本月下旬(大正十二年十一月)、巴里に於て人類の恩人パストール(※1)先生の誕生百年祭が執行せられ、東京では既に此程盛大な記念祭が行はれた。私の心は、今パストール(※2)研究所内の、あの荘厳な墓を訪問した記憶や、延いては巴里在住当時の追憶の情に充ちて居る。
パストール(※3)の晩年の栄光に溢れ輝いた生涯を思ふにつけ、私はそれと同時に、巴里の一隅に、寂しく大理石像を残したホレース・ウェルス(※4)の悲惨な晩年を思はずに居られない。読者の中にはウェルス(※5)の名をよく存知せらるゝ方もあらう。然し大多数の方には、この名はあまり親しくはないであらうと思ふ。
有名な凱旋門のあるエトワール(※6)に近いイエナ(※7)街に沿うて、プラース・デ・ゼタ・ジユニ(アメリカ(※8)広場)と称する広場がある。広場といつても、大きな邸宅の庭園程もない大さであるが、その広場のイエナ(※9)街に面した端に、高さ五尺位の台石の上に、小さい大理石の胸像が置かれてあつて、その台石には「ホレース・ウェルス(※10)。麻酔法の創始者」といふ文字が小さく刻まれてゐる。
私が倫敦から巴里に移つたのは四月の始めで、丁度この広場のすぢ向ひの「オテル・アンテルナチオナール」といふ、日本人の定宿ともいふべき旅館に荷を解いたのであるが、ある夕方この広場に来かゝつたとき、ふと、この胸像が薄曇りの空の光に蒼白い色を呈して、何となく寂しさうに見えたのに心をひかれ、正面に近寄つてその顔を熟視すると、その表情がまた、如何にも寂しさうで、その頃健康の何となく勝れなかつた私の胸に、一入の旅情をそゝつて、私は涙ぐましい程の気持となつた。が、ホレース・ウェルス(※11)の名を私は其時少しも知らなかつたので、急いで宿に帰つて携帯して居た二三の医学史に関する参考書を披くと、何れにも委しい記述はなかつたが、果して彼が極めて寂しい生涯を終つたことが明になり、アメリカ(※12)人である彼は、かうしてこのアメリカ(※13)広場に記念像を建てゝ貰つたのである。
麻酔法の発見が外科学上延いては一般医学上の一大進歩であつたことは、今更喋々するを要せぬ。之によりて如何ばかり人類の幸福が増進せられたかは、医者たる者の誰しもよく知つて居る所であつて、麻酔法の発見者は、正に人類の恩人と謂つて差支ない。
麻酔法の歴史は至つて古く、疼痛を免るべき方法は実に太古から人類の捜し求めたところである。印度に産する大麻の如き、或は欧洲に産する、「マンドラゴーラ」の如き、或は埃及、印度、ペルシア(※14)に古くから知られた催眠術の如きも、麻酔に応用されたのであるが、科学的な一般的な麻酔法の発見せられたのは、漸く十九世紀の中頃であつて、実に、嚆矢はアメリカ(※15)人の手によつて射放されたのである。
ホレース・ウェルス(※16) Horace Wells は一八一五年即ちパストール(※17)の誕生に先だつ七年、米国コネチカット(※18)州、ハートフォード(※19)に生れた歯科医である。彼は常々如何にもして歯科的手術を疼痛なしに遂行したいと思ひ悩んで居たが、一八四四年十二月十日、ある通俗講演の席上で「笑気」の実験を目撃し、そしてクーレー(※20)といふ男が笑気を吸つてから、過つて椅子に躓き、その腕に負傷したが、その際少しも疼痛を感じなかつたといふことを聞くや、ウェルス(※21)は忽ち、笑気こそ、自分が年来捜し求むるものであると考へ、急ぎ家に帰つて之を実験せんとしたが、恰もよし、自分の臼歯が二三日前より痛み出して居たので取り敢へず同僚のリッグ(※22)に頼んで、笑気を吸つて、抜いて貰つた所、少しも疼痛を感じなかつたから、麻酔より覚めた嬉しさの余り、彼は直ちに A new era in tooth-pulling と叫んだのであつた。
抑も笑気即亜酸化窒素が吸入によりて人を麻酔せしむることは、一八〇〇年英国の科学者サー・ハンフリー・デーヴィー(※22)の創唱せる所であつてデーヴィー(※23)はその作用を“uneasiness being swallowed up for a few minutes by pleasures”と言ひ、自分では、意識の消失する程度迄は実験しなつた(※24)が、彼の炯眼は、彼をして、早くも「是を外科的手術に応用したらよからう。」と宣告せしめたのであるが、その後約四十年を経て、始めてウェルス(※25)によつて、彼の言が実行されたのである。
自分自身に施して成功したウェルス(※26)は、直ちに之を幾多の患者に試みて同様に成功し、彼の以前の弟子たるモートン(※27) Morton と共に、ボストン(※28)に出掛けて、公に「デモンストレーション」を行つたのである。ところが、どうしたものか、その時の実験は、甚だ不完全に終つたがため、聴衆はウェルス(※29)及モートン(※30)を嘲つて、詐偽者として了つたのである。ウェルス(※31)は、実験の失敗は笑気が十分作用しない内に歯を抜いたためであると極力弁解したが、最早誰一人相手にするものがなかつた。
このことあつて以来彼は失望のどん底に陥り、剰へ病を得て、怏々の日を送り、幸に一八四六年フランス(※32)の Academie de Science で、自分の発見を説明することを得たが二年の後気が狂つて、遂に紐育に悶死したのである。
一方モートン(※33)は、ウェルス(※34)の意を継ぎ、笑気を捨て「クロール・エーテル」を使用して、動物を始め、自体及び患者に実験して成功し、始めて世に認められて、暫くの間に彼の麻酔法はアメリカ(※35)に拡がり、次で欧洲にも伝はつて、一般外科的手術に広く応用せらるゝに至つた。その後「エーテル」が、麻酔剤として使用せられ、次でシムプソン(※36)によつて「クロロホルム」が使用せらるゝに至り、愈よ麻酔法の基礎は完成せられたのである。
かくの如くにして、わが、ウェルス(※37)もまた、多くの科学的率先者が嘗めたやうな苦い経験を嘗めた一人である。当時彼の伝記に就ては、これ以上知ることが出来ず、またどういふ動機で彼の記念像が彼を知る人の少ないこの異郷に建てられたかを、穿鑿することが出来なかつた。恐らく彼が巴里の「アカデミー」に報告したことが、その因縁となつたのであらう。己が生国で容れられずして、他郷で僅かに認められるといふことも、多くの科学的殉教者にあり勝ちのことではあるが、それにしても顧みる人の少ない土地に孤影悄然として突立つて居ることは、どれ程寂しいであらうかと、私は昼も夜も折さへあれば、彼の記念像の前に佇んで、及ぶ限り彼を慰さめやうと試みたのである。その際きまつて私の胸に浮んだ二つの詩句があつた。その一つは行平が、
わくらはにとふ人あらば須磨の浦に も塩たれつゝわぶと答へよ
の歌であり、他の一つは、ハイ子(※38)が、
Einsam klag' ich meine Leiden
Im vertrauten Schoss der Nacht,
Frohe Menschen muss ich meiden
Fliehen Scheu wo Freude lacht.
Einsam fliessen meine Thraenen,
Fliessen immer, fliessen still,
Doch des Herzens brennend' Sehnen
Keine Thraene loeschen will.
であつた。ことにハイ子(※39)は巴里と縁が深く、ウェルス(※40)の寂しい姿から聯想して、私はまたいつもハイ子(※41)の寂しい身の上を思つた。ところが、巴里に来て一月の後、私は病床に呻吟する身となつたため、その後眼の前のウェルス(※42)を訪ふこともならず、そのまゝ煙霞療養の途に上り、次で故郷に帰つて来たのであるが、今パストール(※43)の記念祭が執行せらるゝに当つて、私は当時を思ひ出し、麻酔法の創始者ホレース・ウェルス(※44)に、この一篇を捧ぐべく筆を執つたのである。
(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)原文傍線。
(※6)(※7)(※8)(※9)原文二重傍線。
(※10)(※11)原文傍線。
(※12)(※13)(※14)(※15)原文二重傍線。
(※16)(※17)原文傍線。
(※18)(※19)原文二重傍線。
(※20)(※21)(※22)(※23)原文傍線。
(※24)原文ママ。
(※25)(※26)(※27)原文傍線。
(※28)原文二重傍線。
(※29)(※30)(※31)原文傍線。
(※32)原文二重傍線。
(※33)(※34)原文傍線。
(※35)原文二重傍線。
(※36)(※37)(※38)(※39)(※40)(※41)(※42)(※43)(※44)原文傍線。
底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1922(大正11)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2018年2月9日 最終更新:2018年2月9日)