理智と現実との世界に止まらず、なほ更に奥深く這入つて、神秘の未知境に切り込み、吾等のうちに、また吾等の周囲にある秘密を名残なく探り、以て人生を理会(※1)しやうといふのが現代の精神である。即ち此世界には物質以外別に神秘幽玄な心霊界があつて、ヘツケルの所謂 Law of substance などを超越した別世界の存在を認定しやうといふのが輓近思想界の傾向であるが、然し自分はゲーテが所謂「物質は決して霊魂より離れて存在し又は働くことが出来ないと同時に霊魂もまた物質と離るゝことが出来ぬ」ことを飽くまで信じて疑はぬものである。それ故自分はブリユンチエルが所謂科学の破産は信ずることが出来ず、やはりポアンカレーのやうに飽くまで自然科学の立場を離れず、それを基礎とした形而上学的な考を主張したいと思ふ。
人生は神秘である。幽玄である。微妙である。荘厳である。然し茲でいふ「神秘」なる詞は決して荒唐奇怪を意味するものではない。僧一休も既に「正法に不思議はない」と叫んで居る。推論理議の法に依らずんば吾等は決して満足することが出来ないのである。而して科学は現に進みつゝあるが、科学が進めば進む程現象の世界は愈複雑となり来り従つて自然人生は依然として神秘の光に輝いて居る。か(※2)るが故に吾等は自然科学により、益深く探究穿鑿を続けて以て其の玄妙なる奥底を驚嘆すれば足るのである。
無機物界にまれ、有機物界にまれ、科学が羸ち得たる獲物はいつも吾等の驚嘆に価する。かのヱルンスト・ヘツケルが一八六年に射形原虫類(ラヂオラリア)の研究業蹟(※3)を発表して、幾多の珍奇美麗なる形態を写し、海中の秘密を曝露したる時誰しも自然の巧妙なる技倆を口を極めて嘆賞せぬものはなかつたのである。或者は却つてヘツケルの視覚の錯誤ならずやを疑ひ、加之かゝる生物は決して存在せぬとまで主張するものさへあつた。いつぞやベルリンの動物園に一人の百姓がやつて来て、始めて象や、麒麟や、カンガルーの動いて居るのを見て、家に帰つて語つていふには、「この世にない動物が沢山居つた」と。これはやはりヘツケルの記載した話であるが、吾等は科学の齎らす新奇の事実に対する時、いつもこれと同様な感じが湧き出づる。
人体の科学的研究に就てもそうである。例へば血液についていふならば、其は実にアリストテレスやガレーヌスが其の中に精神が籠つて居るのだと考へた程神秘なものである。而も始めて顕微鏡下に赤白血球と血漿とからなつて居ることを認め得たとき、人は如何に驚いたであらう。其後赤血球内の色素即ちヘモグロビンは生活に必要なる酸素を身体の各所に運ぶものであることや、血液が凝固するのは血漿中に複雑なる機転が行はれて繊維素を生ずるによることや、血漿から繊維素を取り除いた血清の中には、実に幾多の微妙なる物質に充満されて居ることが漸次分明になつて来たとき、人は涙をながして讃嘆するより外はなかつた。更に各動物の組織には色々共通な点があつて例へば今家兎に羊の血液を注射すると家兎の血清の中に羊の血球を溶かす所謂溶血素が出来る。然るにモルモツトや馬や猫の臓器を一定の方法で家兎に注射してもやはり其血清中に溶羊血素が生じて来る。そして又馬の臓器を家兎に注射して出来た溶羊血素は犬や鶏や亀の臓器で之を吸ひ取らしめることが出来るなど、手をかへ品をかへて探れば探る程、愈出でゝ愈奇なる現象を呈出し、実にある血清学者が「吾人の体細胞は吾人人類の最賢者よりも尚賢い」といつたのも無理はなく、ワイルドが「最後の神秘は自己其物である」の言も必然思ひ起さるゝ訳である。
而して生命の研究に関しても吾等は徹頭徹尾理化学の法則に依らなければならぬ。よしや其観察方法を或は歴史的、或は心理的、或は哲学的となすも必ずや自然的の合理的認識に矛盾せざる範囲でせねばならぬので、換言すれば自然科学の智識と背馳せぬやうでなくてはならぬ。さればヱネルギー恒存の法則と物質不滅の法則とは何処如何なる場合にも真であることを断言して憚らぬ。
かくて大自然、大宇宙に於ける万物の自然科学的研究の歩を進むるときは存在する凡ての者が神聖なることを悟り、自然人生の神秘を知り然る後万物に一貫した精神の閃きを認めることが出来るのである。即ちウパニシヤドに所謂ブラーマを認めることが出来るのである。蓋しこれがヘツケル、オストワルドに唱へられたる一元論(※4)であつて軈てタゴールの歎喜の歌となる由縁である。まことに自然以上に神の存在は認められぬのであつて、これぞまた観無量寿経の「是心作仏、是心是仏」である。
覺如上人が「弟子、四禅の緒の端にたまゝゝ(※5)南浮人身の針を貫き度海の波の上に稀に西土仏教の浮木に逢へり」と喜んで居るが如く、こゝに至つて始めて自体の荘厳なるを知り、フイヂアスが。(※6)自分の作つた雷神の像に跪いたと同じやうに自己の存在に感謝せなくてはならぬ。「その果し無き大海原に、汝は静かに微笑て聞き給へば、吾が歌は千百の浪の如く自由に、あらゆる言葉の束縛を脱して、美妙の顫律に浪立つなり」と現に印度の大詩人は歌つて居る。
(※1)原文ママ。
(※2)原文ママ。「かかる」の誤植。
(※3)原文ママ。「績」の誤植。
(※4)原文圏点。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
底本:『第三帝国』大正4年9月11日号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1915(大正4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2005年4月11日 最終更新:2007年2月26日)