私が今後本誌に記載して読者諸君を煩はす所以のものは、科学就中生理学人類学等人性科学の探り得たる事実を提供して、直接又は間接に、人生又は社会問題に対する読者諸君の思想の参考に資せむが為であります。私はこの世界に無意義なる存在物は決してないと思ふと同時に事実は毫も犯すことの出来ぬ神聖なものであると考へ、我等が未知の境に行はるゝ諸多の事実は、飽くまで見逃してはならぬ大切なもので、我等が自然人生の真意を究むるに莫大な糧を齎らすものと信ずるのであります(。)(※1)勿論私の記載する事実は多くは既に諸君が承知して居らるゝことでありませうが、従来の科学は科学の為の科学であつたやうですから、私は科学の獲得したる所のものを基礎として諸君と共に形而上的方面に進みたいと思ふのであります。
人生、社会問題を科学的に解釈開明しやうとするには少くとも二様の方法があると思ふ。其一は即ち系統発生(フイロゲニー)、其二は即ち個体発生(オントゲニー)の研究である。系統発生研究とは生物が現今見らるゝやうな形態性質を取るに至つたのは如何なる順序を経て来たのであるかといふ問題即ち各種属の異同、人間現今の存在に至るまでの歴史を探るのが目的で、個体発生研究は、一個の生体が、時を異にするに従つて其形態を変化し遂に完全なる個体になる迄の順序を穿鑿するのが目的である。それ故男女両性の研究に就ても二者何れを選ぶべきか、また両者併せて行ふべきかはいつも問題となる所であるが、オスカー・シユルツエなどは両性の人類学的研究は寧ろ個体発生の研究即ち胎生学的研究で足るもので、之に生後の発育史を参照して論断すべきものであるといつて居る。
バーキンス・ステートソン夫人は、女性は元来全部であつて、男性は之に附属した一部分である(※2)。其証拠には蜜蜂の雄、ボ子リアの雄等はまるで雌に寄生して居るではないかと喝破し、其他多くの人々は原始民俗の女子が男子と等しき激烈なる労働に従事し、文明人種の婦人よりも其力量が遙かに凌駕して居る所から、
現今の婦人が男子に圧迫せられ其自由を失ふに至つたのは
文明及社会事情から来た婦人の退化であると主張して居るが、実際果してさうであるかはなほ多くの熟考を要することゝ自分は思ふ。
ステートソン夫人の例証とした蜜蜂の雄及ボネリアの雄のうち、蜜蜂の話は多くの人の存知する所であるから、自分は茲にボ子リアの生活史を記載して見やうと思ふ。ボ子リア Bonellia viridis は其躯幹の長さが約八糎ばかりの緑色をした円筒状の所々にくびれ(※3)のある蠕虫類で、表面は全部小なる疣を以て蔽はれ、躯幹の前端から象の鼻に比較すべき長い突起が出て、時にはそれが半メートルもあることがある。突起には氈毛に取り囲まれた一条の縦溝が存し、突起の前端は二つに枝分して居る。突起の根元に口があり、躯幹の後端に肛門がある。
さてボ子リアは、加奈陀の海岸又は其他の海中に住んで居て、突起を以て運動し、明るい昼の光りを避け、黎明の頃を慕ひ、いつも砂礫の中五寸位の深さに居るから、海浜の住民も多くは之を知らず、始めてボ子リーに発見せられたので、其名を負ひ、人類には用もない害もない動物である。
以上記載したのが即ち雌虫のことである。雄虫は氈毛を以て蔽はれた極小のもので、渦虫類に似た形をして海水中を泳ぎ廻り、雌の突起に近づいて之に触るゝや否や其上に固着し、一定時の間其縦溝に沿ひて往来し、其後長い間其処に停滞する。それから雌の口を求め食道の中に這入るので、時として一個の雌に十数個の雄が寄生する。次で其処を出て雌の生殖孔をたづねて其生殖器の前部に居を定め受精の役を果す。其際もやはり十数個の雄を認めるのである。
ボ子リアとは違ふがこれと同様な雌雄関係の動物を序に書き添えて置かう。鰕、蟹、の類に属するもので蔓足類 Cirripedia なる種属がある。卵から出た当座は一個の額眼、三対の足で嬉しさうに海水中を泳ぎまはる。(※4)西洋梨子状の動物であるが、軈て石灰質からなる殻を分泌製造して身を蔽ひ、一方の触手て(※5)他の物体に附着固定して生活を営むのである。此類は多くは雌雄同体 Hermaphroditism であるが、其中の Cryptophialus と Alcippe のみが両性に分れて居る。而して雄は雌に比して、はるかに小さく、身体の構造も著しく異なり、自由に海水中を泳ぎ、二個乃至三個が共に雌の外膜腔に附着生存するので、ダーウインが始めて之を発見して補欠雄(※6) Komplementaere Maennchen と命名し、ある学者はこれを人体に於ける虫様突起等と同じくまさに消失せむとしつゝある者であると思惟して居る(。)(※7)糠三合持たば養子はするなと古の人は教へたが、人間生活にもある意味に於ける補欠雄を見出すことが往々あるのは興味深い事柄である。
閑話休題、蔓足類にしろ、ボ子リアにしろ乃至は蜜蜂にしろ何れも極めて下等な動物の生活状態であつて、人間の生活とはよほどかけ離れて居て、之を以て直ちに婦人の問題に引き合せて来るのは余程早計であるといはねばならぬ。それ故婦人の生活を論ずるに当りても、婦人其者の個体換言すれば有機体としての婦人を観察研究した方が適当ではあるまいかと思ふので、自分はやはりオスカー・シユルツエと等しい研究方法を主張したいのである。かの有名なワルダイエルも、男女の区別を論じて、現今見る所の男女の区別の大部分は、決して男子が女子を圧迫して起つたといふ理由は認められぬと(※8)断言して居るので、人類の形態の持続性(※9) dualism は種々の点から真であると思はれる。そこで先づ我等はやはり
人類学解剖学の見地から婦人の観察
を始めなければならぬ。茲では各臓器骨格の詳細な記載を掲げることが出来ぬが、兎に角姿勢、形態の関係、頭脳の発育程度、多数の内臓諸機関が、女子は男子に比して遙かに小児に近いといふことは(※10)何人も否むことの出来ぬ事実である。而してこの小児に近いといふ詞を以て、女子の形態が不完全であると思惟するのは大なる誤謬といはねばならぬ。この小児的であることこそ、女子の美であり艶であり柔であり且いとしい所で(※11)、かの神々しき小児の身体を誰しも不完全だと思ふ者は決して無く、譬へば恰も蕾の如く、これから雄花となるか雌花となるかわからぬ状態が即ちこれで、『残る蕾の花一つ、水あげかねし風情』とは決して大功記に限られた文句ではない。
人或は言はむ、乳房や骨盤は男子よりも遙かに発育がよいではないかと、これは答ふるまでもなく女子の生理上必然の義であつて、即ち次に生理上の観察が必要となつて来るのである。
抑も婦人が男子に比して小児に近いといふのは決して理由のないことではないのである。女子が十三乃至十六歳になると月経が始まつて来る。二十八日毎に一回三日乃至六日の間に百乃至二百瓦の尊い血液を捨てねばならぬのである。あの発育及栄養に最も必須なる液体を失はねばならぬから、生活機能が一時防遏せらるゝのも無理はない(。)(※12)猿以外の哺乳類でも一年に一回乃至二回同じやうな事柄があるだけであるから人類と同日に談ずる訳には行かぬ。
而も此生理的に来る月経時に女子の機械的及精神的機転は著しく影響を受けるものである。ヱリスは、男子の生活は平面を行くやうであるが女子の生活は波面を行く様であると(※13)、曲線を以て巧みに説明して居るが実際一箇月間の婦人機能を曲線であらはすと、月経の前に尤も高く月経時中頓に降り月経後また少しく昇り始めるのである。亜米利加の女医ヤコビーは百人中四十六人まで、月経時中多少の苦痛を伴ふものであるといつて居るが此月経たるや実に数千年の古より女子には存在して居たもので、女子が男子に比して小児に近いことは何処何時にても真で、かの野蛮人の女子が男子と等しき労働に堪へ得るのは、女子をして無理に労働に従事せしむるやうに馴れしめたのに外ならぬ。
而して月経はいふ迄もなく受精の一準備
である。子孫の繁栄を図り種属の保存を期する肝要な条件である。人類の将来に対して劃策すべく自然から特に授けられた天職である、それ故性的生活は婦人に取りて極めて大切なる部分を占めて居ることは明であつて、月経の際に破裂した子宮粘膜か(※14)癒合すると間もなく次の月経に対する準備が粘膜内に行はるゝので、月経出血は一箇月に一回であるとしても、子宮粘膜には殆ど休息がないといつても差閊ない。
バルテルス及びワルダイエルは婦人の第一の使命は家族の中に文明を運ぶことであるといつて居る。自分は妻としてまた母としての婦人を尊重するのであつて、もとより婦人が一個人としての生活、自己を発展せしめむとする要求に対して反抗するのではないが、人類学生理学上の知見よりして婦人に性的生活の肝要なことは、極めて自然的な合理的な事柄であらうと思ふ。
(※1)原文句読点なし。
(※2)(※3)原文圏点。
(※4)(※5)原文ママ。
(※6)原文圏点。
(※7)原文句読点なし。
(※8)(※9)(※10)(※11)原文圏点。
(※12)原文句読点なし。
(※13)原文圏点。
(※14)原文ママ。
底本:『第三帝国』大正4年9月21日号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1915(大正4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2007年2月26日 最終更新:2007年2月26日)