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デ・フォー(※1)の「倫敦疫病日誌」

不木生

 「ロビンソン・クルーソー」の作者としてのダニエル・デ・フォー(※2) Daniel De Foe(1661-1731)の名を知らぬ人は恐らくあるまい。十七世紀から十八世紀へかけての英国の大小説家として、一代に三百余種の物語を書き上げた程、彼は筆達者な男であつた。然し彼は描写に何等の技巧を用ひなかつたのみか、書かでもよい事までだらゝゝ(※3)と書くのが常であつて、夏目漱石氏の言葉を藉りていふならば、其の文章の体裁は、火事見舞に行くにも、葬式の供に立つにでも、いつも同じ足なみでてくゝゝ(※4)と歩くといふ風であつた。(夏目漱石氏著「文芸の哲学的基礎」及「文学評論」参照)即ち長いものは長いなり、短いものは短かいなりに書き放して、寸鉄人を刺すといふやうな意味深長の語を用ふるのでもなければまた艶麗な字句を連ねるのでもなかつた。然しそれでも彼の人気は大したもので彼の作物は至る所で熱烈に歓迎せられたのである。それ故一七二二年彼が匿名で、A Journal of the Plague Year「疫病時の日誌」を公にした時も「疫病当時(一六六五年)に住んで居て、之を目撃した者の手記にして、嘗て公にせしことなきもの」と書き添へてあつたに拘らず、これを書いたものはデ・フォー(※5)より外に無いとて「ロビンソン・クルーソー」と等しく愛読せらるゝに至つた。(尤もデ・フォー(※6)は其の作物の多くを始め匿名で出すのが癖であつた(。)(※7)後には彼の名を入れて出版したが、フイールヂング(※8)の言つた如く、「英国の小児はこの疫病日記によつて永久に、十七世紀の倫敦の「ペスト」の惨状を忘れない」であらう。
 「倫敦疫病日誌」は小説といふよりも一種の報告書といつた方が適当である。若しこれを一の報告書として見たならば、蓋しこれ位行き届いた、殆んど完全無欠といつて差支ないものは、未だ曾て如何なる人の手によつても書かれたことはあるまい。些の技巧を用ひないで事実をありの儘に、見たまゝに、(尤も彼は一六六五年の「ペスト」流行当時にはまだ四歳であつたから、見ることは出来なかつたが)寸分の洩もなく、「ペスト」流行の遠き起りから、終末まで根気よく書き並べて居る。彼がこの書を作るに用ひた参考書は、一六六五年の倫敦市の死亡統計表(London's Dreadful Visitation)とホッヂス(※9)氏 Dr. Hodges 著 Loimologia と、ヴインセント(※10)氏 Rev. T. Vincent 著 God's Terrible Voice in the City とであるが、無論大部分は彼の豊富なる想像を以て書き下したのである。従つて中には事実と異なつた記載も往々あるが、兎に角内容の範囲が比較的限られ而も坦々たる筆を用ひ乍ら、あの大冊の終りまで読者を引張つて行つて倦ましめない手腕は、蓋し非凡であると謂はねばなるまい。
 一六六五年と一六六六年の両年に於て、倫敦市はまだ嘗て夢想だにせざる恐ろしき災禍を蒙つた。即ち一六六五年には「ペスト」の流行によつて人口の大多数(約七万人)を失ひ、一六六六年には大火のために、家屋の大多数を失つたのである。当時人々は、之を以て神が其の最高の審判を倫敦に下したものと考へた。この考はデ・フォー(※11)の心にも深く刻み込まれ、従つてこの「疫病日誌」は単なる報告書にも止まらずして(、)(※12)一面に於ては倫理的教訓に充ちた立派な小説である。
 この「ペスト」大流行は一六六五年の二三月頃からポツゝゝ(※13)始まり、(其以前にも偶にはあつたが)七、八、九、十の四ヶ月に亘つて、猖獗を極め、翌年の初めに下火になつた。街路にたちろぎつゝ斃るゝ病者、彼処此処の■■■(※14)の中より洩るゝ絶望の悲鳴、鈴を鳴らしつゝ右往左往して搭載に忙しい死人車(デツド・−カト)(※15)、十把一からげに死人の投げ込まるゝ墓地の大穴、それ等の凄惨なる光景が、極めて冷静な筆を以て描写せられてある。左に比較的「ドラマチック」な色彩を帯びた部分を訳して見やう。(「疾病と文学」といふやうな題目に興味を持たるゝ人に、是非此書全体を一読せられむことをお奨めする)。
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 かうして街を歩いて居るうち、私は多くの物凄い光景を目撃した。或は街の真中でどたりと斃れて死ぬもの、或は苦しさのあまり、突嗟に窓を押しあけて、たゞならぬ相好もて、金切声を搾つて絶叫する女など、人々が恐怖のあまり、血迷ふ千態万様は到底筆紙のよく尽す所ではない。
 ロスベリー(※16)のTヤード(※17)を通り抜けやうとするとき、遽かに頭の上で窓の扉がひらり開いたかと思ふと、「死ぬ(デス)、死ぬ(デス)、死ぬ(デス)」と三度(、)(※18)とても真似の出来ないやうな、身の毛もよだつ女の声が聞えた。私はぞつとして立ち竦んだ。その時街の上には人影一つ見えず、また窓をあけて見る家もない。人々はもうかやうなことには馴れて了つて、お互に助け合はうともしないのである。私は軈てB小路へ曲つた。
 丁度其時、右手に当つて、なほ一層けたゝましい叫びが耳に入つた。窓こそあかぬが、一家挙つて恐怖に襲はれたらしく、女子供が狂気の如くわめき乍ら室の中を駆けまわる音がした。突然向ひ側の屋根裏の室の窓があいて、誰かゞ「どうしたんだ」と尋ねると、こちらの窓から「主人が首吊つたんです」との答。「もうすつかり駄目か」、「駄目です、駄目です、冷たいですもの」。この家の主人といふのは富裕な実業家で而も市会議員である。私は名をよく知つて居るが、今も其の家は栄えて居るから、遺族の名誉のために秘して置く。
 かゝることはこの一軒のみではない。毎日それこれの家庭に起つた幾多の惨劇の状は、殆んど信ずるに難い程である。或は病のためにさいなまれ、或はたえ難き腫物の痛さに悶えて、家を抜出しつゝ狂乱馳駆し、時には我と我が身を打擲し、時には窓から身を投げ、時には拳銃で自殺する‥‥ある母親は気が触れて我子を殺し、或者は病気に罹りもしないに、少しの痛みの為又は単なる恐怖のために絶命し、ある者は自失して白痴となり、あるものは絶望のあまり発狂し、あるものは悒鬱狂となり了る。
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 ある晩このパイパー(※19)(笛を吹いて袖乞ひをする男)が少し飲み過ぎて―ジヨン(※20)(死人車(デツト・カート)の車力)の話によると、C町の宿屋でいつもより余計食べ物を貰つたので、腹がふくれたゝめ、とある露台に横になつて居るうち、いつの間にかぐつすり寝込んで了つた。丁度其の時死人車(デツド・カート)の鈴(ベル)の音がしたので、近所の町角の家の人々が、「ペスト」で死んだ屍体を大急ぎで吊り出し、露台に運んで、寝て居る男とは知らず、屍体だと思つて、其の傍に列べて置いた。
 其処へジヨン(※21)が屍体を集めに、鈴(ベル)を鳴らして、車を走らせてくると二個の屍体が眼に入つたので、側にあつた笛もろ共に、車の中へ積み込んだ。そうとは一向知ず、笛吹き(パイパー)はすやゝゝ(※22)と寝入つて居た。
 車は段々町を廻つてどしゝゝ(※23)屍体を拾ひ込み、とうゝゝ(※24)笛吹き(パイパー)の身体は死人の中に埋つて了つた。それでもまだ覚めない。遂にマウントミル(※25)の大穴へ来て、車を止めると、漸く気がついたと見え、ひどくもがいた挙句、頭を擡げて、「おい、こゝは何処だい」と叫んだ。驚いたのはジヨン(※26)と埋め役の男で、やつとのことでジヨン(※27)が「こりや大へんだ。車の中にまだ死に切らぬ奴が居る」とうめくと、も一人の男が「誰だい」と尋ねた。「おりやパイパーだよ、此処は何処だ。」「何処だつてお前」とジヨン(※28)がいふ、「何処だつてお前、死人車(デツド・カート)の中だよ、これからお前を埋めにかゝる所だ。」「だつて」と笛吹きはいふ「おりや死んで居ないんだよ。だが、死んでるかい」始め心から怖いた二人もこの言葉にプツと吹き出し、手伝つて車から下してやると、笛吹きは間もなく闇の中に姿を隠した。
 私はこの話を別の人からも聞いた。それによると町を曳き廻つて居る最中、車の中から突然笛の音が聞えて来たので、車力もそのあたりに居たものも、驚いて逃げ出したといふのだが、ジヨン(※29)自身は笛を吹いたことなどは話さず、上記のやうに運ばれて来たといふので、私はジヨン(※30)の話を信用しておく。
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 九月に入つてから、急に「ペスト」は勢を増した。その月まで幸に病気に見舞はれなかつたある男が、逢ふ人毎に、自分は用心深く病人の傍には決して行かないから、病気には罹らないのだと、いつも得意気に、少し大胆すぎる自慢をした。ある日隣人の某が「あまり己惚れてはいけませぬよ。病人か病人でないかはわかるものでなく、見た所達者な人でも一時間後に病気が出て二時間目には死ぬといふ有様ですから」(※31)と忠告すると、「尤もです」と男は答へる。「が、私は大丈夫です、まだ危険な人には近寄りませぬから」(※32)「それならいゝけれど」と隣人は言葉を続ける(。)(※33)「時にあなたは一昨晩、G町のB居酒屋で××君と一しよに居たではありませぬか。」「そうです、けれどあすこには誰も怪しい人は居りませぬでしたよ」(※34)すると隣人は急に口をつぐんで了つた。そうなると其男は何だか不安に怯えたので、色々訊いて見たが、相手はとんと答へない。愈たまらなくなつて、「××君は死にはしないでせう、え?」それでも隣人はまだ黙つて、静かに眼を上げて、何事かひとり言をいつた。此処に於てその男は遽かに青ざめ「ぢや私も駄目だ」といひざま、附近の薬屋にあたふた駆けつけ、まだ罹つて居ないつもりで予防薬を求めた。薬剤師はその男の胸をあけて見て、ホツと息つき乍ら「神様を拝みなさいよ」といつた。数時間の後その男は死んだ。
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 附記、この日誌の中には、人々の迷信を始め、当時市の施した隔離法其他の医学的処置に就ても精密に述べられてあるが、それ等は一切省略する。

(※1)(※2)原文傍線。
(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文句読点なし。
(※8)(※9)(※10)(※11)原文傍線。
(※12)原文句読点なし。一文字空白。
(※13)原文の踊り字は「く」。
(※14)原文三文字不明瞭。 (※15)読み仮名原文ママ。
(※16)(※17)原文二重傍線。
(※18)原文句読点なし。一文字空白。
(※19)(※20)(※21)原文傍線。
(※22)(※23)(※24)原文の踊り字は「く」。
(※25)原文二重傍線。
(※26)(※27)(※28)(※29)(※30)原文傍線。
(※31)(※32)句読点位置原文ママ。
(※33)原文句読点なし。
(※34)句読点位置原文ママ。

底本:『医学及医政』大正11年8月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1922(大正11)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年3月31日 最終更新:2017年3月31日)