インデックスに戻る

ジエンナー(※1)インゲンハウス(※2)

 今年(大正十二年)は丁度、ジエンナー(※3)の死後百年に当り、今月(五月)十七日は彼の誕生日であつて、彼の生れた英国では、今月、百年祭が執行される筈である。ジエンナー(※4)の名はよく知れ渡つて居るが現今ではジエンナー(※5)の御蔭で、天然痘の物凄い有様をまのあたり見る機会が殆どないから、却つてその恩を忘れ易く、従つて、種痘を施されて居り乍ら、種痘法の発見者たるジエンナー(※6)の名を知らぬものも尠くなからうと思ふ。
 五月は彼の誕生の月であるのみならず、彼が始めて、その故郷なるバークレー(※7)で、ジエームス・フイツプス(※8)といふ男の児に、種痘を施した月として名高いのである。即ち一七九六年五月十四日に、彼は、十八年といふ長い間の観察研究の後、愈よ自分の考を実験して見たのである。彼が、「種痘」の考を起したのは、まだ若い時分であつて、郷里の乳搾りの間に伝へられて居た伝説、即ち、牛痘に罹つたものは、痘瘡にはかゝらないといふことをある乳搾りの女から聞かされて、之の事実を痘瘡の予防に応用して見たいと思つたのである。そして、一七七〇年二十歳のとき、ロンドン(※9)に出て、当時有名であつた外科医ジヨン・ハンター(※10)の門に入り、あるとき、自分の考を師に告げると、ハンター(※11)は、「兎や角考へないで、試つて見よ、辛抱強く、粗漏のないやうに」といふ督励の言葉を与へたので、七年の後、郷里に帰つて、専ら精密な観察に取りかゝつたのである。
 五月十四日、サラ・子ームズ(※12)といふ乳搾り女の牛痘の膿を、前記フイツプス(※13)に種え、六月一日、痘瘡患者の膿を種えたところ、予想通りフイツプス(※14)は痘瘡にかゝらなかつたので、彼が年来の考はこゝに立派に証明されたわけである。それから彼は一七九八年に至る二年間に二十三回実験して、その結果を一小冊子として公にしたのが、An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolae Vaccinae と題する著述で、この中には、「牛痘を種えれば、天然痘にはかゝらぬ」といふ結論が書かれてあつて、これは、その後の研究により未来永劫動かすことの出来ぬ真理となつたのである。
 さてジエンナー(※15)がこの一小冊子を公にした後、彼は世の人からどんな風に待遇されたかといふに、彼もまた総ての科学的率先者が嘗めるやうな苦々(※16)経験を味はねばならなかつた。それは、いつの世、如何なる所にも見らるゝ人間の心の浅ましさから起る現象であつて、平たく云へば、彼の業績にケチをつけやうとする連中の攻撃と反対とに面して立たなければならなかつたのである。私がこの一文を書いたのも、彼の事績を紹介するためではなくて、寧ろこの点を読者に考へて貰ひたいと思つたからである。
 茲には、勿論その委しい事情を一々に述べることは出来ぬから、左に反対者のインゲンハウス(※17)が、ジエンナー(※18)に送つた手紙と、これに答へたジエンナー(※19)の手紙とを掲げてその一斑を示したいと思ふ。ジエンナー(※20)は当時田舎の開業医者であつたが、インゲンハウス(※21)は、世に時めく侍医(Physician to the Emperor and King)であつた。

 (インゲンハウス(※22)からジエンナー(※23)へ)
 拝啓、種痘に関する貴著を読み、予てあなたが医師として名声嘖々たることを聞き及んで居た私は、こゝにあなたの御注意を促すために、失礼をも顧みず、一書を呈するのであります。実は私の考を世間に公にしやうかとも思ひましたが、さすれば物議を醸すことになつて、あなたにとつては不愉快でもありませうから、私信を以て貴意を得た次第であります。
 私が、カーヌ(※24)に近いボーウツド(※25)ランスダウン(※26)侯爵の邸宅に参りました節、あの附近は牛痘が流行する土地でありますから、貴著の学説を確めて置くのは私の義務だと思ひまして、早速カーヌ(※27)の有名な開業医アルソツプ(※28)氏を訪問し、来意の趣を告げますと、氏は、カーヌ(※29)に近きホイトレー(※30)の農業家なるスタイルス(※31)氏を紹介してくれました。スタイルス(※32)氏は約三十年前、ある市場で牝牛を一疋買つた所が、それが牛痘に罹つて居ましたそうで、家に連れて来ると、他の牛の全部に牛痘が拡がつたばかりでなく、氏もまた之に感染し、而もそれが重病であつたそうです。ところが幸に快癒して、凡ての病状が去つてから、前記アルソツプ(※33)氏に天然痘を種えて貰つたところ、氏が自からも天然痘に罹つたのみならずそれを父君にも感染せしめ、父君はそれがため死去せられたそうであります。以上は私が第一番に出逢つた人の直話でありますから、あなたは、これを聞いて、あなたがあの学説をどこまでも主張せられむがためには、今一度精細な研究をして見なければならぬと思はるゝことゝ私は信ずるのであります。
 加之、私はあなたの学説に反するやうな数個の他の事実をも聞きましたが、とにかく、牛痘は、天然痘を予防し得る程、重いものではないといふことがわかりました。
 又前記のスタイルス(※34)氏の話によると、牛痘は他の伝染病と同じ伝染法で、牝牛相互の間に拡がるといふ話であります。即ち、病牛の呼気又は乳房が悪臭を発する所を見ると、牛痘は乳を搾るものの手によらずとも伝染するものであるらしいとの事です。
 カーヌ(※35)の近くの有名な蹄鉄工のホワイト(※36)氏も同じ意見でありました。
 それ故、尊著の五十六頁と五十七頁に論じてあることは、たしかに誤つて居ると私は信ずるのであります。まだ色々論じたいこともありますけれど、あなたのやうな有名な方と、徒に争論するのは私の本意ではなく、たゞ私の好意として御注意迄に申上げたゞけでありますから、宜しく御諒察が願ひたいと思ひます。(一七九八年、十月十二日)
 (ジエンナー(※37)からインゲンハウス(※38)へ)
 拝復、私が目下専心に研究しつゝある問題について、忌憚なき意見を御聞かせ下さつたことは私の感謝に堪へぬところであります。この問題が、あなたを始め、当代知名の医学者の注意を惹いたことは、私の幸福とする所であります。
 申すまでもなく、この問題は、時を経るに従ひ、一般の人々から十分研究されませうが、それも一朝一夕のことではありませぬから、私の公にした説が承認さるゝ前には、幾多の疑惑が生ずるものと、私は予てから覚悟致して居るのであります。
 この問題にしろ、また私が以前研究致しました問題にしろ、私はつねに事実(※39)を伝へるといふことを主眼と致して来たのであります。今回の著述の中に書いたことは、たゞ事実をありの儘に伝へたに過ぎませぬから、私は飽くまで世間に対してその真実を保証するのであります。私はこの問題の研究期間に――それは随分長い年月と労苦とを経ましたが――たゞの一例として、牛痘に罹つたものが――自然に感染したにしろ、又種えられたにしろ――その後天然痘に罹つたものを見なかつたのであります。あなたの御注意の事項を始め、拙著を読んで下さつた方々からの御注意の事項に就て私の考を率直に申しますならば、患者が牛痘に罹つたといふ点に誤が存して居るのではあるまいかと思ふのであります。私の著述は私にとりての愛子でありますから、執着は少くはありませんが、若しその内容に誤りがあつたとしたならば、世間への申訳に、潔く縊り殺しても、更に遺憾はありません。私は今の所、完全に牛痘に罹つた人ならば、決して、天然痘には罹らぬと確信して居るばかりではなく、もし牛痘を種た後天然痘にかゝつたといふ人があるならば、その人の罹つた牛痘なるものが不充分であつたと断言して憚らないのであります。この点から申しても、牛痘と天然痘との伝染状態に、密接な類似のあることを認め得られるのでありまして、牛痘を種えて後天然痘にかゝつた人があるならば、先づその病苗そのものを検査しなければ、その結果を承認することは出来ないのであります‥‥‥‥(以下紛失)

 その後二人の間に度々手紙が取り交され、ジエンナー(※40)が叮嚀に、和解的になればなる程インゲンハウス(※41)は益々機嫌を損じて、自己の断定の正しいことをどこまでも主張するに至つたので、遂にジエンナー(※42)も相手の性格を知つて、手紙での論争は打切り、最後に長文の手紙を送つて、世間の公平なる判断を求めんため、二人の間に取り交された手紙を、著書の附録として公にせんことを申出た。ところがインゲンハウス(※43)は返事をしなかつたのである。ジエンナー(※44)は、彼の著書の出版者に送つた手紙の中にそのことを書いて居る。

 ガードナー(※45)君、君にも見せた、あの長文の手紙に対してインゲンハウス(※46)はいまだに返事を呉れない。嵐の前には静さがあるといふから、或はその状態かもしれぬが、困つたものだ。僕はどうしていゝかわからない。手紙が来たら、宜しく考へてくれたまへ。何しろ僕にとつては重大な事件で、僕の生涯にもかゝはることだから。僕はインゲンハウス(※47)が、牛痘に関して、知つておるだけを公にしてくれたらいゝと思つて居るが、それを云ひ出すのは、彼を馬鹿にしたやうに思はれるかもしれぬから心苦しい。兎に角、差し迫つた問題は――今すぐ附録を出版するか又は敵に云ひたいことを云はしてしまつてから、攻撃にかゝるかの孰れかだ。
 インゲンハウス(※48)は、実のところ、牛痘に関しては、セルウイン(※49)君が希臘語を知らないと同じく、何も知らないのだ。然しあれでも、丁度ジョンソン(※50)の文士連に於けるが如き関係で、学者仲間の一人となつて居る。尤も彼とジョンソン(※51)とは風采もちがふけれど。兎に角鷲に藁を投げることは無駄な話だ。いつ、君に逢へるか、きかせてくれたまへ。

 インゲンハウス(※52)と同じやうな態度でジェンナー(※53)に猛烈に反対した医者に、なほウッドヴイユ(※54)ピアソン(※55)などがある。彼等とジェンナー(※56)との間に取り交された手紙は茲には書くことを省略するが、いづれもインゲンハウス(※57)の手紙の内容と相伯仲して居る。読者は前記のインゲンハウス(※58)の手紙から察せられたごとく、彼が手紙を書いた動機は、ジェンナー(※59)のためを思つてではなくして、全く反対のための反対をしやうと思つてゞある。単に農夫から聞いたゞけの証拠を楯として、十八年間研究を積んだ人に刃向ふといふのは、その態度が如何にも非科学的であるばかりでなく「田舎医者めが、何を小癪な」といはんばかりの権幕である。が、その心の奥底には、見苦しい嫉妬の情が、根深く蟠つて居ることを、誰しも認めずには居られまい。
 然し乍ら、インゲンハウス(※60)のこのさもしい心は、何人にも必ず存在して居るのであつて、「親切」といふ仮面を被て外にあらはるゝ嫉妬は殊にこの世に多いやうに思はれる。他人が大きい仕事例へば研究に取りかゝつて、それに成功すれば、喜ぶ代りにケチをつけたがり、若し失敗すれば、同情するよりも先に愉快を感ずるのが、お互の心の常である。誰だつたか名を忘れたが、この世の人々を別つて、金を持つて居る人と、それを取る人との二種類としたが、私はこの世の人々を別つて、道を拓く人と、その拓いた道にケチをつけて削り又は埋めやうと企てる人の二種類にしたいと思ふ。が、ケチをつけて、削らうとするものは、その実却つて、その道を整へることになるのであつて、万事は即ち「時」によつて定まるのである。
 ジェンナー(※61)は存命のうちに、自分の学説が一般に承認され、種痘法発見者たるの名誉を楽しみ得た程幸福な男であつたが、「エ子ルギー」不滅則を発見したマイエル(※62)の如きは、ケチをつけられた儘、悲憤のうちに悶死した。知己を千載に求めねばならぬほど寂しいことがまたとあらうか。
 私はジエンナー(※63)をおもふ度毎に、インゲンハウス(※64)の見苦しい心をおもはざるを得ないのである。

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文二重傍線。
(※8)原文傍線。
(※9)原文二重傍線。
(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)(※15)原文傍線。
(※16)原文ママ。
(※17)(※18)(※19)(※20)(※21)(※22)(※23)原文傍線。
(※24)(※25)原文二重傍線。
(※26)原文傍線。
(※27)原文二重傍線。
(※28)原文傍線。
(※29)(※30)原文二重傍線。
(※31)(※32)(※33)(※34)原文傍線。
(※35)原文二重傍線。
(※36)(※37)(※38)原文傍線。
(※39)原文圏点。
(※40)(※41)(※42)(※43)(※44)(※45)(※46)(※47)(※48)(※49)(※50)(※51)(※52)(※53)(※54)(※55)(※56)(※57)(※58)(※59)(※60)(※61)(※62)(※63)(※64)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年6月21日 最終更新:2019年6月21日)