インデックスに戻る

短話三つ

ベーリー(※1)怒る

 マシュウ・ベーリー(※2) Mathew Baillie(1761-1823)は、英国の有名な内科医の一人である。ハンター(※3)兄弟の甥として、スコットランド(※4)に生れた彼は、始め古典の研究に志したが叔父のウイリアム(※5)に勧められて内科医となり、Morbid Anatomy(London, 1793)の著者として、またジョージ(※6)三世の侍医として、金頭杖の継承者として、彼の名声は、当時素破らしいものであつた。彼の背は低く、顔は別に好印象を与ふるといふでもなく、言葉には「スコッチ」訛りがあつたが、其の患者に接するや、飽くまで親切叮嚀に、どんな長たらしい患者の訴をも、いつも微笑を以て耳を傾けた。従つて晩年、一日十六七時間働くのを余儀なくせられ、ために著しく健康を害したといはれて居る。
 かゝる多忙な折から、ことに重要な仕事を片附けねばならぬ時などは、さすがの彼も、患者の用のない長談義には、たまゝゝ(※7)腹立たしさを感ずることがあつた。ある時、彼の玄関にあわたゞしく駆けつけて直さま往診がして頂きたいといつて来たものがある。「何処から」と訊くと「これゝゝ(※8)の夫人からだ」といふ。「今少し手が引けぬから後程ではどうだ」といつても「大へんお悪いやうですから、只今すぐといふことでした」との話に、急いで車を走らせて見ると、問題の夫人は「ベッド」の上でにこゝゝ(※9)し乍ら、「いえ、実は今晩「オペラ」に行く約束がしてあるのに、少し腹が痛み出したものですから」
 むつとはしたが、形の如く診察すると、何でもない。挨拶もそこそこに大跨で階段を下りると、
 「あのう」
と夫人の声、
 「あのう、先生」
 「何ですか」
 「今晩、「オペラ」から帰つたら、牡蠣が食べたいのですが‥‥‥」
ベーリー(※10)大声で、
 「えゝお食べなさいとも、殻ぐるみに!」

ラッドクリフ(※11)の朗読

 ジョン・ラッドクリフ(※12) John Radcriff は第十七世紀の傑出した英国内科医である。彼は学に於てよりも術に於て遙かに秀でゝ居た。時の国王ウイリアム(※13)が水腫に悩んだとき、招かれて王の寝室に行つて見ると、王は恰も「イソップ」物語を読んで居たが、静かに顔を上げて、「侍医達は大丈夫治るといふが、どうも自分の衰弱が只ならぬから君に来て貰つたのだ」と告げた。ラッドクリフ(※14)は、色々容体を尋ねて後、ではこの物語を一つお聞き下さいとて、王の前にあつたその本を取りあげつゝ次の如く読み上げた。
 「一医、病者に問ひて曰く「如何なりや」、病者答へて曰く「発汗甚し」医曰く「蓋し良候なり」。程経て再び医来り問ひて曰く「如何なりや」病者答ふらく「吁、われ恐怖の発作に襲はれぬ」医曰く、「さもありなん、これ最良の徴候なり」程経て三たび医来りて病者に問ひて曰く、「如何なりや」病者曰く「水腫に脳む(※15)と覚しく全身膨れ上りたり」医曰く「良候之に過ぎたるものなし」と。医去りて後一友来りて問ひて曰く「如何なりや」、病者徐ろに口を開きて曰く、「良候限りなし、われ恐らく良候病にて斃れむ」
 かう読んでから、ラッドクリフ(※16)は王に向ひ、「陛下の御気病もこれと同じやうで、陛下の病の真相を知らぬ侍医達からいつ迄もゝゝゝゝ(※17)治るといはれて居るに過ぎないのであります。率直に申しますが、陛下が私の処方通りを守つて下さらば今三四年は御寿命が延びませう。それ以後は薬では如何ともすることが出来ますまい」といつて、それから色々病気の有様を説いて聞かせ、処方を与へたところ、王は日ならずして恢復した。

ガル(※18)の警句

 ウイリアム・ガル(※19) William W. Gull(1816-1890)は倫敦「ガイス・ホスピタル」に勤めて居た内科医である。彼は常に肺腑を抉るやうな警句を吐くことによつて巧みに患者を処置し、彼の診療簿には随分奇抜なことが記されてあつた。その一例をあげると、
  患者姓名   某氏
  病名   愛犬の死
  療法   スエズ(※20)地峡
 当時欧洲ではスエズ(※21)運河の開通が大評判となつて、遙々開通式に出かけるものが多かつた。この患者は愛犬を失つて悲観のあまり、病気になつたのであるから、気を晴らす為に、スエズ(※22)行きを勧めたに外ならぬ。
 田舎に住むAといふ「ヒステリー」の一夫人を、彼は屡々見舞つて居たが、あるとき病勢が遽かに募つたため、取り敢へず近隣のあらゆる医者が呼ばれ、ガル(※23)も立ち合ひに招かれた。ガル(※24)は駆け附け、徐に医者連に向つて言ふ。「A夫人は予てよく存じて居ます。いや何でもありませんよ、が、今日はA夫人×4なんです」。又あるとき憂鬱症に悩む患者の立合ひに招かれたとき、患者は他の医者がどうも自分の諸々方々の病気を信じてくれないと訴へた。ガル(※25)は直ちにその心を察して曰く、You are a healthy man out of health.
 ある年寄つた女隠居がすつかり歯が抜けて食べる物に困つてガル(※26)の指図を乞うた。ガル(※27)は傍に居た友人の耳に口を寄せて、「乳母を一人雇はうかね?」

(※1)(※2)(※3)原文傍線。
(※4)原文二重傍線。
(※5)(※6)原文傍線。
(※7)(※8)(※9)原文の踊り字は「く」。
(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)原文傍線。
(※15)原文ママ。
(※16)原文傍線。
(※17)原文の踊り字は「く」。
(※18)(※19)原文傍線。
(※20)(※21)(※22)原文二重傍線。
(※23)(※24)(※25)(※26)(※27)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年7月5日 最終更新:2019年7月5日)