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人類の起原に関する論争

「……大海の波の上に巍々として聳え立つ巨巌がある。麓を噛まむとて寄せ来る怒濤に些の揺ぎも見せず、或時は颶風起りて、狂瀾のため一時其の姿を匿すことさへあるも而も依然として其位置と形態とに変りはない……其巨巌とは正に基督教の人生観(※1)であつて、寄せては返す波浪こそは軈て科学(※2)といふ人の作つた系統である」とワスマン(※3)は其著「近代生物学と進化論」の結論に述べて居る。
基督教は言ふまでもなく創造説である。なほ之を科学的に演繹して言ふならば所謂不変説 Konstanztheoric である。其の初めがたとひミケランゼロ(※4)の絵のそれの如くではないとしても、どうせ劫初のことは現代人類の想像にては及びもつかぬ、ところがそれに反抗して所謂進化説 Entwickelungstheorie を純科学的智識より結論したのはダーウイン(※5)である。人間はもと旧習に倦く性質を有して居るので、ダーウイン(※6)の進化説は素破らしい勢で世のあらゆる方面を風靡して了つた。そして人類が猿から進化したものであるといふやうなボンヤリした考が現今の智識階級の人の頭に膠(※7)して容易に離れない有様となつた。動物園へ行くと、金網の檻の中で、巧妙な芸を演じて居る猿が眼に付く。この動物こそは吾等の近き過去に於ける祖先であつたかと思ふと一種言ふべからざる気持が胸に湧く。そしてどうもそれを軽率に点頷(うなづ)くことは出来ない。然しそれだけで猿から進化したものでないと考へることは勿論出来ない。
「知人者智。自知者明」とは原人論の言葉である。一体万事につけ其の説明に関し現代人を肯んぜしむるものは所謂科学的智識でなくてはならぬ。何となれば科学的智識は一面から考へると割合に普遍性を持つて居るからで、事実の多数の提供と其の間を結び付る比較的秩序ある論理とは人をして承認せしむる力が大であるからである。然れども科学を買被つてはいけない。科学は人智の産物である。顕微鏡は肉眼の誤謬を廓大するとまで極端な皮肉を言ふには及ばぬが、科学的智識の内容は其の科学的研究方法の進歩改良と共に段々推移して行くものなることを忘れてはならぬ。それ故其当時は人の承認を購ふに足るべき説も、追々其価値を失つて行く場合が屡(※8)ある。進化論の如きは多数の例証によりて殆んどあの時代には間然する所なき迄立派な論であつた。而もダーウイン(※9)が始めて唱へたのではない、遠くは希臘の全盛時代に胚胎し、後数十人の巨頭の中に醸され培はれて居た説で、勿論其ある部分に於ては千古不易と思はるゝ尊い真理が含まれて居る。然し乍らダーウイン(※10)の挙げた幾多の例証以外になほそれと反対の例証となるべき事実が同じ嵩を以て横つて居ることを記憶せねばならぬ。その反対の例証は目溢(めこご)しにされたものと、また態(わざ)と挙げられなかつたものもあらう、兎に角かゝる半面の例証によりて結論せられた説は、言ふ迄もなく半面に適用し得るのみである。
そこでダーウイン(※11)の死後この説に賛成する者と賛成しない者とが出来て来たのは当然の成行で、中にもヘツケル(※12)の名高き生物発生(ビオゲ子チツシエス)の原律(グルンドケゼツツ)の如きものはダーウイン(※13)の説を裏書きして余ある。然し乍ら既にダーウイン(※14)がかの突然趨異(ムタチオン)の現象を自然の悪戯と見做したり、またヘツケル(※15)も自家の原律に当て嵌まらない現象のあるを知つて早くも Palingenese とか Caenogenese とかいふ言葉を借りて逃げ路を作つて居ることなどを照し合はせて察して見ると、如何に自然現象に矛盾が多いかゞわかる。而も此が果して矛盾であるか又は観察が足りなくてたゞ矛盾に見えるのかは余程考へ問題である(。)(※16)同じく進化を主張して、一は生存競争を根本義となし(ダーウイン(※17))他は相互扶助を根本義となして居る(クロポトキン)が如き是である。
要するにある時代に於て正当なりと見られたる科学的論証はその時代にのみ通用すべきものと考へても差支はない。其次の時代に於て之を裏書すれば、其次の時代にのみ通用すべきものである。如何に観察が広汎であつても、人間は全智でもなく全能でもない。顕微鏡で見えなかつたことが度外顕微鏡(ウルトラミクロスコープ)によりて色々珍らしい事実を添加せられたるが如き、研究方法に新路を求むれば、摘み出されて来る事実はやはり新らしいものに相違ない。そこに人類の智識の到達し得る際限が劃される。
生命の起原とか人類の起原とかいふ問題は何人にも最も多き興味を以て迎へらるゝ。かの隕石説などが近々四五十年前に唱へ出された所などを見ても如何に学者がこの問題に苦しみ抜いた挙句、苦しまぎれに正体を失つてかかる説を吐くに至つたのであるかゞ略ぼ察し得らるゝではないか。無生物から生物に至る間に、無生物とも生物ともわからぬ中間時代を経て徐々に出来上つたのだとシエーフアー(※18)などは言つて居るが、なる程至極穏当な考で何人も即座に反対は出来ぬが、よく考へて見ると頗る物足らぬ感に打たれる。ましてそれが実際的に試験管の中で見せて貰つた現象でもないからには愈以て慮外千万である。勿論基督教の創造説を庇護する者でも、其の当時の景況を見て居た者はないから同じく想像の産物であるが、同じ想像説なら比較的危険の少ない想像説で満足して居たい。といつて科学を蔑にしては大の誤謬で、科学の使命は実は別にあることを揚言したい。
顕微鏡が科学就中生物学の研究に重要なる部分を占めて居た時代には、形態学就中発生学上の所見を基礎として、進化論を庇護するに至つた。殊に一時世を騒がしたのは個体発生と系統発生の並行(パラレリスムス)即ち生物発生の原律である。人類に就て言へば、人類が進化の途中に於て過ぎ来つた二十二期を、胎生期に於て繰り返すてふ、涙の溢れる程珍らしく尊い事実である。実に人類は其の昔或時は虫類の時代ある時は魚類の時代などを過ぎ来つたのだそうで、それを胎生期に於て、歴史を尊重する為に、僅かに短時日に繰返して過去に憧憬するなどと聞かば嬉しい様な物凄い様な感じがする。実にこれ顕微鏡が齎らした自然の一大秘史である。ところが心を静めて之を考ふるに、受胎せる卵子即ち単細胞の有機体から、複雑なる胎児にまで発育するに当り、一足飛びに移り変ることは出来ない。そこで順次に複雑なる状態を経て来るのである。それであるからして或は魚類の「エムブリオ」に似たやうな状態を通過することもあるであらう。魚類が卵子から魚類に発育するには同じやうに単細胞から出来上つて複雑となり来るので胎生期のある時代が類似して来るのは少しも不思議ではない、それだけのことで人類が魚類の時代を通過したとはどうしても考へられないのである。
今茲にある人があつて、人類も他の高等動物も皆眼や鼻や手足がついて居て余程似よつて居るので、人類は他の動物から分れて発達して来たのだと結論せば、多くの人はそれを一笑に附するに違ひない。ところがヘツケル(※19)の原律をよく味つて見るとやはりこれと大同小異の結論でたゞ顕微鏡を用ひて事実を複雑にしたといふに過ぎぬ。一体比較生理学や比較解剖学の価値のある所以は、同じく造化の作品である動物の生理解剖を明かにして以て人類の生理解剖を一層明瞭ならしめやうとの目的で存在して居るといつて差支ない。何も比較解剖学からして、人類の祖先を明かにするのが目的で存在して居るのではない。此等の学問は現代に於ても決して完成しては居ない。況してそれから人類の起原などといふ大問題にとりかゝるのは余程早計である。然し人類が其の胎生の時期に於て魚類の胎児に似た時代を通過するといふ事実は極めて興味ある所で、これによりて自然が如何に巧妙に且つ如何に捷径を選びたがつてるかゞ窺ひ知れるので、その事実で以て人類が嘗て魚類の時代を通過したなどといふことは以ての外の詮議である。科学者が根本問題の解決に携はるためには余程其の態度を明かにせねばならぬ。科学と哲学とは離るべからざる要素となつて来たが、哲学に入る者は動もすると「科学の破産」などゝ唱へたがる弊がないでもない。科学はまだ決して破産はしない。実は破産するまでも発展して居ないのである。世界の七不思議をヂユボアレーモン(※20)は唱へたがあの時代の科学的智識では七不思議の解決は覚束ない、然しそれを以て永久に未解決として断定するのは余程考へ問題である。科学は永久に科学として存立して行かなくてはならぬ。
次に生物化学の勃興に連れて人々はやはりこの方面からこの根本問題に立ち入つた。殊に免疫学の立場から種々の現象が発見されて来たのにつけて、茲にも牽強附会の説が沢山飛び出して来た。免疫学の中に Gruppenreaktion と称することがある。類族反応とでも名けたらよからう。例へば甲の動物の血清は乙の動物の血清を沈降せしめやうとする沈降素なるものを持つて居る。殊に乙の血清にて免疫した甲の血清は、非常に多く乙の血清に対する沈降素を含むで居る。ところがかゝる免疫沈降素は乙の血清のみならず、丙の血清をも沈降せしむる力がある。この際乙と丙とは余程縁の近い動物だと断定することになつて居る。其処で猿と人類の血清とに就て同様な類似点が認められる故に人類は猿と縁が近いのみならず之を人類は猿から進化した証拠として取扱ふ者さへある。なほ其他溶血素に就ても同様の実験が行はれて居る。が何れにしても、例外の事実が後から後へと観察せられて来て、結局はやはり有耶無耶の議論となつて了ふ。然し血清学によりて観察せられたる事実は誠に尊いもので、血清の鑑定とか疾病の診断とかには欠くべからざる秘鑰となつて居るが、何時も理論の戦場では果敢なき屍に換へられて了ふ。「あらゆる理論は灰色」かもしれぬが、理論そのものよりも科学的事実の提供が灰白であると言ひたい。
地質学や古生物学の研究もやはり人類の過去の時代を窺ふに必須であるが、かの子アンデルタール(※21)ハイデルベルヒ(※22)から出た骸骨を直に原始人類だとするのは早計で、ワスマン(※23)其他の言ふ様に現住せる野蛮人と大差なきを見ればその時代にもかゝる人種が住したと見做すべく、今の人類の凡ての祖先が斯の如きであつたと言ふのは容易に肯んじ難く僅かに一つや二つの骨骼から凡てを律することは六ヶ敷い。人類学の研究は極めて尊いものであるが、貧弱な材料から大なる結論を下すことは遠慮すべきである。
要するに根本の問題の解決に当りては何時も材料の不足に苦まねばならぬ。従つて勝手なる想像の糸で結び合して結論を急ぐことになる。結論するにはまだ科学はあまりに幼稚である。自然科学の発達の年数を考へて見てもわかる、未だ手を著けられざる領域は渺として我等の前に横はり(※24)其処に科学者の貴重なる使命が存して居る。勿論ワスマン(※25)の言ふやうに基督教の創造説が万古不易の真理として存在するものと断言すべきでもない。然しカント(※26)ラプラス(※27)の説すら既に動揺を来せし時代に当り、不変説(コンスタンツテオリー)は或は一面の真理を語るものかもしれぬ。心識和合を以て人となす原人論の説はあまりに遠く、生命の流れといふが如きベルグソン(※28)の説はあまりに空寞として居り、また進化論の原理も追々揺ぎ始めし今の場合或は不変説を科学的に主張し闡明すべき時代にあるかもしれぬ(。)(※29)要は結論に先ちてなほ科学を進ましむべき義務がある。

(※1)(※2)原文圏点。
(※3)(※4)(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文ママ。
(※8)原文の繰り返し記号は「ゝ」を二つ重ねた形。
(※9)(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)(※15)原文傍線。
(※16)原文句読点なし。
(※17)(※18)(※19)(※20)(※21)(※22)(※23)原文傍線。
(※24)原文ママ。
(※25)(※26)(※27)(※28)原文傍線。
(※29)原文句読点なし。

底本:『人性』(大正6年7月号)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1917(大正6)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2007年3月26日 最終更新:2007年3月26日)