説教強盗。昭和三年の冬、また一つ新らしい熟語が作られました。しかもそれがその後の新聞の三面記事を頗る賑かにして居ます。流行物(はやりもの)とはいへ、一日も早くその跡を絶つてほしいと思ひます。
説教強盗なる名称を、誰が最初に使用したか存じませんが、たしかに新聞記者によつて製造されたものであります。強盗にはひつて家内のものを脅(おびやか)し、金品を奪つたあげく、「もつと戸締りをよくして置くがよい。犬を飼つたらよいだらう。」などと説諭して出て行くところから、この名が生れたのでありますが、私にはどうも説教強盗といふ名称が気に入らないのであります。昭和時代の新造語としてはいかにも古くさい感じがします。多分説教といふ語の持つ意味が然らしめるのでせうが、仮に私がこの種の強盗を探偵小説に描いたとしても、とてもその表題に「説教強盗」の四字を選ぶ気にはならぬだらうと思ひます。何度繰返して読んで見ても、少しも詩的な情緒が湧いて来ません。若し説教強盗の本人が多少なりともロマンチツクな心を持つて居るならば、彼はこの名称に苦笑するか或は憤慨して居るにちがひありません。私は説教強盗の本人と共に、早くこの名称をも葬つてしまひたいと思ひます。
名称そのものに何の清新な感じがないと同じく、説教強盗そのものにも、決して何の新らしみもないのであります。強盗に入つて、戸締りの説諭をするくらゐのことは、これまでの強盗にもその例は沢山ありました。たゞ昨今としては少し物珍らしかつたため、センセーシヨンを好む新聞記者のためにまつり上げられ、それ以後、他の強盗までが説教を真似し出したゝめ、遂には第一世を強盗の天才でゞもあるかのやうに言ひはやすに至つたのであります。
けれども、その遣り口の何処にも天才的のところは認め得られません。日本の家屋のやうな不完全な戸締りを破るくらゐ、決して特種な技能を要しません。又、一旦家の中に踏み込めば、家屋全体が一つの部屋も同然でありますから、何処に誰が寝て居るかといふことが直ちにわかつてしまひ、主人の寝室を知ることが出来ると同時に、家族のものが家の中から走り出すことなどを、すぐに感附くことが出来ます。又、電話をかければ家中響き渡るから、強盗は悠々と腰を落つけて居ることが出来るのであります。ですから、ほんの少しの度胸さへあれば、何の苦もなく説教ぐらゐは出来るのです。
また、新聞などには厳重な警戒線を突破して入りこんだやうに書かれて居りますが、それは新聞記者の出鱈目であります。これゝゝ(※1)の家へはひるときまつて居れば、それこそ厳重な警戒が出来るわけですが、何処へはひるともわからぬのに、厳重な警戒のしやうがありません。若し、予め某々の家に手紙を送つて、何月何日の何時に盗みに行くと警告し、警察の厳重な警戒があるにも拘はらず、予告通りに目的を達したとするなら、それこそ天才的であるといはねばなりません。
探偵小説にはよくこのやうな天才的の盗賊を取り扱ひます。ハンシヨウといふ探偵小説家の書いたクリークといふ盗賊はその例であります。彼は予め盗みに入る家に予告して置き、ちやうどその時間に、警察の役人に扮装してあらはれ、まんまとその目的を達するのであります。さうして、あとで本当の警察官がやつて来て、はじめて真相がわかるといふ筋であります。
次に、説教の内容にも、何等の新味がありません。もとより、色々なことをくだゝゝ(※2)喋舌つては、あとで手がかりになるから、平凡なことだけを述べて置くのかも知れませんが、戸締(とじまり)のことを言ふなどは、まつたく余計なことです。強盗にはひられりや、その後は戸締りに注意するにきまつて居ます。いはゞ余計なおせつかいです。私に言はせれば、説教強盗といふよりもむしろおせつかい(※3)強盗といつた方が適当だと思ひます。
こんな余計なことを言ひ残して立ち去るよりも、黙つて去つた方が、どれだけ値打を上げ、凄味を増すか知れません。若し主人にでも話しかけられたなら、それこそ、強盗を生むやうな現代社会の欠陥でも指摘して、大(おほい)に仲間のために気焔を吐くがよろしい。その昔、窃盗に入つた家に「自来也」と書き残して去つたといふ盗賊など、半ば伝説ではありますけれど、どんなに鮮かな遣り口であるか知れません。
それに、説教強盗がこれまで訪れた家は、別に種類が一定しては居らないやうです。たとへばかの鼠小僧のやうに、特殊の大名屋敷だけを狙ふといふ風でもないやうです。「義賊」などといふ言葉は慎まねばなりませんけれども、たとひ間違つた道徳的標準を持つて居るにしても、自分の主義に従つて行動するものには、何かしら一種の愛嬌を感ずることが出来ます。換言すればロマンチツクな感じを起させます。従つて盗賊でありながら時代の寵児となることが出来ます。探偵小説にあらはるゝ快盗や義賊などは、たちどころに読書界の寵児となります。ホーナングの書いた義賊ラツフルズや、ルブランの書いたアルセーヌ・ルパンなど、読者の中にもお馴染があるだらうと思ひます。然るに説教強盗に至つては、すこしの詩味もありません。
それにも拘はらず、説教強盗の新聞の三面を賑かにして居るのは、ジヤーナリズムのお蔭です。立入つて考へれば、現代人のいかもの喰ひ(※4)的な性質に多少適応して居ると言へないことはないけれど、要するに説教強盗は平凡です。名称も実物も共に平凡です。況んやその説教強盗を真似る、いやゆる第二世、第三世に至つては、実もつて憐むべき輩(はい)であると思ひます。
この平凡な説教強盗に対して、不利益な位置に立たせられて居るのは、わが警察であります。恐らく、従来の逮捕率と変らぬ成績が挙げられて居るであらうにも拘はらず、たまたまこの特種の名称を附した強盗又はその類似のものの横行するために、やゝもすれば無能よばりをされようとします。けれどもそれはむしろ責める方が悪いのであります。
近ごろは、犯罪探偵に、科学的捜査といふことがやかましく言はれ、証拠を科学的に検査して犯人を決定する方法が採用せられて居りますけれど、元来犯罪探偵といふことは一つの芸術でありまして、やはり多分に直感といふものが必要であります。従つてすぐれた探偵になるには、厳密に言へば「天才」を要するのであります。顕微鏡や試験管さへあれば探偵が出来ると思つては大きな間違ひです。ところが、如何なる方面に於ても、天才といふものは容易にあらはれないと同じく、探偵的天才も決して容易には見つかりません。探偵小説に描かれる探偵はシヤーロツク・ホームズをはじめ多くは探偵的天才でありますから、現実の世界には、ちよつとあり得ないのでありますから、すべての警官をシヤーロツク・ホームズのやうでないといつて責めるのは責める方が野暮です。シヤーロツク・ホームズ物語を読むと、ロンドンの警察の探偵が到るとの(※5)ろでホームズに叱られて居りますが、あの物語は、いはゞ現実の警察に慊らない思ひをして居る人々の渇望を癒すために、書かれたといつても差支はないと思ひます。
現実の警察に天才的活動を望み得ないのは昔も今も、また西洋でも東洋でも同じことなのです。だから犯人の探偵は、たゞ科学的利器を応用して多くの警官が系統的に活動することによつてのみその目的が達し得られるのであります。こゝにはじめて、科学的捜査が深い意義をもつことになるのであります。天才的探偵活動には科学的捜査は「従」でありますのが、多数の警官の系統的活動には科学的捜査は「主」であります。
この系統的の活動に最も必要なものは「金」であります。金が豊富にあればどんな活動でも出来て、最大の能率をあげることが出来ますけれど、金が制限せられては、思ふやうに活動が出来ず、従つて犯人逮捕の実があげにくい訳であります。
ところが警視庁では、どれ位の金が与へられて居るか知れませんが、地方の官庁に於て犯罪捜査にあてられて居る予算は、驚くほど少額なのであります。何も知らぬ人々は、どれだけ使用しても、要つたゞけは出して貰へるだらうくらゐに考へて居るかも知れませんが、それは大へんな誤(あやまり)であります。まつたく、一つの大きな事件が突発すれば、それだけでなくなつてしまふくらゐの予算しか無いのですから、「もう少し金をかけたら十分に取調べがつくがなあ」と思ひながらも差控へなくてはなりません。ですから、とても完全な捜査は望み得ないのであります。
犯罪捜査に限らず、すべて物を捜すにはむだな試みをいくつも行はねばなりません。沢山なむだなさぐり(※6)を入れて、はじめて正しいものをつかみ出し得るのですが、金がなくては、そのむだなさぐり(※7)を思ふ存分に入れることが出来ません。
かくのごとく、日本の犯罪捜査は、金の為めに著しくその活動が阻止されて居ります。このことは、一般に知られて居らないために、やゝもすれば警察を無能呼はりする人がありますが、警察の行動を批評しようと思つたならば、まづ金の不足に同情すべきであります。昨今、強盗事件が頻々と起つて、人人の肝を寒からしめて居りますが、世の富豪にして枕を高くして眠らうと思つたならば、よろしく、犯罪捜査費に応分の寄附をしてほしいと思ひます。
いさゝか警察の為めに弁解の辞を述べましたが、弁解は単にこれのみにとゞまりません。犯人逮捕には申すまでもなく、被害者側の語る人相が有力な参考となるものですけれど、この、被害者側の語る人相が、頗るあて(※8)にならぬものだといふことを特に述べて見たいと思ふのであります。
説教強盗がどんな人相なり風体なりをして居たかを私は聞きませんが、きつと警察には被害者側の陳述が記録されてあることゝ思ひます。けれども、一般に人間の眼で見た証拠ほどあやふやなものはありません。だから探偵小説家は、金庫のそばに写真を据ゑつけ、盗賊が金庫に触れるなり、電気仕掛でマグネシウムが燃え、盗賊の姿を写真に撮影するといふやうな方法を考へます。けれども実際に於て、そのやうなことは言ふべくして容易に行ひ難いところであります。説教強盗が写真に撮られたといふ話をまだきゝません。恐らく今後にもあるまいと思ひます。尤もこの文章を読まれた人が、よりよき方法を工夫して、偶然強盗に見舞はれなさつた場合は別ですけれど、何人(なんびと)でも、そのやうな工夫をするくらゐなら、まづ、強盗のはひり得ないやうな工夫をさるゝに違ひないと思ひます。
私たちは時として電車の中などで、半時間くらゐ同じ人と相向きあつて腰掛けて居ることがあります。それで居て、電車を降りたとき、その人がどんな服装をして居たか、少しも覚えて居ないことがあります。たまゝゝ(※9)注意して居ても、なほ且つ見洩らしが沢山あります。一般に婦人は男子よりも、かゝる時の観察力が遙かにすぐれて居ります。ことに婦人は服装を観察して微細な点まで誤らないことがあります。
けれども、たとひ観察力が優れて居ても、恐怖に襲はれたときなどは、非常に著しい誤謬を行ひます。眼の前に強盗を控え、而もその強盗が、いつなんどき気を変へて、血なまぐさい兇行をなさぬにも限らぬといふとき、その人相や服装を十分観察することは殆んど不可能事(じ)に属すると思ひます。
先年私の郷里(尾張の田舎)の素封家へ抜刀を提(ひつさ)げた強盗がはひりました。前夜主人は知人の家の結婚披露に招かれ、紋附の着物と羽織を枕元の衣桁に掛けて寝たのですが、強盗は先づ、それを悠々と着込んで、それから主人を起して脅迫しました。主人はよほど気丈な人でしたが、それでも強盗に面して居る間、自分の五つ紋がチラヽヽ(※10)眼の前に動いて居たに拘はらず、少しも自分の羽織だとは気附かなかつたのであります。恐怖の際には、物の形が眼にはひつても、認識することが出来ないのであります。
西洋にもこんな話があります。一七七六年ロンドンのベンリージといふ人の家に四人組の強盗が入つて、約五千円の品物を強奪して行きました。ベンリージ夫人の話によると、一人が外面の黒い提燈を持ち、二人が彼女の寝台の両側へ来てピストルを差出したが、その二人はベーツとグリーンといふ、いづれも彼女の知つた男であると誓言しました。ベンリージ氏は、自分は近眼でよくわからなかつたがピストルを差出したうちの一人はたしかにベーツであると言ひました。なほその上に召使と、もう一人その家に居合せた婦人とが証言を与へたので、ベーツとグリーンは逮捕されました。彼等は大(おほい)に驚いたが、現場不在証明(アリバイ)を挙げることが出来ず、友人たちは、二人が決してそんなことをする男でないと証言しましたけれど、遂に二人は有罪の判決を受けました。すると与(よ)(※11)論が大(おほい)に沸騰し、二人の刑は一時執行を延期されましたが、数ヶ月の後、田舎で検挙された男が、ベンリージ家に強盗に入つたことを自白したので、二人は直ちに放免されたのであります。
このやうに、眼で見た証拠即ち見証は、まつたく宛にならぬものであります。どんなに沈着の人でも強盗に入られゝば多少の恐怖は免れません。ことに婦人の恐怖は当然のことでありますから、たとひ平素男子よりも優れた観察力を持つて居ても、強盗の風体に関する婦人の観察は、よほど注意しなければなりません。況んや男子の観察に於てをやであります。
一方に於て、強盗のことですから、指紋などを残す機会も少なく、搗(かて)て加へて、警察はその活動の出発点が頗るあやふやであります。今のところ説教強盗が、職業的犯罪者であるか、素人であるかもわかつて居りません。尤もこれは私がわからぬといふだけで、恐らく警察ではその遣り口からして、職業的か偶発的かは判断されて居ることゝ思ひます。若し職業的であれば逮捕は遠からぬことと思ひますし、またそれを祈つてやまないのであります。
すべて犯人の正体をつかむには、犯人の身分を考へて見るのも必要なことであります。凡そ大人が窃盗を行ふ動機は、いろいろありますが、クラウスの研究によると大たい三種類にわかれて居ると申して居ります。第一は飢餓とかその他の窮乏困苦にせまられて行ふもの、第二には仕事をすること即ち働くのが厭で行ふもの、第三には快楽享楽を追ふ結果行ふものがこれであります。説教強盗の説教の内容を私は知りませんけれども、若し注意深い人が彼に出逢つて、巧みに話しかけたならば、その言葉によつて、彼がこのうちの何れの動機によつて強盗を行ひつゝあるかを略(ほ)ぼ察することが出来ると思ひます。その結果、彼が、如何なる階級の人間に属するかをも知り得るかも知れません。又、彼の言葉づかひそのものから判断して、彼がどれほどの教育を受けて居るかを知るはそれほどの難事ではありません。場合によつては、その言葉の訛りで、彼が日本のどの地方の出身者であるかをも知れないとは限りません。かゝるいろいろの点を綜合することによつて、いはゞ捜査の範囲をせばめることが出来るのであります。私は前に説教そのものが至つてくだらないことを指摘しましたが、捜査の際には、説教の時に用ひられた言葉が、有力な手がゝりとなり得るものであります。このことから考へても、説教強盗その人は決して天才的ではないのであります。説教をして手がゝりを残すといふことはたしかに愚挙でありまして、天才的な犯罪者なら、黙つて踪跡をくらまし、黙つて出現するであらうと思ひます。
たゞ幸(さいはひ)にして今日(こんにち)まで、説教そのものが、新聞の煽情的記事の提灯持ちになつただけで、手がかりとならなかつたのは、説教強盗にとつて、幸運だつたといはねばなりません。
以上三つの動機の外、なほ窃盗狂と称するものがあります。これは動機といふべき動機がなく、盗むために盗みを行ふものを言ふのであります。いはゞ本能的に盗みを行はねば居られないのでして、その例は決して稀ではありません。けれどもかゝる窃盗狂は逮捕され易いのであります。証拠を残すことなど少しも顧慮しないために、アシがつき易いのです。かゝる人は、刑務所へ行くことなど何とも思はず、盗みを行へば満足なのであります。わが説教強盗はどうも窃盗狂であるとは考へられません。して見ると前記の動機の何れかに属する者でなくてはなりません。
すべて窃盗を行ふものには、必ず多少の迷信的性情があるものであります。窃盗と迷信とは密接の関係を有するものでして、今こゝに委しく説明して居る余裕がありませんけれど、わが説教強盗にも多少の迷信はあると思ひます。
最初私が説教強盗のことを新聞で読みました時、この「説教」は或は彼が逮捕をまぬがれるおまじなひの為にするのではないかと考へました。さうしてこの考(かんがへ)は、今でもまだ否定しては居りません。むかしの盗賊は、家人にさとられないおまじなひに、家の前で脱糞する習慣がありました。西洋にも死骸蝋燭といつて、死骸の脂肪で作つた蝋燭をともしてはひれば家人に気づかれないといふ迷信があります。
このやうに、家人に戸締りの説教をすれば、逮捕を免れるといふやうな迷信でやつて居るのではないかと、私は考へたのであります。
もとよりさうであるかどうかは本人にきいてみなければわかりませんが、このことは、その他の彼の遣り口を参照して判断がつかないことはありません。たとへば彼は暦の一定の干支の日に限つて強盗にはひつては居ないか、又一定の方角のみを襲つては居ないかといふやうなことを調べて、若しさうであつたとすれば、相当に迷信の強い男であるといふことがわかります。
尤も、最近では二世だの三世だのと命名せられて、どれがどれかわからなくなり、第一世が果して何度強盗を行つたかも、その筋ではわかつて居るかも知れませんが、私にはわかつて居りません。
それのみならず、警視庁では、説教強盗について、もつと具体的のことがわかつて居るのかもしれません。
私はこの稿を書く前に、愛知県の刑事課へ電話をかけて、何か説教強盗に関して具体的の報告はありませんかとたづねました。さうしたら、別に何の報告もないが、若し御望みならば、長距離電話で問ひ合せて見ませうかとの事でした。
私は考へました。なまじ具体的なことを知るよりも、新聞で得た不完全な知識を基として、色々の想像をめぐらせて書いた方が却つて興味があるのではあるまいかと思つたのであります。
私の書いたことは、それ故その筋の人から見ればほんのお笑ひ草に過ぎぬかも知れません。況んや説教強盗その人の眼に、この記事が誤つて触れたとしたら呵々大笑されることでせう。が、大笑(おほわらひ)されてもよいから読んで貰ひたい気もするのであります。
(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)(※4)原文圏点。
(※5)原文ママ。
(※6)(※7)(※8)原文圏点。
(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文ママ。
底本:『婦人公論』昭和4年3月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年6月9日 最終更新:2017年6月9日)