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若妻殺し事件

小酒井不木

 昭和三年の夏は気候が不順であつた。ばかに暑い日があるかと思ふとその次には雨に伴ふ寒さに顫へるやうな日が来た。春先から夏にかけて、犯罪の数(すう)は殖(ふ)え、盛夏の頃には減少するのが普通だけれど、不順な気候のために今年は盛夏に血なまぐさい犯罪が多かつた。そればかりでなく至つてセンセーシヨナルな殺人事件が多かつた。東京では運転手あがりの男が醤油屋の一家を鏖殺して、主人を行李詰にして、川に放棄した事件があつた。すると間もなく愛知県下でヒステリツクな細君を絞殺して、やはり死体を行李に詰め汽車で北海道へ送る途中、長野で発見され、犯人は九州で逮捕されたといふ、これまた極めて人騒がせな事件があつた。
 続いて筆者の住む名古屋市内で彼処此処に殺人事件が起つて、刑事課の人々は夜を日についでの活動を余儀なくされた。同課につとめて居る筆者の知人などは三四日も睡眠をとるひまのないことがあつた。まつたくそれは涙ぐましいほどの努力であつた。さうした悲壮な姿を見ると、未解決の事件で警察をせめるのは、せめる方が愚だとしか思へなかつた。
 これから筆者が記述しようとするのも、丁度その時分に名古屋に起つた事件である。K町の若妻殺し事件といへば新聞を読むほどの人はまだ忘れない筈である。そればかりでなく事件は未解決であるから、いまでも新聞記者諸君に逢うと話が出る。もとより警察では間断なく犯人の捜索に従事しつゝあるから、明日にも真犯人が発見されるかも知れない。また、若い美しい細君を失つた良人の身になつて見れば、一日も早く犯人がわかつて亡き人の魂魄を安らかにしてやりたいと日夜その願望が念頭に絶えぬことであらう。
 事件発生後、まだ半年を経ないうちに、事件を記述するのも考へ問題であると思つたけれど、未解決事件の記述は事件が新しいほど興味の多いものであるから、「実話」としての興味も多く、敢て筆にする気になつたのである。尤も実話といふ題名には、真犯人の発見された後の方がふさはしいかも知れぬけれど(、)(※1)この事件などは、真犯人が知れたならば、恐らく平凡な事件にちがひなく、読物としては却て未解決の一点が魅力の中心となり得るのである。ことによると、筆者のこの一文が真犯人の眼に触れるかも知れない。まさか文藝春秋の読者に人殺しをするやうな人はあるまいが、若し若妻殺し事件が文藝春秋に載つて居るといふことを伝へ聞いたならば、真犯人はきつと雑誌を買ふにちがひない。さうしてひそかにニヤリと薄気味の悪い笑ひをもらすかも知れない。だが、笑はれてもかまはないから、筆者は真犯人にも読んで貰ひたい気がするのである。
 断つて置くが、筆者は決してこの事件に深入りした訳ではない。当局の人々の好意によつて、新聞記事よりも多少委しく知り得たと言ふに過ぎない。而も当時の新聞もその他の材料も今は故あつて手許に無い。まつたく三ヶ月前の記憶を辿つて書くに過ぎないのである。比較的鮮かに記憶に印せられて居るつもりではあるけれど、もとより誤りは少くないであらう。それにも拘はらず、筆者が手許に集まつて居る数々の犯罪記録の中から、最初にこれを選んだのは、殺された人に対する同情が一ばん強いからであるかも知れない。主人の留守を預かる若い妻が白昼何ものかの為めに絞殺される。事件としては何でもないやうであるけれど、考ふべき幾多の問題を提示して居るではあるまいか。隣家の遠い人通りの稀な郊外ならばまだしも、比較的繁華な市中の、而も長屋の一つで、一時は自殺でないかと思はれるやうな殺され方をしたといふことは、事件そのものとしても確(たしか)にめづらしいといはねばならない。
 次に断つて置くことは、筆者はこの文で真犯人の推定を行はぬことである。勿論真犯人の推定を行ふに足るだけの証拠もなく、又、真犯人が如何なる種類に属する人間であるかの見込をつけ得るほどの経験もない。エドガア・アラン・ポオはメリー・ロージヤース事件を骨子として「マリー・ロージエー事件」を書き、ポオ独特の推理を行つて犯人を断定したけれど、よく読んで見ると色々の間違ひをやつて居る。実際、人間の推理など、それほど宛になるものでない。事件の未解決の間に、いろゝゝ(※2)の推定を行つて、解決後その推定がいかに馬鹿々々しいものであつたかを発見する場合は決して少くない。だからこの場合に於ても、なるべく断定的な言葉を避けて(、)(※3)筆者の記憶に残つて居る事柄だけを忠実に記載するにとゞめるつもりである。
 なほ、事件に関係して居る人物の姓名はすべて仮名をもつて記すことにした。それ等の人に迷惑を及ぼすことを恐れるからである。又、年齢等の如きも、都合あつてはつきり書くことをやめる。

 事件の起つた場所は名古屋市中区K町。旧名古屋の西南部に位(くらい)して、熱田に近く堀川に近い、自動車の入り得ない細い街である。大通りから半町ほど北に入つて突き当り右手に数間まがると更に突き当つて左に曲つた街がK町である。その第二の曲り角の右側の起点はある大家(たいけ)の土蔵の横側であつて、その次に二階建の長屋が続き、その長屋の最初の家が問題の吉田寅二郎(※4)の寓居である。向ふ側はやはり街角の家ではあるが、入口はその側にはなく、従つて右隣の、同じ恰好の家に住む人たちだけが、平素吉田夫婦と言葉をかはすに過ぎぬのであつて、その上、街には人通りも少いから、兇行前後の模様を知つて居るものは殆んど無いといふ有様である。
 寅三郎の家は名古屋によくあるしまひ(※5)屋式の建方(たてかた)である。間口は二間ばかり、奥行は十何間、短冊形の地面の、向つて右側が通り庭(、)(※6)左側に表の間、茶の間、奥座敷が順にならび(、)(※7)座敷の果に椽(えん)があつて奥庭の植込に面して居るのである。奥庭を囲む三方の境界はいづれも高い塀であつて、その方から犯人のはひつた形跡は絶対に無いといふのである。
 入口は格子戸、その左手即ち表の間の街に面したところも、同じく格子作り、その格子の内側にガラスを嵌めた障子が立つて居る。格子の前には木製の低い垣が置いてあつて、街からすぐ家の中をのぞきこむことは出来ぬが、故意に格子に眼を附ければ、中じきりに戸がたてゝない限り、奥庭まで見通すことが出来るのである。
 夏のことであるから、表の間と中の間との境には麻の簾が垂れさげられ、中の間と奥座敷との間の襖もあけ放され、なほ座敷と椽側(えんがは)との間の障子も取り払はれて居た。表の間は細君の仕事場、中の間は食堂、その中の間に二階に通ずる階段があるのだが、二階はこの事件で全然問題外に置かれて居た。奥座敷客間兼夫婦の寝室であつて、その奥座敷に、寅三郎の妻喜代子が絞殺(しめころ)されて居たのである。
 寅三郎夫婦は結婚してまだ一ヶ月経つか経たぬかであつた。寅三郎はある商店に勤め、朝七時過ぎに出で夕方の六時頃に帰るのであつた。喜代子はK町から数町隔つたところに住む小林圓造の養女として育てられ、嘗てMデパートメントストアの女店員をして居たことがある。いつも良人を送り出して跡片附けをすると、寂しいので、養家に行つて昼飯をたべ、それから二三時間話しこんで帰るのが常であつた。小さい時から育てたことゝて、養父母は生みの子のやうに喜代子を可愛がつた。だから死体を発見した時、養母が思はずも傍へ駆寄つて、頸に結んであつた紐を解きそのため肝要な証拠を無にしたのも、無理のない話である。
 ひとり留守番をしなければならぬことゝて(、)(※8)喜代子は入口の格子戸に細い板のつゝかひ棒をあてがつた。つゝかひ棒といつても戸の幅よりは二寸ばかり短いのであつて、戸の尻のところへあてがつて静かに戸をしめれば外側からでも棒を閾の上にたほすことが出来、いはゞ錠をかけることが出来るのである。たゞし、その際、棒が短いために二寸ほど戸があく。何故そんなことをしたかといふに、誰か訪問者があつた時、彼女は先づ細目にあけてその人を見、あけてよい人ならばあけることにして居たのである。若い女の身であるから押売りなどを防ぐためにはまつたく適当な用意であつたといはねばならない。
 ところが、このつゝかひ棒がやはり大きな謎を提供した。といふのは、死体の発見された時、この棒があたかも中から故意に置かれたかのやうになつて居たからである。このため自殺説が出た訳である。若し他殺だとすると、犯人はどうしても、つゝかひ棒を戸の尻にあてがつて、用心深く表に出て、静かに閉めて行つたことになるからである。従つて他殺だときまれば、この点をよほど慎重に考へなけ(※9)ばならない。

 昭和三年六月下旬のある日、いつも昼飯を食ひに来る筈の喜代子が、その日に限つて来なかつたので、養父母は心配し出した。もつとも、その前々日あたり、養父母たちは、喜代子に向つて、
「いつまでもゝゝゝゝゝ(※10)昼飯を食ひに来て、ぼんやり遊んで帰つては寅三郎さんの手前、あまりよくないことだから、ちと家にとどまつて、針仕事でもするがよい。」
 といましめたことがあつた。で、今日からは家にとゞまつて仕事をして居るのかと思つたが、どうも気になつてならぬので、養父の圓造は四時頃にK町へ来て入口から中の様子をうかゞつた。
 が、何を思つたか、喜代子に逢はないで、そのまゝ引きかへして熱田の方へ用達(ようた)しに出かけたのである。この点が筆者にはどうもはつきり了解出来ぬが、兎に角圓造のその後の行動は、彼の申立てと毫(すこ)しもちがはない。
 一方、養母は心配になつたから、小僧を走らせて様子をさぐらせた。小僧は格子戸に手をかけて開けようとしたが、二寸ばかり細目にあくだけであつたから、その細目に口をあてゝ、喜代子の名を呼んだ。けれども中からは返答がない。
 その時隣家の主人が表にあらはれ、小僧のそばへ近より、
「奥さんは居ないの? いつもの通り庭に下駄があるから、それを見ればわかる。」
 かう言つて顔をあてがつたが、
「おや下駄がない、おかしいぞ、留守かもしれん。」
「留守ならば表に錠がかけてある筈です。」
「さうだゝゝゝ(※11)。では家内に奥庭の方から声をかけさせて見よう。」
 隣家の細君が奥の方で声を限りに呼んだけれども返事はなかつた。
 小僧は顔色を変へて飛んで帰つた。丁度その時圓造が帰つて来たので、すはといつて養父母は小僧と共に駆つけ、入口の格子戸をはづして中へ乗りこむと、奥座敷に、浴衣を着て、きちんと帯をしめた喜代子が、頸に白い紐をまかれて床の間の方を枕に、顔を奥庭に向けて、大の字形に、畳の上で仰向きに死んで居たのである。
 養母は思はず近よつて、紐の結び目を解いた。すると閾のところに突立つた圓造は、
「なぶるなゝゝゝゝ(※12)、警察の人が見えるまでなぶつてはいかん。」
 と注意したので、養母ははツと手を引いた。
 それから直ちに事情を寅三郎と警察とへ報じたのである。

 警察の人々が臨検を行つたのは午後の八時頃であつた。死体はまた(※13)十分強直を起してはいなかつた。足の方には箪笥と唐木の机が置かれてあつたが、その机の下に黒塗の女枕が転がつて居た。枕はちやうど死体の右足の先に当るところにあつた。さてはと思つて、検べて見ると、花紙が一枚 Vagina にはさまれてあつた。後に剖検したとき Coitus の形跡は絶対にないとわかり、これが今でも重大な謎として残つて居る。
 死体には別にはげしく抵抗したやうな形跡は認められなかつた。頸に巻かれた紐は本人の平素使用して居るものではあるが、その日それが何処にあつたかは、良人寅三郎の記憶にもなかつた。紐は幾重も頸にまかれて、その結び目は前記の如く養母の手で解かれたから、はつきりはわからぬが、養母にたづねると、こま結びに、かたく結ばれてあつたといふ。養母は手づから結んで見せた。結んだ後(うしろ)の紐の端は極めて短いのであつた。
 髪は普通の束髪で、ほんの少ししか乱れて居なかつた。針金製の遅れ毛留めが、顔の前方に横はつて居た。顔は絞殺の際に特有なもので、顔面一たいに充血の徴候が見られ、舌の先が少しく唇の間からのぞき、なほ左の口角(くちかど)から少しばかりの血がにじみ出て、頬をつたつて、畳の上に、一銭銅貨大の血溜りを作つて居た。
 その外、身体の何処にも、これといふ傷害はなかつた。浴衣もさほど乱れては居らず、又その何処にも怪しい斑点などは見つからなかつた。右の手の中指に、革の指抜きがはめられてあるのは、裁縫中であつたことがわかる。
 死体解剖の結果、死因はいふまでもなく窒息死とわかつた。胃の内容を検査すると、少量の米飯の残りと、菜つ葉の一片(ひときれ)が見つかつた。寅三郎の語るところによると朝食に菜つ葉の味噌汁を摂り、その味噌汁が一杯ほど余つたといふ。朝食は七時頃に摂つたのであるから、さうして後の調べによると、午後二時頃までは喜代子はたしかに生きて居たことがわかつたから、喜代子は昼飯(ひるはん)に、朝の残りの味噌汁を吸つたことになる。何となれば米飯や味噌汁は普通の量ならば三四時間以内に胃を去つてしまふ筈であるからである。事実、朝に残した筈の味噌汁は戸棚の中に見つからなかつた。因(ちなみ)に死体解剖は午後十一時頃に行はれたのであつた。
 勝手場や戸棚の中は、きちんと片づいて居た。表の間には裁縫道具が出されたまゝになつて居た。裁ち台の上には洗い張りの布片(きれ)が載せられ、針箱の抽斗は引き出され、鋏と物指(ものさし)が無雑作に放り出されてあつた。布片(きれ)は養父圓造の袷(あはせ)で、喜代子が死ぬ間際まで裁縫に従事して居たことは、指抜きをはめて死んで居たことゝ共に疑ふべからざるところである。
 さてこゝに最も奇異な感を抱かせたのは、喜代子のふだん履(ばき)の下駄が、いつもは必ず中の間に接した通り庭に置かれてあるに拘らず(、)(※14)その日に限つて、裏の手洗鉢の傍の捨石の前に、きちんと揃へて置かれてあつたことである。若し喜代子が奥庭へ履いて来て椽(えん)に上つたものとすると、下駄は当然沓脱ぎ石の上になければならない。だから一寸見たところでは、何人(なにびと)かゞ故意に其処へ持つて来たとしか思はれない。若しさうとすると、何の理由で其処へ持つて来たか、聊か想像がつきかねるのである。
 それかた次に問題となつたのは、前述したごとく、入口のつゝかひ棒が中から置かれてあつたことである。奥庭の塀や二階の精密な検査によつて、何人(なんびと)も出入りした痕跡がないから、若し喜代子が置いたものとすれば、自殺になるし、他殺だとすれば、犯人はよほど落ついて居て、自殺に見せかけるやうに取り計らつたと考へても、決して考へ過ぎではない。人を殺したすぐあとで、人通りのあるべき街に面した入口で、さうした落ついた行動を取り得る人間は、よほど度胸のすはつた人間でなくてはならない。

 こゝで警察は差し当り二つの疑問に直面した。
 一、吉田喜代子は何時に死んだか。
 二、自殺であるか、他殺であるか。
 第一の疑問は喜代子のその日の行動を解釈するに有力な根拠を与へるものである。新世帯(しんじよたい)を持つた当初から、その前日まで毎日養家へ昼食(ちうじき)をとりに行つた喜代子のことである。若しその日寅三郎を送り出して間もなく殺されたとすれば、昼飯(ひるはん)の時に養家へあらはれなかつた理由がはつきりつく。若しさうでなくて午後になつて殺されたとすれば、その日に限つて、自宅にとゞまるつもりであつたことがわかるからである。
 ところが、事実は後者の場合であることをはつきり証明した。午後八時に警察官が駆けつけたとき、まだ死体の強直が完全に起つてなかつたといふことは、どうしても死の時間を午前と考へることが出来ない。(午後十一時に解剖するときには、強直は完全に起つて居た。)尤も、死後強直の起る時間は決して一定のものではない。極端に早い場合は死んですぐ起ることがある。筋肉労作中に死んだ場合などその例である。一般に血液の酸性度が高まつた時、強直は早く起り易い。が、普通は二時間乃至四時間に起るとされて居る。起りかけてから完全に起るまでにはなほ一定の時間を要することは勿論である。なほ又夏は冬よりも早く起り易い。そこでこの場合、午後八時に起りかけて居たとすると、それより二時間乃至五時間先を死の時間と決定するのが最も適当でなけ(※15)ばならぬ。すると喜代子の死んだのは午後三時から午後六時迄の間といふことになる。
 然るに午後五時頃に養家の小僧がたづねて来て、隣家の人々と声をあはせて呼んだにも拘はらず返事がなかつたとすると、喜代子は午後三時から午後五時までに死んだことになる。これはまた前記の胃の内容物の検査からも正しいことが証明される。
 ことに、少なくとも午後二時頃まで、喜代子がたしかに生きて居たことは、ちやうどその頃に三人連(づれ)の若い托鉢僧がめぐつて来て、そのうちの一人が家の中へ入れられ、喜代子に米を貰つて帰つた事実が、後に発見されたので、もはや動かぬ事実となつてしまつた。この托鉢僧は一時有力な被疑者と見做されて居たが、取調べの結果色々符合せぬ点が発見された。
 して見ると、喜代子が三時前後から五時前後までに死んだことは明かである。而もそのちやうどクリチカル・アワーともいふべき午後四時頃に養父の圓造がたづねて来たことが圓造の口から述べ    られたのである。そして圓造は喜代子がその時死んで居たか又は生きて居たかを語ることが出来ない。彼は喜代子の身の上を心配してたづねて来たにも拘はらず(、)(※16)喜代子に逢はずに帰つたらしい。筆者はこの時の圓造の心理を了解するに苦しむものである。もとより筆者は直接圓造に逢はぬからその事情をきくことが出来ぬけれど、警察に対しても、満足な答弁を与へたかどうかは疑問である。といつて筆者は決して彼に疑ひをかけるわけではない。彼がその後に訪問した先を警察の人がたづねて訊いて見ても、彼は毫も平素とかはらぬ平静な態度であつたといふ。
 いづれにしても、喜代子の死の時間の凡そのことは確定された訳である。すると次に起る問題は、自殺か他殺かといふことである。自殺説が起つたのは、つゝかひ棒のことが主(おも)になつて居るのであるが、これはその他の色色の事情で打消さゞるを得なくなつた。先づ頸にまかれた紐の結び方である。かたいこま結びで、而も紐の端は極めて短い。自殺の為めに頸に幾重にも紐をまいて而も自分で結んだ例は少くない。けれどもこの場合は結び目から出て居る紐の端が極めて短かく、さし迫る呼吸困難のうちに、かゝる結び方が出来ようとは思はれぬ。なほまたその体位から見ても、或は死の場所から見ても、自殺者が、あけ放した座敷の奥庭に近い極めてあかるいところで、大の字なりになつて死んで居るといふことはちよつと考へられないことである。
 更に周囲の事情から考へても自殺とは受取れない。裁縫道具を片つけもせず、指に指抜きをはめたまゝ突然自殺するのはどう考へても奇怪である。心中をしようとして相手に誘はれたならばさうしたことがあり得るかも知れぬが、たとひさうであるとしても喜代子が他人の手にかゝつて死んだことには疑ひない。
 もとより遺書は発見されなかつた。その朝別れた寅三郎も、別に喜代子の態度に自殺を暗示する様な点を思ひ浮べることが出来なかつた。彼女は嘗て軽い呼吸器病にかゝり、且つ結婚生活なるものの案外に単調なことを朋輩に語つたといふけれど、結婚生活の不満ならば、先づ養父母に訴へて然るべきである。それにも拘はらず、養父母は自殺の原因となるほどの訴へを、かつて彼女の口から聞いたことがなかつた。
 最後に、これは委しい記述をはゞかるけれど、前記のごとく Schamteil に花紙が一枚存在したことも自殺説を遠(とほざ)けるものである。自殺者は、ことに女の場合、かゝる点に対して用心深いものである。自殺する者で、自殺後自分の死体の発見される時のことを頭に描かぬものはない筈であるが、さうすれば、この場合のやうなことはなし能はぬことであると思ふ。
 以上の理由によつて自殺説は成立たぬことになり、いよゝゝ(※17)他殺であるときまつたが、さて次に起る疑問は、喜代子が如何なる状態のもとに殺されたかといふことである。
 すでに述べたごとく、喜代子の足許には彼女の枕が転がつて居た。夏のことであるから恐らく彼女は午睡するために枕を出したであらうと想像されたが、それは単に想像にとゞまつて、事実さうであつたかどうかはもとより保証の限りでない。塗物製であるから指紋は残つて居ないかと検索されたけれども、別にこれはといふ指紋は発見されなかつた。
 その朝蒲団をしまふ時に枕も押入れの中にかたづけたのであるから、兎に角その枕が、一定の目的のために取り出されたことは明かである。さうして仮りに午睡のために取り出されたものとすると、こんどは彼女が睡眠中に絞殺されたか否や(※18)疑問(※19)起つて来る。
 けれども残念ながら、今の法医学では、死体を検査したゞけでそれを判断することはむづかしい。彼女の眼はかたく塞がれて居たけれども、元よりそれは睡眠中殺されたといふ証拠にはなり得ない。抵抗した形跡の少ないことも、或は睡眠中の殺害でないかと思はしめるけれど、断定するにはあまりに薄弱な証拠である。畢竟この点は疑問のまゝに残すより外はない。

 かくて喜代子の死は他殺と決定した。すると当然、何ものが殺したかといふ最も大きな疑問に逢着する訳である。
 人通りの少ない場所で、前後左右から自由に近づき得る家ならば、或は通りがかりの強盗などの所為ではないかとも、想像し得るけれども、この場合はたつた一つの入口しかない家で、而もつゝかひ棒がかつてあるのであるから、犯人はどうしても喜代子のために家の中に招き入れられたものでなくてはならない。招き入れられる者は御用聞きか、特別の用事をもつた郵便配達夫か、或はその他の危険性の少ない者でなくてはならない。で、警察はその方面に捜索の歩をすゝめたけれども何の獲物もなかつた。遂に前述の托鉢僧を発見して一時色めき渡つたが、三人連れであつたことゝ、草鞋をはいて居たことなど、現場(げんぢやう)捜査の結果と一致せぬところがあつて、疑ひは薄くなつてしまつた。
 一方警察は喜代子の過去を取り調べ、いはゆる三角関係のごときものはないかと捜したけれども、それも徒労に帰してしまつた。尤も一人の女の過去を知ることは決して容易な努力では出来ぬ。現になほ取り調べは行はれつゝあるのだが、まだ、はつきりしないのである。
 こゝに於て、当然考ふべきことは、例のつつかひ棒の問題である。犯人は兇行の後、表の入口から出たとしか考へられず、出る際に用心深くも中からつゝかひ棒をかつたやうに見せかけたのであるから、犯人はよほど家の事情をよく知つたものでなくてはならない。その日始めて来た托鉢僧などが、そのやうなことを行ふとは考へられない。そこで警察ではその日の良人寅三郎の行動を厳重に取り調べたけれど、寅三郎は、その日ずつと店に居て完全な現場不在証明(アリバイ)を提供することが出来た。
 また仮に寅三郎を疑ふとしても、動機は兎も角、例の花紙の点が寅三郎の行為に矛盾する。Coitus の形跡はなかつたけれども、それはたしかにエロチツクな目的で行はれたものである。而もそれはたしかに絞殺の後に行はれたものと認むべきであつて、従つてその朝まで同居して居た良人の所為とは考へ得ないところである。
 寅三郎を問題外に置くと、当然養父圓造が問題となつて来る。けれども圓造はその日四時頃にたづねて来て、而も家の中へはひらなかつたといふのであるから、アリバイと言へば言ひ得るのである。何でも圓造の附近の人々は圓造に疑ひをかけたさうであつて、それがため、圓造は気病みをして、警察の人がたづねても病気と称して逢はぬといふことであつた。まつたく圓造は気の毒な立場にあるといふべきであらう。
 以上の記述から、その日の喜代子の行動を想像して見ると次のやうになる。これはまつたく筆者の想像に過ぎないのだから、そのつもりで読んで頂きたい。
 喜代子は良人を送り出して後、跡片附けをして、やがて針仕事に取りかゝつた。昼になつたので食事をすまし、座敷で一寝入りして再び仕事に取りかゝるとそこへ托鉢僧が来た。托鉢僧に米を与へて後再び仕事場に坐ると間もなく、喜代子のよく知つた人が訪ねて来た。無論その人は座敷へあがつた。それから‥‥それからはどうも想像の限りでないが(、)(※20)兎に角その人の手によつて絞殺が行はれ、ついでエロチツクなことが行はれた。恐らく犯人はすぐに表には出ないで、喜代子の履物を奥庭に持つて行き、それからつゝかひ棒を格子戸の尻に置いて、注意深く戸を閉(しめ)て、さうして去つてしまつたのであらう。絞殺の動機が何であるかはもとよりわからない。又、喜代子の履物を奥庭へ持つて行つたことも不可解といへば不可解である。けれども、若し、つゝかひ棒の件が、警察の眼をくらます目的で行はれたとするならば、履物の問題も恐らく同じ目的であつたゞらうと想像されるのである。
 もとよりこの想像の薄弱なことは筆者も承知の上である。はじめにも書いたごとく筆者は決して推理を行つて居るのでなく、大部分は直観による想像に過ぎない。何しろ新聞記事と大差のない材料を持つのみで、現場を見たこともなければ、また事件関係者(警察の人を除く)の何人(なにびと)にも面接したことのない筆者のことであるから、的確な推理の行ひ得らるゝ筈がないのである。

 いづれにしても、今日に至るまで事件はまだ未解決である。が、この事件で考へねばならぬことがなほ一つ残されてある。それは喜代子が何故その日に限つて、前日までの例を破つて養家へ昼食(ちうじき)をたべに行かなかつたかといふことである。前後の関係から察して、喜代子がその日他動的に家にとゞめられたのでなく、自動的に、いはゞ外出する意志を持たなかつたことは明かである。
 既に記したごとく、養父母がその前々日あたり、家にとゞまるやう訓戒を与へたことは事実であるが、その訓戒がその前日であるか又は前々日であるかははつきりわからず、又その訓戒を与へた人が養父母共であつたか、養父か養母の孰(いづ)れかであつたかもはつきりして居ない。この点はたしかに詮索に値することゝ思ふ。
 ことに彼女は、その前日、養母に向つて、「明日は来ません」と語つては居ない。又、その朝良人に向つて、「今日は一日家に居ます。」とも言はなかつた。尤も、わざゝゝ(※21)言ふべきことではないとしても、兎に角この辺の心理は十分研究すべきであらう。
 すべて殺人事件に於て、捜査の中心となるものは殺害の動機であるが、この事件ほど、動機の曖昧なものは珍らしい。Coitus の形跡があればたゞちにきまるのだが、それがなくて、たゞエロチツクな形跡があるばかりである。又、物品や金品の紛失が発見さるれば(、)(※22)これまた犯人を物色すべき範囲がきまるのだが、それも全然ない。なほ又、はげしい抵抗のあとがあればよいが、これまた有力な証拠がなくて、一方には、睡眠中に殺されたのでないかと思はれるところさへある。もとより悲鳴などは誰にも聞えなかつた。
 更に又、突発性の犯罪か、計画された犯罪かも、多くの場合に鑑定がつくのであるが、この場合は、殺害は恐らく突発性であらう、もつと想像を働かせるならば、殺すつもりでなく殺したのではないかと思はれるくらゐのもので、その想像を裏書きするはつきりした証拠をあげることが出来ない。
 殺害の動機として最も普通な怨恨といふ点から見ても、良人の側(そば)にもまた本人の側(そば)にもこれといふものはない。恋の遺恨などは殆んど問題にしなくてよい位である。
 で、綜括して言へばこの事件は極めて特徴の少ない事件である。ドイルの「赤髪組合」の中のシヤーロツク・ホームズの言葉を借りて言へば、「最も平凡な顔の一番見つけるに困難なごとく、特徴のない事件こそ、最も解決が困難であつて」、この事件もその解決困難な事件の一つに数へてよいかも知れぬ。
 けれども特徴といふものは、必ずしも誰の眼にもつき易いといふに限らない。又時には特徴の少ないといふことそのことが一つの特徴をなすことがある。本事件に於ても犯人は案外手近いところに居るかも知れない。筆者は一日も早く解決されむことを祈つてやまないのである。
(三、一一、三〇記)

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。ここだけが「寅二郎」になっている。
(※5)原文圏点。
(※6)(※7)(※8)原文句読点なし。
(※9)原文ママ。
(※10)(※11)(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)原文ママ。
(※14)原文句読点なし。
(※15)原文ママ。
(※16)原文句読点なし。
(※17)原文の踊り字は「く」。
(※18)(※19)原文ママ。
(※20)原文句読点なし。
(※21)原文の踊り字は「く」。
(※22)原文句読点なし。

底本:『文藝春秋』昭和4年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1929(昭和4)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年5月19日 最終更新:2017年5月19日)