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鼻の畸形

小酒井不木

 本能寺の溝の深さをたづねた奴はあつても、天狗の鼻の長さを問題にした者はあまりないやうである。一九の膝栗毛には、屡ば風呂敷に包んだ天狗の面が譬喩にせられて居るが、まさか興奮時のリンガの長さが天狗の鼻の長さに等しいといふ訓でもあるまいと思ふ。
 天狗といへば誰でもその顔の形状を思ひうかべるほどポピユラーなものである。尤も岩谷商会の全盛時代ほどではないかも知れぬが、少くとも天狗の鼻が異常に長いことを知らない人は稀である。ところがそれほどポピユラーなものでありながら、さて天狗とは何ものなりや、果してそんなものがあるのか、若し無いとすれば何からさういふ伝説が起つたものか、知つて居る人はこれまた甚だ稀なのである。
 試みに広文庫を開いて見る。あるわ、あるわ、約四十頁にわたつて、古文書の天狗に関する記事が切り取つて並べられてある。が、それ等を片つ端から読んで見ても、結局天狗は奇体なものといふことしかわからないのである。そのうち、長門本平家物語の「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬にもあらず(、)(※1)足手は人、かしらは犬、左右に羽生えて飛びありくものなり」とあるのが一番上出来のやうである。結局実在のものではないのであるから、かう言つて置くのが無難なわけであるが、若し或る動物の形が種になつて出来た空想的生物であると仮定するならば、その種となつた動物は鳥であるといふのが、これまたもつとも無難な説であらうと思ふ。鳥の長い嘴を鼻と見立てれば、それでどうやらまがりなりにも説明はつくと思ふ。だから天地或問珍に「天狗といふも鳥の化生したる物なるべし」とあるのは、まことに賢い言ひ方である。只その下へもつて来て、「また人に似たる事あやしからず、海中に人魚あり陸に鸚鵡ありて、能く人の語をなす、天狗の人に似たることあやしきにもあらず」とあるは、だいぶ怪しげな文句である。が、まあ天狗の話はこれ位にして、実世界に本当の人間で、天狗のやうな大きな鼻をもつた者があるかどうか、それを一寸こゝに書いて見たいと思ふ。
 宇治拾遺に非常に長い鼻をもつた坊さんのことが書かれてあるのは、芥川龍之介の出世作「鼻」のたねとなつた事によつて、甚だ目立つ例となつて居る。この坊さん飲食の時は、必ず童子にその鼻をもたげさせて熱湯の中へ鼻の落ちこまぬやう用心したのであるが、あるとき童子がとりはづして、熱湯の中に落すと、坊さんは痛さに飛上り、「この野郎、わしはもう老人だから堪忍しておくが、ほかの人の鼻をこのやうにもたげそこなつたら、どえらい科に逢ふんだぞ、以後気をつけろ(※2)と叱つた。すると童子は小声で、「ほかの人にこんな鼻があるものか。」
 それはとにかく、この老僧の鼻は、口の方へぶらんと垂れさがつて居たものであるらしい。若し天狗の面のやうに真直に、前方にのびて居たら、何も食事の際に童子を煩はさずにすむ筈である。だが、医学上から言ふならば、鼻が前方につんとのびて居るといふよりも、柔かく垂れさがつて居る方が、より当然であらねばならない。先天的のものとしても軟骨又は骨の畸形よりも軟部の畸形がより屡ば起りやすいらしいからである。ところが、かりに天狗の面のあの鼻を口の上に垂れさせたとしたらどうであらうか。たちまち天狗の威厳が失はれて、まるでお話にならぬぶさいくなものとなつてしまふ。して見ると天狗の鼻はどこまでもつんとして居なくてはならず、またつんてん(※3)の方が調子がいふ呵々。
 さて、天狗のやうに突出せず、芥川さんの禅智内供のやうに垂れ下らず、鼻がその本来の形状を失はずして、通常人よりも遙かに大きいといふ畸形は、西洋では非常に屡ば存在して居るのである。元来西洋人は鼻が大きいのだが、その西洋人が驚くほどの鼻は、よつぽど大きいにちがひない。バロニウスは普通人の約六倍の鼻を持つた人のことを書き、ローマのヌーマはその鼻の長さが六吋あつたといふ。比較的たしかな記録で巨大な鼻を持つて居たのは、ヨークシアのトーマス・ウエツダースである。この人は第十八世紀のはじめに住んだといふことでその鼻の長さは七吋半あつた。彼は相当の年齢まで生きて居たのだが、全くの白痴であつたといふことである。従つてその頭が到つて小さく、容積からいふと鼻の方が頭よりも大きいので、横から見ると全く鳥の顔そつくりであつた。それでも日本の天狗のやうではなく、やはり鼻の先端(※4)幾分垂れ気味であつた。
 このウエツダースの鼻はもとより先天的の畸形であるが、鼻はしばゝゝ(※5)病気の為に非常に大きくなることがある。酒を飲む人の鼻の光が時として赤く大きくなることは周知のことであるが、それはそんなにひどくは大きくはならぬものである。これに反して鼻に腫瘍が出来た場合には、顔中がそのために蔽はれてしまふやうな極端なものもある。ヘイの記載によると、腫瘍が下顎まで垂れさがり、鼻孔と口とを塞ぐので睡眠の際には、錫の管を鼻の孔にさして空気の流通をはからねばならなかつたといふ例がある。アングーレームの市長だつた人は、重さ二斤の肉腫が鼻に出来、同じく鼻孔と口を塞ぐので、立つて呼吸するときには頭で舵をとらねばならなかつた。さうして食事の際には手で持ち上げ、睡眠の際には、紐で寝台に結へつけた。宇治拾遺の坊さんも、やつぱりかうした腫瘍のためだつたかも知れない。アングーレームの市長は約十二年間その巨大な鼻をくつゝけて居たが、遂に人の(※6)めによつて手術を受けることになり、その結果はいとも見事な、もとゞほりの鼻となつた。但し、それがため却つて禅智内供のやうに笑はれたかどうかは、遺憾ながら記載されて居らぬ。
 鼻の畸形といふからには高い反対の低過ぎるのも畸形であらねばならぬ。だがこの低過ぎる畸形は、ことに日本に於てはあり過ぎるほど沢山ある。鼻柱のペコンとくぼんで居るのは独逸語で鞍鼻(ザツテルナーゼ)と呼んで居るが、日本では裏天と申し上げて居る。裏天は少し形容が誇張されて居るけれども、代議士などに裏天とあだ名されて頗る悦に入つて居る人があるところを見ると、裏天はとかく愛嬌者に多いのかも知れない。ソクラテスはザツテルナーゼだつたことに於て有名であり、ミケランゼロもどうやらさうらしいが、ソクラテスの細君が駻馬のやうであり、ミケランゼロが同性愛者であつた処を見ると、鞍鼻は婦人には余りもてぬと見做してよいであらう。パスカルはクレオパトラの鼻が今少し低かつたらといふけれど、アントニオの鼻だつて今少し低かつたら、同性愛でお茶を濁し、その結果歴史に大変化を来したかも知れない。
 裏天とあだ名をつけられて居る人でも、よく観察すると、顔の平面より幾分かは高いのが普通である。だが、時には全く顔面と同じ平面即ちのつぺら棒の顔が記録にのつて居る。メゾンノエーヴはかゝる例の人にあつて、近よつて観察したら、一ミリメートル位の孔が二つ三ミリメートル位はなれてついて居たといふことである。だから一寸はなれては、鼻が全然無いと同じに見えたのである。狸はよくのつぺら棒に化けるといふが、仔細に点検したら、一ミリメートル位の眼や(※7)の孔が、どこかにくつゝいて居るのかも知れない。
 が、何にしてもさうした例は、そんなにしばゝゝ(※8)見られるものではない。之に反して、鼻のあるべきところにごぼんと穴のあいて居るのは、割合に多いのである。さうして、それは多くは病的であつて、而もそれが黴毒によつて起ることは誰でも知つて居る。今ではサルワ゛ルサンの御蔭で鼻の落ちる人が少なくなつたが、徳川時代には、梅毒が渡来してそれほど年代を経ないことでもあり、治療も不完全だつたから、随分鼻を失つた人が多かつたらしい。山帰来をひやんきらいと言つて買ひに行くなんどは川柳子の悪口だが、さういふ恐ろしい例をまのあたり見せつけられても、危ふきに近よりたがつたところを見ると、花柳病予防法の実施された今日此頃の頽廃気分は察するもなほ余りありであらう。(終)

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文閉じ括弧なし。
(※3)原文圏点。
(※4)原文ママ。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
(※7)原文一文字判読不能。
(※8)原文の踊り字は「く」。

底本:『グロテスク』昭和4年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年6月9日 最終更新:2017年6月9日)