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自伝

小酒井不木

     一

 別に深い理由があつて自分の過去を書くのではなく、たゞ書いて見たくなつたから書くに過ぎないのである。これといふ波瀾も曲折もなく暮して来た私の過去など、読む人にとつては定めし興味も少ないであらうが、書く方では、くだらない随筆などよりも、幾分か力がはひる訳だから、まあ我慢して読んで貰ふことにしよう。寅年に生れた私は寅年を前に控へて過去を振かへり、今更ながら平凡な三十六年に愛想をつかしたので、この際三十六年間の記憶を文字に写して、すつぽり私の身体から切り離し、新らしい年と共に多少は生き甲斐のある生活がして見たいと思ひ立つたのではあるが、さて、この自伝がいつ迄続くことやらわからず、新らしい年に入つてからも所詮は過去にかゝづらつてあたら光陰を棒に振つてしまふのがオチであるかもしれない。
 明治二十三年十月八日といふのが、戸籍原簿に載つて居る私の生年月日であるが、これが果して正しいかどうかといふことは私自身にもわからない。然し正しくても正しくなくても私は何の痛痒を感じないのである。いつそ生年月日などはわからない方がどれだけのんびりした気持になるやらしれないと思ふのであるけれども、今更どうにも仕様がないから我慢して明治二十三年を生年月日と定(き)めて置かうと思ふ。天海僧正は、他人に年齢をきかれると世捨人には年齢(とし)は無いといつて答へなかつたさうだが、世捨人でなくつたつて、年齢などゝいふものは不要なものである。不要であればこそ、人間の身体には年齢を数へるに足る身体的特徴といふものが具はつて居ないのである。植物のあるものには、年輪といふものがあつて、年齢を知るに足る特徴となつて居る。これとても植物の生存そのものとは何の関係もないのであつて、所詮生物には年齢は余計なものである。
 なまじ年齢が知れて居るために、やれ二十五歳は厄年だの、やれ丙午の女は三人の良人(をつと)を殺すだのと、いらぬ心配をせねばならぬことになる。年齢さへ知れなかつたら大学教授の停年制もなければ、自由結婚の年齢制限もなくなる訳である。第十八世紀の頃、欧洲各国を股にかけて上流の人々を手玉にとつてあるいたサン・ゼルマン伯は、いつも人に語つて、齢二千歳だと言ひふらしたものだ。
『あゝキリストか? 知つてる知つてる。一度御宮で逢つたことがあるよ。あんまり大法螺を吹きなさるなよと忠告してやつたんだが、何しろ年が若いものだからたうゝゝ磔刑(はりつけ)に処せられてしまつた。実に可哀さうだつたよ。今から思つてもぞつとする。』
と、かう、彼はいつも尤もらしく語るのであつた。あまり尤もらしい話し方をするので、ある人が、サン・ゼルマン伯の従者に向つて、
『御主人がキリストに逢つたと御話しになるけれど、ありや一たい本当のことですか?』とたづねると、従者はすまして、
『さあ、そのことはよく存じませんねえ。何しろ、私が御世話になるやうになつてから、まだたつた三百年にしかなりませんから……』
 何と痛快極まる話ではないか。戸籍簿さへなかつたなら私が五十歳だといつたとて或は通用するかも知れない。或は又三十前だといつたとて人は信用してくれるかも知れない。いや五十歳だの三十前だのといふさへ実は野暮な話である。年齢などがあるためにそれにかまけて、人間は安逸な生活を貪りたがつたり、或はまた早老に陥つたりするのだ。孔子さまのやうなえらい人でも、三十にして立ち四十にして惑はずなんかと御しやるものだから、四十になつても惑ひに惑つて居る連中までが惑はぬつもりで居たりして、とんでもない滑稽な悲劇を演じかねないのである。
 いや、生年月日のことから思はぬ方面へ話がそれてしまつたが、要するに私は明治二十三年即ち西暦千八百九十年に生れたことになつて居るので、戸籍面によれば私は第十九世紀の人間である。千八百九十年といへば、ドイツの医学者ローベルト・コツホが始めてツベルクリンを作つた年で、その年に生れた私が、ツベルクリンと縁の深い結核に罹つたのも、思へば奇しき運命といひ得るかも知れない……と書くと馬鹿にセンチメンタルな気分になるが、これといふのも生年月日といふことのあるためである。だから私は生年月日そのものに愛想がつきるのである。

     二

 生れた月日は戸籍でわかつて居るけれど、さて、私は何処で生れたかといふことを実ははつきり知らないのである。私の育つた家は愛知県海部郡蟹江町大字蟹江新田字宮ノ割六拾四番地であるけれど(、)(※1)何でも私は名古屋で生れたといふことを、ほのかに聞いて居るのであつて、名古屋のどの辺で生れたかといふことはさつぱり知らない。故郷の村の老人たちにきけば知つて居るであらうが、別にそれを知らなくたつて飢え死にもしないし、又法律上の罰をも受けないのできいて見ようといふ気にはならないのである。知れぬことは知れぬことにして置いた方が、どれ程神秘でよいかも知れない。うつかり生れた場所を知つて幻滅を感ずるよりは知らない方が遙かに気持がよい。
 単に私は生れた場所をはつきり知らないばかりか、私を産んだ母親をも私は知らないのである。母親を知らぬといふのであつて又母親の顔を知らぬといふのであつて、母親の名や母親の生家などについてはかすかに知つて居る。又母親の顔を知らぬといふのは母親の顔を一度も見ぬといふことではなく見たかも知れぬけれども記憶にないといふ迄である。その母親は先年死んで私に非常に逢ひたがつて居たさうであるけれど、私は逢ひたいとも何とも思はなかつた。たゞ名を聞いて居るだけではたとひ生みの親だといはれたところが、なつかしい感じが起つたとしたら、それはたゞなつかしさを装つた感じに過ぎないのである。俗に「生みの親より育ての親」といふ言葉があるが、私のなつかしいと思ふのは、育ての親より外にはなかつたのである。
 よくは知らぬが、事情あつて私は生れ落ちるとすぐ、蟹江の田舎に引き取られ、実父と継母の手に養育されることになつたらしい。
 父はその時五十二歳、継母は四十一歳であつた。父は田舎の小地主で、自分も農業に従事し、かたがた役場に勤めて居たらしかつた。が、この辺のことも自分にははつきりして居らぬのである。母には乳がなかつたから二里あまり隔つた村から来た乳母の乳によつて私は育てられたのであるが、その乳母は私の三つの年に腸チブスに罹つて死に、もとより私はその顔を記憶して居ないのである。父は私の十六歳の夏継母は二十五歳の冬に死んだので、何といつても継母は私にとつての最も大なる恩人であり、今に至るも継母の記憶が最も多く私の頭脳を占領して居るのである。
 父の老年の時分の子であるから、私の記憶に残つて居る父は「老人」の一語に尽きる。頭のつるりと禿げた、あから顔の人で私は小さい時分、父親といへばどこの父親でも必ず頭の禿げて居るものだらうと思つたりした。その禿げた頭の中から考へ出して、父は私に「光次」といふ名前をつけた。何からヒントを得てつけたのかわからないが、嘗て一分金を見て、その一面に光次といふ名が刻まれてつあ(※2)たので父は(※3)分金からヒントを得たのかも知れぬと思つたことがあるけれど、これも最早知る由がないのである。たしか高等小学校へ行く時分だつたと思ふ(。)(※4)父の晩酌の席に座して、
『お父さん、何故僕に光次といふやうなへんな名をつけたんですか?』(方言をつかつて書く方がよいけれど、近頃では当時の私のつかつて居た言葉を忘れたから、以下、なるべく標準語で書く)と、きくと、
『へんでないよ、ひかりつぐだからいゝ名ぢやないか』と答へた。「光り次ぐ」が何故よいのか私には今でもわからないけれど、別に抗議を申し込んだところで、どうにもならぬのでその時私は追及してたづねなかつた。昨今、私も段々頭の毛が薄くなつて来たのを見ると、どうやら「光り次ぐ」といふ言葉の意味がわかつて来たやうであるけれど父親のやうに光り出すまでにはまだ当分時間があるだらうと思つて安んじて居るのである。
 いづれにしても、私の名の出どころもかくの如く頗る曖昧で、私の出発点に於ては凡ての事情が曖昧の中(うち)から生れ出て、曖昧の中(うち)に死んで行くものは恐らく私一人ではあるまいと思ふ。

     三

 臍の緒を埋(うづ)めた場所が何処であるかを、前に述べたやうに、私は少しも知らぬのであるが、とに角、生れ落ちると間もなく蟹江在の家に育つたことは事実であるらしく、
    光次(みつつぐ)は業平よりも色男
と川柳子の(ほ)(※5)めた光次(みつつぐ)ならぬぶ男(※6)は、日光川と称する川の水で磨かれて、そのぶ男(※7)振りを発揮したのである。
 人間の性質が、生れた土地の形勢によつて、多少の程度に影響さるゝことが若し事実であるならば、平凡な田舎に育つた私は勢ひ平凡ならざるを得ないのであつて、事実平凡であるところを見ると、土地の影響といふものは案外馬鹿にならぬものであらうと思ふ。見渡す限り一面の平野、所謂尾濃(※8)の平原の南端に当つて何の奇もない風景にはぐ(※9)れては、到底優れた人物にはなられさうもないのである。その上五六百年も昔には海の底だつたといふのであるから、愈よもつて浮ばれない。源義朝が熱田へ殺されに行つた途中に立寄つたといふ島の名残なる、源氏島といふ村が近所にあるが、それも本当のことか嘘のことか、見てゐた人がないからはつきりとわからない。又、義朝が通過したぐらゐで、後世その土地からえらい人間が出やうとは思はれぬ。遠く西に見えるのが鈴鹿山麓、それから西北へかけて、多度山、養老山(ざん)、伊吹山(やま)、北には加賀の白山(?)、東北隅には信濃の御嶽山(おんたけさん)、その前方に小牧山、それから東へかけて三河の段戸山(だんとやま)、猿投山(さなげやま)。山といへば先づそれくらゐのものでどれ一つ人間の心をふるひ立たせるものはない。
 家(うち)の東側を流れて居る、幅五十間の日光川は、人工的に掘つて作られた用水の一種で、両側の土手には碌な松さへ生へて居らぬ。おなご竹、す(※10)き、茨(いばら)、からす瓜、その他雑草。でも秋になると尾花が穂を見せて月が静かな水面を照すなど一寸美しくはあるけれど、やつぱりどこにもありふれた景色だ、川には蜆が盛んに繁殖するが、魚類はさほど豊富でない。二三度私は鯊を釣つたことがあるが、大した収獲はなかつた。然しさすがに、蟹江の名に因んでか、蟹は随分沢山居る、土手から川へ移り行く部分には豆粒ほどの小さな蟹がぎつしり穴を掘つて居る、甲の平べつたいのでなくて食ふことの出来ぬ、いたづら(※11)蟹だ、即ち何の御役にも立ちがたいのは、さすがに土地にふさはしい代物だ。蟹があまりに多過ぎるためでもあるまいけれど、二百十日前後の暴風には度々土手が崩れて、青田がざんぶり塩水を浴び、農民の一ヶ年の労苦が水の泡に帰する。小さい時に私は水入りを大(おほい)に喜んだものだつたが、今思つて見ると決して喜ぶべき現象ではないやうだ。
 日光川には幅三間ばかりの小さな支流があつて、それがやはり私の家(うち)の傍を流れ、その流れが各所の池と結びついて、その池が養魚の場所となつて居る。いな、ふな、こひ、もろこ、うなぎなど、平凡なものばかりだ。魚類と同時に両棲類、爬虫類も相当に繁殖して居るが、これは別に養つて居る人がないやうだ。蛇、とかげ、ひきがへるなど、たとひ平凡な田舎の人間にもさほど気味のよいものではない。蛇の中ではやはり青大将が一番多く、たまには烏蛇も居るやうだが、小さい時から私は、あまり蛇には興味を持たなかつたので、立ち入つた研究をしたことがない。家鼠とどぶ鼠は可なりに繁殖し、百足や、げぢゝゝも遠慮なく子孫を殖して居るが、百足が、蚊帳の中へはひつて居たりするのは少々閉口だ。蚊が多くマラリアも少なくない、蛾やウンカも可なりな跋扈振りを示して居る。雀、乙鳥(つばめ)、烏、就中烏は多いやうだ。時々色々な食物を烏のために失敬されることがあつたと記憶して居る。
 村は百姓ばかりで、鶏を飼ふ家は可なりにあるが、豚や山羊を飼ふ人は、私が生ひ立つた時分には絶無であつた。人々はたゞもう農業に全力を尽して居た。全力を尽したばかりでなく農業を楽しんで居た。その頃を思つて今の農村の状態を眺めて見ると、誠に隔世の感があるといつてよい。過去二三十年の間に於ける農村の変化は、誠にすばらしいものであつたといつてもよい。何が一たい変化の原因となつたか、其主因はまあ農村研究者の説明にまかせるとして、私は青大将の殖えたことをその一つに数へて置きたいと思ふ。そして私は農村研究者に向つて農村問題を研究するには、青大将の研究を怠つてはならぬことを忠告して置きたいと思ふ。なほ序に、青大将は田舎ばかりでなく、都会にも多いことを附言して置きたいと思ふ、一寸広小路を散歩しても可なりに居るやうだ。何とかして、黒大将にならぬものかしら、いつそ白大将で居てくれゝばなほ更よいが…………。

     四

 父は私が物心ついて以来村役場につとめ、長らく村長をして、晩年には郡会議員に選ばれたりしたが、どんな役をつとめても、決して農業を捨てなかつた。五六町歩の田地を所有して居て、勿論その全体を自作することは出来なかつたので大部分は小作人に作らせてゐた。従つて一方では所謂地主であつたが、自ら田面に出て耕作したので、農民の生活状態は十分知つて居た。然し父は、別に農民の生活を研究するとか、或はその他の野心をもつて農業に従事するのでは決してなかつた。即ち父は農業に従事したくてならぬので従事したのであつて、換言すれば、父は『百姓』が好きでゝゝゝならなかつたのである。父は毎日午後四時半から晩酌を始め、七時半に食事を終へ、八時に入浴して、すぐ就寝し、午前四時に起き朝食前約一時間半に田面を一まはりして来るのが習慣であつた。これは勿論役場通いをして居る時分のことであるが、役場から帰るとすぐ、田面着に着替へて、鍬を肩にして、田面に出かけたものである。
 稲が段々生長して行くのを毎朝眺めに出ることは、農業に従事するものに取つて、この上もない喜びであるらしい。これは我が子の生長を喜ぶ親たちの喜びに比すべきものであらう。豊作を喜ぶ父のにこゝゝ顔を私は今でもはつきり思ひ出すことが出来る。又、父は畑作りにも非常に興味を持つてゐたばかりでなく、瓜や西瓜を作ることに極めて秀でゝ居た。父はすてき(※12)に大きな西瓜を作りあげて村人の賞讃を博し、心からうれしがるのが常であつた。村人が昼寝をする時間を選んで、村人に知れぬやうに『しめがす』を西瓜畑に運び、別に肥料を与へないでも、こんなに大きくなつたよと、他愛もなく村人を欺いて得意がつたりすることもあつた。西瓜でも、瓜でも、暇さへあれば手入れして『うらどめ』に余念がなく、思ふとほりの見ごとなものを作り上げた。かつて掘抜井戸の水が里芋を著しく生長さすることに気附いた父は、一たいどれくらゐの大きさの葉を作り上げることが出来るだらうかを試すため、毎日一定量の掘抜井戸の水を約三十歩ばかりの芋畑に汲み上げて与へたところ、葉の直径四尺五寸葉軸の長さ六尺に達せしめることが出来、人々の度胆を抜いた。然し、葉の割に芋の出来がよくなかつたので、二度とその実験を試みなかつたが、あの大きな里芋の葉の茂つた畑の、物凄いやうな光景を、私は今でも忘れることが出来ないのである。
 父は別に新らしいものを試植することに力を入れなかつたやうであるが、私が落花生を非常に好むことを知つて、一畝ばかり、始めて落花生を植ゑつけたことがあつた。落花生が段々と生長して行くのを毎日のやうに、楽しみ眺めて居た父は、ある日、母や私に向つて、
『落花生といふやつは恐ろしい力があるものだ、あの柔かい枝から一本づゝ細い枝が出て、それがかたい地の中へつき刺さつて行つて、その先に実がなるんだよ』
といつて、さもゝゝ珍らしい発見でもしたかのやうに物語つた。(※13)(ゑんどう)や小豆や大豆ばかり作つて居た眼には落花生の結実状態が、よほど意外なものであつたにちがひなかつた。
 父はまた養蚕に非常な興味を持つた。繭の大きなのを作ることに就ては左程興味を持つて居なかつたらしいが、出来上つた繭から糸を取ることが頗る巧みであつた。私は一度も自分で糸を取つたことがないから何ともいふことは出来ぬが、繭を煮る火加減とか、その他色々な点で相当技術を要するものらしく、父はそれを見事にやつてのけるのが常であつた。だから一度も繭を売つたことはなく、出来た繭は悉く父の手によつて生糸に代へられるのであつた。又、蝶々を育てゝ卵を生ませるといふやうなことも一度も試みなかつた。多分、自分で生ませた卵よりも、買つた卵の方が質のよいことを知つて居たからであらう。
 農繁期ことに収穫の時期が来ると父は随分勤勉であつた。先づ毎日午前三時前に起きて、カンテラの火影で、俵を編むだ。さうして非常に手早く、且つ非常に巧みに造り上げるのであつた。ある夜父が俵を編んで居ると、表に人の足音が聞え、やがてポンと戸口を蹴つた。父は
『誰だツ!』
と怒鳴つたが、そのまゝ足音は消え去つた。その翌日隣村の某豪家に、昨夜強盗がはひつたといふ報をきいて、父は自分の家(うち)の戸口を蹴つたのはたしかにその強盗だつたと判断し(後に強盗が捕へられて果してさうであるとわかつた)『一生懸命仕事をすると盗難さへ免れることが出来る』といふのであつた。

     五

 収穫の時の父のうれしさうな顔は今でも忘れることが出来ない。稲を苅る、ハサにかける、稲こき女にこかせた籾を庭一ぱいにムシロに干す、よく乾いた籾を土臼にかけて下男たちと挽く。塵埃(ほこり)が雲のやうに立つ中でカンテラの光のそばで土臼を挽きながら土臼歌を歌ふ声はまざゝゝと私の耳の底に残つて居る。父は声がよかつた。若い時分に高座へあがつて音頭(おんどう)を演じたこともあつた位で、機嫌のよい時は、いつも『傾城阿波の鳴戸』を音頭(おんどう)できかせてくれるのであつたが、そのよい咽喉(のど)で土臼歌をうたふのであるから、いふにいへぬメロデーを冬の夜の澄んだ空気に響かせて聞くものゝ胸を躍らせた。ゴーゴーといふ土臼の音が父にとつては又とない喜びであつたのだらう。その喜びから迸る声はすべての人を喜ばせずには置かない。さうして一しきり仕事をすると風呂にはひつて塵埃(ほこり)を洗ひ落しまだ醒めきらぬ酒の酔をもつて寝床の中にもぐりこむのであつた。
 あまりに塵埃(ほこり)が多いので私は土臼部屋にはひることが稀であつたが、土臼で砕かれた籾を金どほしにかけるときにはつねに手伝つた。金網を滝のやうにすべつて行く玄米の流れは見て居るだけでも心地よく、手に触れる米の感じも又となく快いものである。
 米といふものは味覚だけで取り扱つては勿体ない、玄米の中に手を入れて見たとき始めて米の尊さがわかるなどゝ考へたこともあるが、玄米の光沢と手ざはりとを真に理解することが出来たなら、玄米を白くするのは実に勿体ないことだと思ふ。往古日本人は玄米を食したものであるのにいつの間にか白米にすることを覚え、脚気のごとき風土病に苦しまねばならぬことになつた。脚気が白米をたべるために起るか否かの問題はまだ完全に解決されて居らぬけれど、とにかく米ヌカの中にはヴイタミンBが存在するのであるから、玄米を白くするのは勿体ないといはねばならない。本来玄米を取り扱ふ農民はあの玄米の美しい姿を見て、玄米を食うて然るべきであるのに今は大抵の農民が白米を食べて居るやうである。
 いや話がとんでもない横道にはひつたが、兎に角玄米に触れるといふことは、いゝ感じのするものである。父がにこゝゝして金どほしをするそばで私はうれしがつて米をかき寄せたものである。集められた米は後に俵に収められる。米を俵に入れることは誰が(※14)めて考察したのかわからないけれども、兎に角米を貯へるには最も適当な方法であるらしい。俵の中へ米を入れてから足で踏みゝゝ縄でしめる勇ましい姿を見て居るのは気持のよいものである。百姓も一種の芸術だ。作られた俵をすぎなりに積み上げて眺めるとき、恐らく凡ての農民は芸術家がその作品の完成を見たときのやうな、何ともいへぬ満足な感興を覚えるにちがひない。私の父もこの時の嬉しさを味はゝんがために、農業をいそしんだのかも知れない。
 勿論父は勤勉することそれ自身に興味をもつて居た。父は一刻もじつとしては居られない性質であつた。さうした父の性質を幸ひにも私自身は受つぐことが出来た。私はこの性質を父に感謝せざるを得ないのである。私は今、重い病を抱いて居る。重い病を抱いて居りながら病気に相手になつて居れないほど、仕事に忙しいのは仕事をすることそのことが、いふにいへぬ愉快な気分を生ぜしめるからである。一日筆を持たぬ日があるとどうもその夜は寝附きがよくない。従つて病気が重るやうな気がしてならない。人は度々私に忠告してもう少し筆執ることを少なくしてはどうだと言つてくれるけれども、それは私の性質を十分理解してくれないからであつて、病人はなるべくぼんやりして、安静にして居た方がよいといふ伝統的な療養法によつて私を律しやうとするのは抑も無理である。『好きな仕事を一生懸命にすれば病気はなほる。』これが私の療養生活のモツトーである。これが現代の医学上の学説と牴触しやうがすまいが私はちつともかまはない。何となれば私の病気は現代の医学では治らぬのであるから。
 いづれにしてもかうしたモツトーを私につくらせたのも、そのもとはといへば父の勤勉な性質にあるといつてよい。六十七年間父は肉体上にも精神上にも、随分愉快な活動を続けて死んで行つた。

     六

 私の父はウイツトとユーモアに富んで居た。面白おかしい話をして、人を笑はせることが好きだつた。いつも下男や下女と一しよに御飯をたべるとき、先づ自分だけ早く食べて、それから、面白い話をして下女を笑はせることが好きだつた。箸のころぶのさへ笑はずに居れぬ若い女のことゝて、父が話をしだすと彼等は吹き出してしまつて、とてもその場で食べては居れず、膳をもつてほかの室へ行つて食べることがしばゝゝあつた。それを見て父はますゝゝ興に乗つて面白おかしい話をした。父が一ばん好んで話したのは、源氏物語の中の嫁と姑に関する話だつた。ある仲の悪い嫁と姑があつた。姑が死んだとき、内心嫁はうれしくてならなかつたが、見舞に来た人に向つてきまりが悪いので、ひそかに茶碗の中へ水を汲んで来て、その水で眼をうるほして、涙と見せ、しきりに悲しむふりをして挨拶した。ところが取り持ちに来て居た人々は嫁のこのトリツクを発見し、そつと後ろにまはつて、茶碗の水の中へ墨汁をたつぷり注ぎこんで置いた。かくとは知らず嫁は水をつけては泣き、つけては泣いた。見舞に来た人は嫁の顔が熊のやうにまつ黒になつて居るのに大(おほい)に驚いたといふ話である。
 これを父が非常に巧みに手まねを入れて話すと、大抵の下女は其の場に居たたまらなくなつて逃げ出すのであつた。まつたく父自身が、茶碗の中に墨汁を入れるくらゐのいたづらを仕兼ねない人であつた。仕兼ねないどころか、さういふいたづらをすることが大好きであつた。私の田舎の家には『むかで』が沢山居たが、父は大きなむかでを見ると直ちにそれを捕へ、毒刺を除き去り、さうして、それをひそかに他人の背中にのぼらせ、
『やツ、背中にむかでがとまつてる。』
と言つて、おどかすのであつた。おどかされた人は狼狽して、衣服をぬぎ、顔色をかへてむかでを殺すのであつた。それを見て父はにやゝゝ笑つて種をあかした。
 父はまた頓智のいゝ人であつた。こんな話がある。あるとき父は村の人たちと共に、津島の警察署へ出頭して競馬の許可を願ひに行つた。その時彼等は『臨時競馬願』といふ文書を差出さねばならなかつた。然し、一行の誰もが、『臨時』の『臨』の字を知らなかつた。警察署の人にきけばよかつたけれども、知らぬと思はれるのも残念だからといつてみんなが智慧を絞つても、さつぱり思ひ出すことが出来なかつた。その時父は、
『よし、俺が書かう。』
といつて、筆をとり上げ、硯の海の中へどぶりとつけて、さて、もやゝゝとした文字を一字書いた。その字はしみてしまつて、どういふ字か一寸判断がつかなかつた。もとより父自身も何といふ字を書いたか知らなかつた。知らないどころか、それは漢字でも何でもなく、まつたく文字通りにもやゝゝしたものに過ぎなかつた。
 さてその字とも何ともわけのわからないものを書いた後父は、筆の墨汁を硯の上に拭ひ落して、さて二字目から誰にも読める文字で『時競馬願』と書き、それから適当な文句を書いて差出したのである。
 ところが、係官は、いつも文字のちがひなどをやかましく言ふのにかゝはらず、何とも言はずに、それを受取つたのである。彼は即ち臨の字がひどくしみたのだと思つたにちがひなかつた。
 かうした頓智は父の日常生活にもよく見られたところである。他人と会談して居ても、話が少しこみ入つて来るとじやうだんを言つては笑はせ、あつさりと片附けた。西郷従道(じうだう)さんが海軍大臣をして居たときのことである。ある日閣議で甲論乙駁、議論が非常に熱して互に口角泡を飛ばしどうおさまりがつくかわからなかつたとき、今まで黙つて居た従道(じうだう)さんは突然蛮声を張り上げて、
『団子坂の菊はどじやろか。』
と叫んだ。この意外な言葉に、一同はわツと笑つて閣議に結末がついたといふことであるが、父もさうした策を用ふることが頗る巧みであつた。
 小作人との交渉が面倒になると、父は小作人を呼び出し自分の家(うち)の中のには(※15)にこゞませ、酒の勢で、障子を隔てゝ怒鳴るのが常であつた。怒鳴り怒鳴つて、彼等が閉口してうづくまり立つ瀬を失ふと、ひそかに母に合図して、彼等のそばへ行かしめ、彼等をなだめて去らしめるのであつた。

附記 「自伝」は名古屋市に於て発行された新聞「中京朝日」紙上(大正十五年一月)に連載されたものであるが、同紙廃刊のため中絶された。

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文ママ。「一分」の誤植か。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文ママ。「誉」の誤植か。
(※6)(※7)原文傍点。
(※8)原文ママ。「濃尾」の誤植か。
(※9)原文ママ。「く」脱落。
(※10)原文ママ。「ゝ」が正しい。
(※11)(※12)原文傍点。
(※13)原文ママ。「豌」の誤植か。
(※14)原文ママ。「初」が正しい。
(※15)原文傍点。

初出:『中京朝日新聞』(大正15年1月・詳細な掲載年月日は不明)
底本:『小酒井不木全集 第八巻』(改造社・昭和4年12月30日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆集成(大正15年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(随筆の部)」

(公開:2004年11月29日 / 最終更新:2004年11月29日)