恩恵を有することは殊更に注意を払はなくてはならない。文明の末路が抑如何なる有様になつて行くかは茲では論じ度くない。自分は只管合成の時代の来るのを待つのであるが、而し現代の状態が或は分析の極端に達して居て、反つて其の破壊を意味するのではないかと頗る寒心に絶へない次第である。そして此の分析の時代にある科学的智識を直ぐ様吾人の生活に応用すると云ふ事は、極めて危険なことであつて而も現代の社会は其れを以て直ちに諸種の事物に応用し、不知不識の間に帰へすべからざる病的状態に落ち入りつゝあるのではあるまいか、若し合成の時代が来つて、其の時代の科学的知識が現代の病弊を除く事が出来たならば幸甚であり且つ其れを切望してゐるのである。
(※1)(※2)原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。
(※5)(※6)原文ママ。以降の文脈からみてここも「癌腫」が適当と思われる。
(※7)原文ママ。
(※8)原文句読点なし。
底本:『近代思潮』(大正5年12月号)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1916(大正5)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2007年4月16日 最終更新:2007年4月16日)