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サムエル・ピープス(※1)の日誌其他

不木生

 チヤーレス(※2)二世及びジエームス(※3)二世に仕へた英国海軍卿サムエル・ピープス(※4)Samuel Pepys(1633-1703)の日誌は、文学者及び史学者にとりて欠くべからざる資料の一つである。この日誌はもと暗合を以て書かれたがために、著者の思ひ切つた、赤裸々な告白が記されてあつて、一唱三嘆興味津々として尽くる所を知らない。
 日誌はピープス(※5)の結婚後第六年なる千六百六十年一月一日から始まり、千六百六十九年五月三十一日を以て終つて居る。眼疾を患ひて殆んど明を失したがために、それ以上続けることが出来なかつたのである。僅かに九年に余る年月であるが、この間は英国の歴史中最も国事多端の折柄であつた。即ち千六百六十年は、かのクロムウエル(※6)によつて建てられた共和政体が破れて、チヤーレス(※7)二世が王位に登つた王政再興の年であり(※8)千六百六十四年には、オランダ(※9)との戦争が始まり、翌年はロンドン(※10)に「ペスト」大流行があり、更にその翌年は倫敦の大火があつた。単に政治上のみならず、文学科学上に於ても大なる収穫があつた(※11)即ち科学では、千六百六十一年にロバート、ボイル(※12)が化学の分子を定義し、翌年には「ローマル・ソサエチー」の建設、ニュートン(※13)の微分学の発見があり、千六百六十五年にはニュートン(※14)の引力の法則の発見、ローワー(※15)が犬から犬への輸血の成功、雑誌「フィロソフィカル・トランザクション」の創刊があり、千六百六十七年にはロバート・フック(※16)の植物細胞の発見があり、更に翌年にはメイヨー(※17)の酸素発見があつた。文学では、ミルトン(※18)の「失楽園」(一六六七年)、バンヤン(※19)の「天路歴程」(一六七〇年)が出た。
 ピープス(※20)はこの日誌の始まる年 Clerk of the Acts of Navy に任ぜられ、(海軍卿になつたのは後のことである)当時最も多忙であつたこの職務に従事したがために「ペスト」の時も、大火の時も、ロンドン(※21)の地を離るゝことなく、従つて「ペスト」の惨状もよく記されてある。今その一節を左に訳出しやう。
 「九月三日(一六六五年)(日曜日)起床、美しき染絹の衣服と新調の鬘を著る。この鬘は余程以前に購ひしものなれど、当時ウエストミンスター(※22)に疫病流行せしを以て敢て著用に及ばざりしなり。疫病終息の後如何なる鬘が流行するやは蓋し見物ならむ。疫病にて死せし者の頭部より得たるやも知れざれば、伝染を虞れて毛髪を買はんと欲するもの無ければなり。‥‥‥‥ブラウンカー(※23)卿とミン子ス(※24)閣下と余とは保安官(ジヤスチス・オヴ・ピース)の希望によりてヴエストリー(※25)に参集し、疫病増加を防ぐべき手段を議す。然し乍ら如何せん、人人の気は顛倒し、禁断の故を以て却つて死者埋葬の状を目撃せんと殺到するを。兎に角先づ之を防ぐべき命令を発するに一決す。色々の議事のうち余の心を惹きしは、ロンドン(※26)の患家よりこの町に運ばれし幼児に関する他の者の不服の申出なり。フッカー(※27)氏の談によれば、その子の父はグレシアス(※28)街の馬具師にして、他の子は悉く疫病のために失ひ、細君と共に家内に監禁せられしが、如何にもこの子のみを救ひたさに友人を説服して裸体の儘手渡し、かくて幼児は其友人の手により別の衣服に包まれ、グリーンウイッチ(※29)に運ばれしものなりといふ。議はその子を許し置くことに一決す。‥‥」
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 政府の命により、当時患家を歴訪して治療に従事せし例の Dr. Hodges の著 Loimologia の中の一節を左に訳出しやう。
 「八月、九月の両月に於て、一週間の死亡数は三千、四千、五千、一度は八千に上つた。ある家々にては埋葬を待つ屍体が並べ置かれ、他の家々にては患者は臨終の床に横はる。甲の室からは断末魔のうめき声が洩れ、乙の室からは譫呆のために狂暴する物音を聞く。程遠からぬ所に眷属知己の損失を悲しみ、而も程なく悲しまれる身とはなる。時に患者は泥酔者のやうに街上を蹣跚として彷徨し、その儘殪れ伏すもあり、時に昏睡の状態に横臥し、あの世に復活の喇叭を聞くまで再び覚むる能はざるものもある。或ものは市場に食品を購ひつゝ斃れ、僧は寺に瞑目し、医師は患者に薬剤を与へ乍ら死ぬ。遺産が数日の間に数人の相続者に手渡ることは珍らしくない。埋め役の人夫は不足し、埋葬時の鐘はあまりに鳴らされて嗄がれ、遂には用をなさなくなつた。墓場は死者を収容しきれないで、荒地に設けられし大穴の中へ、三十、四十の屍体が一時に投げ入れらるゝ。友の葬儀に列したものが軈て永遠の家に還り行くなどは日常のことである。而も疫病は少しも衰退の色なく、今後なほ如何なる惨状を呈するやも測られない。
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 Vincent 氏著 God's terrible Voice to the City, by Plague and Fire の一節を序に左に訳して置く。
 「今や黒雲天に漲り、大雨沛然として到りぬ。「死」は蒼白の馬に跨りつゝ、凱歌を奏して街上を横行し、住民の生残せる家ごとに闖入せり。人々の斃るゝこと、宛も晩秋の黄葉の疾風にあひて繽紛として散るが如し。倫敦の街衛は惨憺たる寂寞に包まれ未曾有の厳粛なる儀式の行はるゝ安息日の続くに似たり。店舗は閉ぢ、人は去り、所々路上に雑草を生じ、市中到る所(げき)(※30)として声無し」。
 時の大医シデナム(※31)は七月の半頃まで倫敦に留まつたが、疫病は漸次猖獗を極めたがために、友人達の勧誘によつて、家族を引き連れ田舎に去つた。然し程なく多くの患者の切なる願によつて帰つて来、彼独特の治療法即ち瀉血法を施して多くの患者を救つた。この「ペスト」の治療法及び原因に関する彼の意見の詳細は彼の論文 Of the pestilental Fever, and Plague of 1665, and 1666(英訳)の中に書かれてある。シデナム(※32)の文章の中にはデフオー(※33)エーンズウオース(※34)や、ピープス(※35)や、ホッヂス(※36)や、ヴインセント(※37)のやうな「ドラヤチカル」の部分はないが、その行き届いた記述振りは一読に価すると思ふ(。)(※38)

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)原文傍線。
(※8)句読点原文ママ。
(※9)(※10)原文二重傍線。
(※11)句読点原文ママ。
(※12)(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)(※20)原文傍線。
(※21)(※22)原文二重傍線。
(※23)(※24)原文傍線。
(※25)(※26)原文二重傍線。
(※27)原文傍線。
(※28)(※29)原文二重傍線。
(※30)門構えに「貝」。
(※31)(※32)(※33)(※34)(※35)(※36)(※37)原文傍線。
(※38)原文句読点なし。

底本:『医学及医政』大正11年10月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1922(大正11)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年4月7日 最終更新:2017年4月7日)