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追憶

医学博士 不木 小酒井光次

 何といつても中学時代の思ひ出が一ばんなつかしい。私も今年は四十になるから、私の生涯を二つに割つたその前半に中学時代が追ひやられたことになる。後半の二十年は浮世の波と戦ひ、病魔と闘つて、可なりに苦しい経験で充たされて居るが、前半は、ことに中学時代は、その中頃まで父も生きて居たし、楽しい追憶の種となつて居る。
 考へて見れば名古屋も随分変つたものである(。)(※1)四年間、大津町三丁目の某家の裏座敷を借りて住つたが、あのあたりは、すつかり昔の俤を失つてしまつた。夜の散歩に、大津町を真直に広小路まで出ると、それから直ちに右へまがつて、一度も南大津町へは足を入れなかつたものである。何となく陰気で、数町進めば竹藪のやうなものがあつて、とても散歩などして居れるところではなかつた。それが今は、名古屋市の中心となつて、最も繁華なところとなつてしまつた。
 東陽館が田園に近いところにあつて、日曜日などには植物採集にあのあたりへ出かけたものである。たまには奮発して大池まで写生に来たことがあるが、遙かに東南方を望んで、あの辺が御器所村だと教へられ、さてはあれが有名な沢庵漬の産地か、とても一生涯あのやうな片田舎へ寄りつくことはあるまい、などゝ思つて居たのに、今はその御器所に住む身となつて、郊外らしい気分さへなくなつて行くのを悲しむ運命のもとに置かれてしまつた。
 さすがに第三師団だけは、昔の俤が濃厚に残つて居る。久屋御門をはひつたところにテニスコートがあつて、よくそこへ出かけたものである。初夏の頃、五時にはもう夕食をすまして、それから闇くなるまで其処でテニスをやるのが何よりの楽しみだつた。新緑の頃の御濠端の景色は雄大であつた。友の一人にハーモニカのうまいのがあつて、軍歌などを合唱した気持は思ふだに快い。
 いふまでもなく、その頃母校の校舎は片端にあつた。七間町と呉服町との間に、あやふげな黒板塀で囲まれて居たグラウンドの姿が、一ばん印象に鮮かである。ホームベースのところに桜の老木が一本あつたやうに記憶する。その老木の根本に腰を下して、選手たちの猛烈な練習を見て居る時の無心さ! その頃の野球選手は大てい私と同クラスで、中埜、伊藤、久保など、何処へ出しても恥かしくない人たちであつた。鵜飼、加藤の黄金時代から、一中は野球で天下に名をなしたものである。今もなほ一中軍の試合が新聞に報ぜられるごとに勝敗如何にと気が揉めるのは、まことに当然のことである。
 そのグラウンドも、その老木も、又かの、呉服町と伊勢町との間に建てられたロマネクス(※2)式(?)の白壁造りの校舎も、今はもう夢のやうに消えてしまつた。むかしの人は、浅茅ヶ原になつた都の跡を悲しんだが、なつかしかつた建物が、別の建物に変つて居るのも、可なりに悲しいものである。電車で通る度毎に中学時代のことが思ひ浮んで来る。
 私は中学の一年二年のとき、作文が極めて不得意であつた。時々催された懸賞作文に一度も二十五等のうちに入つたことがなかつた。ほかの学科は相当な成績で、袖には金スヂを附けて居たが、算術と作文とは苦手だつた。ある時父に向つてそのことを訴へると、「お前は年が若いからだ。算術も作文も年をとれば上手になるものだ。」と、頗る楽天的な考で、別に二つの学科に上達すべき方法を講じてはくれなかつた。三年の頃から、古今の名文を暗誦するとよいと先生に教へられて、ぼツゝゝ(※3)と書抜きをはじめたが、名文を暗誦してもやつぱり碌な文章は書けなかつた。四五年になつて、懸賞作文には入賞するやうになつたが、遂に満足な結果を得ず、そのまゝ今日に至つたのであるが、それにも拘はらず今は売文を業として暮らさねばならぬので、つくゞゝ(※4)運命の皮肉に苦笑せざるを得ない。
 中学時代には雑誌といふものを殆んど読んだことがなかつた。学校から禁じられて居たし、雑誌の数も極めて少なく、又、雑誌を買ふ余裕もなかつた。それだのに今は、中学生向きの雑誌に筆を執ることが度々である。これもやはり皮肉な運命の一であるといつてよい。
 四年級の第一学期に父を失つて、老年の義母と二人ぎりになつた私は、中学を卒業した後、田舎に引込まねばならぬ運命となりかけた。父は法科大学へはひれといふやうなことを言つて居たが、義母は父に死なれて急に寂しくなつたゝめに、私を手許からはなしともなかつたのである。だから、中学を卒業するなり、上の学校へはやらぬと言ひ出した。
 すると、時の校長日比野先生は義母を口説いて、手許に置きたければ医者にならせるがよい、医科をやらせてはどうかと、再三勧めて下さつたけれども、義母はやつぱり気が進まなかつた。が、兎に角、補習科だけへは通ふことに頼んで、蟹江の自宅から汽車で往復したが、一月過ぎ二月暮れて六月になると、高等学校の出願期日が目前に迫つて来た。
 義母は頑強に我が意をとほさうとする。義理ある仲であるから、強ひて背くことはよくあるまいと親戚の人たちは言つてくれる。私ももう、あきらめようと決心して、それ(※5)も未練があつたので、六月十日即ち高等学校入学願書受附〆切の午前、校長室に日比野先生を訪ねると、先生は大へん心配して下さつて、とに角願書だけは出して置いたらどうだとすゝめて下さつた。
 が、まだ八高の出来なかつた前であるから、願書を出すとすれば三高より他にない。而も今日が〆切日であるから、願書は汽車で持つて行かねば間に合はない。さりとて、私は行くことが出来ぬ。
 ちやうどその時、同じクラスの川崎君(現在の北海道大学医学部教授の三輪博士)が、事情あつて出願が遅れて居て、その場に来合はせたので、日比野先生は川崎君に二人の願書を持つて汽車で京都へ行つて来るやう取計つて下さつた。念の為に携へて居た写真を添へ、入学受験料五円は日比野先生が出して下さつて、川崎君は、あたふた停車場へかけつけた。
 後できくと、川崎君が三高へ行つたときはもう事務室がしまつたあとであつた。弱り切つて校庭に立つて居ると、運よくも其処を一中出身の先輩が通り合せたので、その人に頼んで、宿直の事務員に届書を受附けてもらつたのである。
 願書の一件はこれで危ふくすみ、それから試験だけを受けて見たいと願つてやつと許され、試験に及第すると、さすがに義母も我を折つて、では高等学校だけやらせるといふ条件で三高を終り、大学へ入る際またゝゝ(※6)一捫着あつて遂に大学を卒業したのであるが、卒業試験中義母は脳溢血を起し、試験後二月で永眠したのは実に悲しかつた。
 いや、思はずも私事に関して長談義をやつてしまつた。だが、かうした機会でなくては十分思ひ出につかることが出来ない。私は、私にこの好機会を与へて下さつた伊藤校長に感謝するのである。

(※1)原文句読点なし。一文字空白。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文ママ。
(※6)原文の踊り字は「く」。

底本:『学林』第104号(創立50周年記念号)昭和4年3月10日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2009年2月16日 最終更新:2009年2月16日)