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ウイリアム・ストークス(※1)

 第十九世紀の半ば、アイルランド(※2)の人気を、一人で背負つて立つてゐたのは、実に吾がウイリアム・ストークス(※3)である。その頃彼の名声を慕ひてダブリン(※4)の彼の家を訪るゝものは医者は勿論政治家・文士・画家等あらゆる方面の名士を網羅した。而して、それらの客と対座して決して話題の尽きなかつた程、彼は何れの方面にも、一かどの見識を備へて居た。名門に生れ、医科大学教授を父とし、幼にしてスコットランド(※5)の民謡を熱愛し、長ずるに及び医業に忙しい折にも、なほ其懐から常に、シェクスピーア(※6)の劇詩を離さなかつた程、文芸に趣味を持ち、自身も又艶麗な筆の持主であつた。彼が独逸からアルプス(※7)に旅行した時の日記文は、まるで彼の好んだターナー(※8)の絵を見る様である。然し彼は自ら詩なり絵なりを製作するといふよりも、寧ろ其鑑賞批評に、より多くの興味を感じた。当時アイルランド(※9)の有名な風景画家たりし、オーコノー(※10) O'conor は、彼の親しい友達であつて、常に二人は絵画其他の美術に就て語り論じた。彼が大陸を旅行して、アントワープ(※11)の寺院にあるルーベンス(※12)の傑作「十字架より下さるゝ基督」の絵に接した時、一度それを見たら頭が垂れて、再び顔を挙げ得なかつたと郷里への手紙の一端に書きつけて居る。それ程彼の神経は繊細であつた(口絵参照)。音楽に就ても、ワグナー(※13)一派の作は好まず、ヘンデル(※14)モツァルト(※15)を愛した。又彼自身も諧謔に富んで居たが、寧ろ彼は諧謔に充ちた他人の逸話を、巧みに語ることを好んだ。
 シェーン・ストークス(※16)氏呼吸型、アダムス・ストークス(※17)氏症候群なる名称によりて、彼の名は医学界に於て永遠に記念せらるゝであらう。然し彼の名を始めて世に知らしめ、一躍当時の最も傑出せる医学者の列に入れしめたのは、彼の三十三歳の時の名著 Deseases(※18) of the Chest 「胸腔の疾患」である。
 エヂンバー(※19)大学に於て、アリソン(※20)教授 Alison に就て医学を修めて居た時、当時名声嘖々たりし、仏蘭西の碩学レ子ック(※21)の大著 Traite de l'auscultation mediate を読んだ彼は、臨床上、聴診器使用の欠く可らざるを感じ、一八二五年、彼が卒業の時即ち二十一歳にして、A Treatise on the Use of the Stethoscope なる書を著し、爾後郷里に帰りて、一二の病院に内科医を勤め、其の燃犀なる観察力と、勃々たる研究心とは、十年の後遂に既記の名著を生むに至つたのである。
 彼の研究に多大の刺戟と嚮導を与へたのは、彼の師にして、同僚にしてまた生涯の友たりし、グレーヴス(※22) R. J. Graves であつた。ストークス(※23)を語るものは、「ミース・ホスピタル」Meath Hospital に勤めて居た時、グレーヴス(※24)が、彼に与へた感化を忘れてはならない。此グレーヴス(※25)は、ストークス(※26)が「英国の医史に一時代を劃した人」とまで賞讃した人であつて、その著 Clinical Lectures(1848)は、トルーソー(※27)が再読三読、口を極めて賞讃愛誦したといはれて居る。かゝる同僚の督励を得て成つた、ストークス(※28)の「胸腔の疾患」は、ある点に於てレ子ック(※29)の著書よりも優れて居るとさへ言はれて居る。
 一八四五年、ダブリン(※30)大学の教授に挙げられてから晩年に至るまでのストークス(※31)の生活は、光彩と栄誉に充ちたものであつた。而も彼の研究心は休む事なく、一八五四年には第二の名著 Deseases(※32) of the Heart and Aorta 「心臓及大動脈の疾患」が成り、この中には、彼の名を冠する例の呼吸型の記述がされてある。其他この前後に彼の発表した医学に関する論文及著述は数多く、其研究は内科疾患の各方面に亘つて居る。
 彼は医学に造詣の深かつたばかりでなく、医学教育に関して、卓越した見識を持つて居た。彼はいふ、「真の医師に何よりも必要なるは、事物を哲学的に考察する心の養成であつて、こは範囲の広い自由な教育に竢たなければならない」。又いふ、「医学は機械的暗記によつて覚えらるゝ法則に支配せられた手芸ではなく、不断に変化する状態を考究する学問である」。これ等の言は其の当時の弊を矯正すべく発せられた警告であるのみならず、現今ことに日本の医学教育者にとりても、尊い訓言であらねばならぬ。
 教育に関してのみならず、医師の道徳に就ても、常々力説する所があつた。「秘密を守り、多弁を慎み、患者の前にて思考の道程を兎や角口にしてはならない」。「立合ひに招かれたときは、主治医の居ない時に、疾病の性質を語つてはならない」。「社会に立ちては、決して一身の繁昌を口にしてはらぬ(※33)。非医者の攻撃が始まつても口を緘み、又医学の成り立ちを知らずして、正統医学を排斥するものが有ても、むきになつて怒つてはいけない」。「普通の会話の際、好んで医学の論議を始めてはいけない」。「職業に関しては何事も患者本位に考へ、次に同業者を考へ、自己を後廻はしにする。常に沈黙を守り、同じ患者を、以前治療したことなどを口辷らし、同業者の名誉に向ひて、闇中に匕首を閃めかすやうのことをしてはならぬ」。断片であるが、よく彼の意のあつた所を窺ふに足らう。
 彼のこれ等の言辞は、彼自身によつて正直に実行せられた。彼は彼の弟子を常に fellow_students「研究仲間」と呼び、之を指導すること飽くまで親切に、之を労ること我が子のやうであつた。モーア(※34)氏 Dr. J. W. Moore はいふ。「誰しもストークス(※35)氏の回診振りを見れば、彼が如何に患者に親切であつたかを知らう。あの熱心なる臨床的観察と研究の間にあつても、一刻として、苦患に悩む者のことを忘れたことなく、いまだ嘗て一度も患者に粗暴な言を聞かせたことなく其の患者を取扱ふや、心ゆくばかりに柔和であつて、いつの間にか抜くべからざる信頼を、患者の心に植えつける」。
 人を愛する心は自然を愛する心である(。)(※36)「愛」は彼の生涯を代表した言葉であつた。一八六一年、エヂンバー(※37)大学から LL. D(最高の学位)を贈られ、其の名誉を受くるため、同市にきたり、シンプソン(※38)教授 James Simpson(「クロヽフォルム」を麻酔に応用した最初の人)の客となつたとき、一日、同教授と共に、スコット(※39)―それは彼が小さい時分より熱愛した―の墓地を訪ね、その紀行を彼は妻に宛てゝ、次のやうに書いて居る。
 「昨日―土曜日―ヘンリー(※40)(末子)と予とは、シムプソン(※41)氏と共に、午前八時発の汽車で、ケルソー(※42)に行き、其の地にある氏の邸宅で昼食を済し後ドライバー(※43)僧院の廃墟を訪ねた。これはスコットランド(※44)に於ける最も美はしい「ロマ子スク」建築の一である。最初トウィード(※45)河の谿に沿ひて、此の廃墟にいたり、後メルローズ(※46)に赴いて、帰り汽車に乗つた。お前とマーガレット(※47)が一緒だつたらどんなに嬉しかつただらう。いや全く、あの短い時間に、あれ程美はしい世界で、眼と心を楽ましめたことは、生れて始めてゞある。空は朗かに澄んで、西南の風は暖く、時折の驟雨の後に、日は栄光に染まる。樹々に萌ゆる嫩葉はいまだ幹を蔽ふに足らず、紺青の空を舞台に「ダンス」をやつて居る様である。ずつとその間トウィード(※48)河は銀色の光を湛へ、水晶の如き流れは、或は両岸に屹立する巌に砕け、或は広野にのぞむ汀に囁く。わがスコット(※49)の眠れる僧院はと見れば、林に深く姿は包まれ、漸く址壁に車を着けて、見れば蒼樹は庭をも満す。「アーチ」や壁や、窓を照す陽光の荘厳よ! 気は「ダイヤモンド」の如く澄み、紗の如く肌に柔かい。桜の花は雲かとまがひ、歩々に咲く幽草の花は緑なす金色の王冠を鏤める。鶫は囀り、トウィード(※50)の水は、銀の器もて永劫の楽を奏でる‥‥‥」。
 あまり長くなるから手紙の途中でやめる。たゞ訳筆の足らぬことを切にストークス(※51)に謝しておく。

(※1)原文傍線。
(※2)原文二重傍線。
(※3)原文傍線。
(※4)(※5)原文二重傍線。
(※6)原文傍線。
(※7)原文二重傍線。
(※8)原文傍線。
(※9)原文二重傍線。
(※10)原文傍線。
(※11)原文二重傍線。
(※12)(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)原文傍線。
(※18)原文ママ。
(※19)原文二重傍線。
(※20)(※21)(※22)(※23)(※24)(※25)(※26)(※27)(※28)(※29)原文傍線。
(※30)原文二重傍線。
(※31)原文傍線。
(※32)(※33)原文ママ。
(※34)(※35)原文傍線。
(※36)原文句読点なし。
(※37)原文二重傍線。
(※38)(※39)(※40)(※41)原文傍線。
(※42)(※43)(※44)(※45)(※46)原文二重傍線。
(※47)原文傍線。
(※48)原文二重傍線。
(※49)原文傍線。
(※50)原文二重傍線。
(※51)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年6月14日 最終更新:2019年6月14日)