ヒッポクラテス(※2)医学の復興者として、近世内科学の始祖として、英国の天才トーマス・シデナム(※3) Thomas Sydenham (1623-1689)の名は、何人も深く記憶せねばなるまい。
Nil admirali を自家の「モットー」となし、ピツポクラテス(※4)、ベーコン(※5)、キケロ(※6)、セルヴァンテス(※7)の著書の外は、専門の書と雖も手に触れず、同時代のハーヴェー(※8)、マルピギー(※9)の業績すら知らなかつたことを以てしても、凡そ彼の人と為りを知ることが出来るであらう。偶然人に勧められて医学に志し、オックスフォード(※10)大学を卒へてからモンペリエ(※11)に留学し、帰つてウエストミンスター(※12)に開業し三十九歳で、ロンドン(※13)の College of Physicians のfellow に挙げられたといふ外彼の伝記は何等の波瀾も色彩もなく、たゞサー・ブラックモーア(※14)が医術に秀ずるには何を読めばよいかとたづねたとき、言下に「ドン・キホーテ」を読めと答へたことが、有名な逸話として残つて居る。
彼はベーコン(※15)卿に私淑し、その学説を正直に医学に応用した。即ち治療を完全ならしむるには、疾病を如実に観察し、之を順序よく記述すれば足りると考へたのである。実際彼の著書を読むと磨かれた、鋭き観察眼によりて、飽くまで精密に疾病を観察し、事の本末を■らず、虚を棄て実を洩らさず、遺憾なく忠実に記述せられてあつて、あまりに自己の眼識を信じ、自己の力量に便つたが為に痘瘡が伝染するものなることを見逃したことなどは寧ろ滑稽に考へられる。
それ故彼の文章には苦心惨憺の跡が偲はれる。彼は総て羅甸語を以て書いたが、キケロ(※16)を愛読したゞけあつて、ジョンソン(※17)の言へる如く其の文体はキケロ(※18)のそれに髣髴たるものがある。ことに晩年の作、「痛風」と「水腫」に関する論文は文豪フィールヂング(※19)の愛誦措かなかつたもので、就中痛風は著者自身が永年苦しんだものであるだけ、何人と雖も、一字一句加ふることが出来ぬ程、流暢に記述せられてあつて、一度読みかけたら、巻を終るまで手を離すことが出来ない。
彼が著作全集の巻頭に載せた序文には、彼の医学研究の態度が充分に書かれてあるから、そのうち機を得て翻訳して見たいと思ふ。左に訳述する(英語よりの■訳)一文は、彼の「痛風」及「水腫」に関する論文の始めに置かれ、同僚 Dr. Short に捧げた手紙であるが、片鱗よく彼の意気と苦心とを窺ふに足り、学に志すものにとりてのよき教訓たるを疑はない。
わが敬愛する足下
私は茲に「痛風」及「水腫」に関する短い論文を足下に捧げます。実は私が従来屡ば実地に遭遇した他の諸種の慢性病をも記述して、もつと長い論文を作る積りでしたが、過度の努力のために、持病の痛風が出て、而もこれ迄にない激しい発作に悩んだので、不本意ながら、健康を気遣つて、最初の計画を中絶し、一先づこの二論文だけで切り上げることに致しました。全く仕事に取りかかるなり、発作が起るといふ状態ですから。
かやうな訳でありますから、足らぬ所は幾重にも御容赦下さつて、私のこの挙をどうか是認して頂きたいと思ひます。而して私が足下に捧げましたのは、主として二つの理由によるのであります。第一に、足下は私が以前公にした所見を有益なものと認めて下さつたのと、(二三の人からは蔑視せられましたが)第二に、職業上親しく御交際を願ふに及んで、足下の才能が実地によく適応して居ると認めたからであります。と申すのは、足下は如何にも文献にも精通して居られますが、足下の本性は理論を弄ぶには適せず、どうしても実地向きであると思ひますので、由来技術と思弁とは恰も些事と重要事程の差異があつて、同一人には到底共存することが不可能だと思ふからであります。
足下の■眼は、足下に思ふが儘に実験の機会を得せしめた繁忙な実地と相挨ちて、足下をして医師仲間の覇者たる名誉を与へ、剰へ足下の円満なる交際振りは其の名誉を永久に存続せしむるでありませう。そこで若し私の捧げたこの論文が足下及び私の敬愛する二三の友人の賛成さへ得ましたならば、かの単に病理及治療上の意見の相違のために私を快く思つて居ない輩の目に如何に触れやうとも、少しも意に介する所ではありません。と申すのは私は従来、他人が読書に費す時間を思索に費し、一般の賞讃を博するために如何に世間に阿諛しやうかと力むるよりも、如何したら真理の気に入るかといふことに腐心して来たからであります。実際私が一市民としての義務を果し、個人の利益を排棄して、公衆のために尽しましたら、世間の賞讃を得ないとて何の関する所でありませう。思ふに、いゝ年をして、名誉のために骨折ることは、軈て、死んでから先の事に準備すると同じ訳合であります。諸行無常の人の世の習として、恐らく風習も異なり、言語も異なり来り、祖先の事は何一つ知らぬといふ時代が参りませう。かゝる時代の連中の心事は、とても今の私では忖度しかねますが、それと同様に、私の意中を知らぬそれ等の輩の口に、私の名を綴る八文字(訳者曰、Sydenham の八字)が上されたとて、病後私に何の役に立ちませう。かゝる次第で、私は他人の思惑に拘泥する魂胆は寸毫も持つて居りません。その故は若し私が果して疾病の治療及診断に幾分の改良を施し得たとして、それに対し賞讃を博したとしても、その名誉を長く享楽することは出来ませず、又若し之に反して、私のこの著述が他人の好む所とならなかつたとしても、この衰微した健康を以てしては到底この上著述によりて世間を煩はすことが出来ぬからであります。実際私の手は顫へて、この短い論文すら、自ら筆を執ることが出来なかつたのであります。たゞ幸にもケムブリッジ(※20)大学の「バチェラー・オヴ・フイジック」なるドレーク(※21)氏の助力を主として仰ぎ得ました。氏の善良なる性質と円満なる人格によつて私は莫逆の友を得、氏の稟賦の才能と学殖とは氏が実地家として立つとき、人類に多大の幸福を与へるでありませう。終にのぞみ、足下に対する私の所為と妄言とを多謝し、こは偏に足下を衷心より尊敬するに出でしものなることを併せて御承知を願ひたいのであります。
千六百八十三年五月二十一日
ロンドン(※22)にて
トーマス・シデナム(※23)
(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)(※8)(※9)原文傍線。
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(※14)(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)原文傍線。
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底本:『医学及医政』大正11年7月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1922(大正11)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)