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頭の畸形

小酒井不木

   拝領の烏帽子梶原縫ひちゞめ
 いつもながら川柳子のうがちには舌を捲く。たゞ不幸にして梶原の頭の大さを知らないから、頼朝公の頭の大さの絶対量を知るに由ないが、凡そ察しがつかぬこともない。浄海入道が臨終の床で熱にうかされながら逆さ瓢箪の幻影に悩んだといふ記録は見つからぬけれど、どうやらまあその辺の見当ではないかと思ふ。現今では逆ダルといふ。だが頼朝公はそんなに赤い顔はして居なかつたと思ふ。あんなに疑ひ深い人は顔が蒼い。して見るとどうも瓢箪の方が坐りがいゝ。
 鎌倉へ行くと、頼朝公の頭蓋骨がある。二つ三つはある。中には馬鹿に小さいのもある。案内人に向つて、
「馬鹿に小さ過ぎるぢやないか。頼朝公はず抜けて大きかつたといふから。」ときくと、
「なに、これは頼朝公御七歳のしやりこうべ。」
 といふのを講談本で読んだことがある。
 足袋の広告にやさしい顔を頬笑ませ、幸福を象徴しながら、梨園東西の中堅に名を貸して居る先生も、常に大頭を談ずるときに引き合に出されるが、ありや一たい何物なるかを筆者は不幸にして知らないのである。何しろこの稿を書いて居る時は、戸外の空気は氷点下に冷却され、とてもつめたくて参考書を引つ張り出す元気がない。だから福助の考証は他日に譲るとして、さて大頭のレコードはどれ位かを記して見やう。
 頼朝公の烏帽子のサイズは残念ながらわかつて居ないが、明治のニコポン宰相の山高帽のサイズなら、今もなほ知つて居る人があるかも知れない。けれどその脳の重量が、それほど多くなかつたところを見ると、とても番附面で小結の位置を保つことはむつかしい。解剖学者キユービエーの脳量が今のところ日の下開山で、六十四オンス三分の一を算する。次がダニエル・ウエブスターの六十三オンス四分の三で、頭蓋の周囲は二十三吋四分の三だつた。
 だが、これ等の人々の頭は決してまだ畸形とは言ひ得ない。尤も畸形と常型との区別は時に甚だ困難であるが(、)(※1)さうしてロムブロゾーによると、天才といふのは多くは畸形で、そのずばぬけて大きな頭も畸形のうちに列すべきかも知れぬが、キユービエーの肖像を見ては、どうも畸形といふ感じが浮ばない。
 では、畸形的大頭の大さはどのくらゐあるかといふに、西洋の文献には頗る珍らしい例がある。先づ第一に挙げらるべきはフールニエの記載して居るボルギニの頭である、その頭蓋骨はマルセーユ博物館にあるさうであつて、筆者はマルセーユへ行つたことがあるけれど、その時分はちつとも知らなかつたものだから、つい見逃がして遺憾に堪へぬが、ボルギニは一六一六年に死んだ男で、五十歳の時身長四呎といふからには先づ福助型の恰好を思はしめるが、その頭の大さは、実に、まはりが三呎、高さが一呎あつた。かういふ記録はたゞ読んだゝけではいけない。すべからく紐でもゝつて来て目の前で頭の大さを作り上げてみるべきであるが、それをやるなら如何にその形が巨大なものであつたかを知るに足らう。
 だがこのボルギニといふ男、智慧は足らなかつたらしい。といふのは、その当時、マルセーユでは、
   Apas mai de sen que Borghini
   (貴様はボルギニの智慧しか無い)
といふ方言が流行つたさうだからである。然し、何しろ異常な存在だつたから、その名声は全フランスに拡がり(、)(※2)一時は天下の寵児となつた。
 老年になるに従つて、彼の頸は、その巨大なる頭を支へるだけの能力を失ひ、やむを得ず彼は両肩にクツシヨンを置いて生活して居たさうである。
 次に同じくフールニエの記載であるが、同じくマルセーユで、一八〇七年六十七歳で死んだ男は、(残念乍らその名がわからぬが)前記ボルギニの塁に肉薄した。彼はボルギニとちがつて非常に聡明で、何をきいてもよく知つて居た。それこそ生きた字引と称せられたけれども、惜しいことにそれほどのアルバイトを残して居らぬ。不思議なことに彼は三十年間ベツドに入つたことがなく、夜は椅子に腰掛けて、読書したり物を書いたりした。一寸考へるとそんな大きな頭をして居ちや嘸眠からうと思はれるが、三十年間も眠らないでよかつたとは羨ましい。一日又は一日半毎に一回の食事をして、決して湯を用ゐなかつた。きつと身体がほとつたのであらう。
 十八世紀の初頭に、チユーニスに巨大な頭を持つたモーア人が住んで居た。年は三十一歳で、身長は普通だつたといふが、何しろ頭が目立つて、彼が街を歩いて居るときは、人々が行列をなして従つたといふことであつた。彼の鼻は大へん長く、口はすばらしく大きく、あの大きなメロンを、普通の者が林檎にかぶりつくやうに、かぶりついて食べたといふことである。さうして、彼もやつぱり低能であつた。
 その他の巨頭で名高いのは、ウイリアム・トーマス・アンドリユースで、十七歳の侏儒だつたが、頭のまはりが三十五吋、耳の孔から耳の孔までが二十七吋四分の一、顎の先から顔と頭のてつぺんを超えて、後頭部の出つ張り迄の距離が三十七吋半、顎から局部までが二十吋、局部から足の裏までが十六吋だつたといふ。まるで頭に身体が生へて居るといつた怪物である。
 一たいこのやうな巨頭がどうして生ずるかはもとよりまだはつきりわからぬが、普通脳水腫が原因であるといはれて居る。脳室に液がたまつて、頭を押し拡げるのである。だから脳水腫の脳は紙のやうにうすくなつて居ることがある。何故に脳水腫が起るかは、これまた不明であるが、一たん脳水腫がなほつて、その液の代りに脳の実質が出来て来たら、それこそ天才といふべきものが発生するらしい。反対に液がそのまゝ溜つて居ては、低能であること勿論で、福助タイプには、低脳が頗る多く、同時に身体の発育が悪くて多くは侏儒である。
 普通脳水腫は頭蓋を四方一様に拡げ、顔の前から見るといはゞ扉を開いたやうになるが、中には、上の方へのびて行くタイプのものもある。そうなるとかの七福神中の福禄寿に似て来るのであつて、あゝした形は決して架空のものではない。新世紀アメリカで見世物に歩いた男の写真は、まつたく福禄寿そつくりである。
 次に大頭の反対の小頭に就て語らう。日本の福の神がいづれも大頭であるに関し、アメリカで一時流行した福の神ビリケンが小頭であるのは興味ある対照である。ちようどニコポン宰相の亜流に尖頭宰相を得たのと好一対である。今はもうどれもこれも一片の夢であるが、宰相となるほどの人には、何かかう身体に異様なところのあつた方がたしかによいと思ふ。
 さて、小頭で名高いのは……といつても、どうも英雄豪傑乃至天才には小頭が少ないので、歴史上の大人物のうちに小頭をさがすことは至難であるらしい。で、まあ一ばん珍らしい例としてはロンブロゾーの記載にかゝる L'homme-oiseau(鳥人)で、頭蓋の容積実に三百九十立方センチメートル。次は同じくロンブロゾーの L'homme-lapin(兎人)で、頭の廻りは実に四十九センチメートル。
 アメリカ及びヨーロツパで約二十五年間見世物にされて居た Aztecs と呼ばれた兄妹は、兄をマキシモ、妹をバルトラと言ひ、アメリカインド人と黒人との混血児で中央アメリカに生れた。二人とも低能で、畸形をよく目立つやうにするために、頭の髪の毛を房々に生やさせてあつた。黒人の髪の毛は御承知の通りチリゝゝ(※3)であるから、のばすのに大に骨が折れたらしい。
 ヒツポクラテスやストラボニウスはその記録の中に、幼い時から頭をしばつて人工的に小頭を起さしめる習慣が、ある一部の民族に行はれて居ることを書いて居る。この習慣は今もアメリカインド人の間に存在して居るといふことであるから、アメリカでビリケンが尊まれることゝ因縁づけると面白い。尤もビリケンなるものは、ある貧乏な彫家刻(※4)が食ふに困つて、やけくそ(※5)であゝしたものを拵へたところ、時の大統領ウイリアム・タフト(ビリ公)の名と呼応してたちどころに評判となつたゞけで(、)(※6)インド人とは恐らく無関係であらう。だが、何故にインド人が人工的小頭を施すかは詮索するに値する。
 大頭には天才と低能と二種類あるが、小頭は常に低能に属するらしい。脳が少なくてはとてもよい智慧は宿り得ない。先づ見世物ぐらゐがオチであつて、ウオレース・サーカスに居た Mexican wild boy と呼ばれた小頭の男など、名を竹帛に垂るゝことが出来た。
 極端な場合になると、大脳のない、即ち頭の無い怪物の生れることがある。が、かゝる畸形児は (※7)多くは産後何時間又は何日かのうちに死んでしまふ。一八三一年イタリアで生れた赤ん坊は大脳も小脳も無かつた。それでも生後十一時間生きて居ることが出来た。長いところで五日間乃至八日間。いやもう、早く死んだ方が本人のためである。
 この外、頭の形に色々の畸形を示すことがある。孔子の頭はカツパの頭のやうで、そのために「丘」といふ名をつけられたといふことだが、不整な形状の頭を持つた天才は存外多く、お互に、つむじが曲つて居たとて決して心配するには及ばない。(をはり)

(※1)(※2)原文句読点なし。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文ママ。
(※5)原文圏点。
(※6)原文句読点なし。
(※7)原文一文字空白。

底本:『グロテスク』昭和4年4月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年6月2日 最終更新:2017年6月2日)