インデックスに戻る

トーマス・アヂソン(※1)の性格

 英京倫敦を訪ふ医学者は、多く「ガイス・ホスピタル」Guy's Hospital を参観するであらう。而して「ガイス・ホスピタル」を訪ねたものは必ずや二つの親しい名を記憶するであらう。その一は蛋白尿と腎臓疾患との関係を記述したブライト(※2) Richard Bright 今一つは副腎の疾患を記述したトーマス・アヂソン(※3) Thomas Addison であつて、この二人とも今から凡そ百年前この病院の内科を担当して居たのである。
 秋より冬にかけての倫敦の空は、旅行者の何人にも、一種異様の印象を与へずには置かぬ。即ち夏目漱石氏の言葉を藉りて言へば、「灰汁桶をかき廻したやうな」陰鬱な、圧迫するやうな、見る人にとりては寧ろ悲痛な感を起さしめる曇り空である。名物の霧のある日は尚のこと、さもない折でも、多くはかゝる日ばかりが続く。私はアヂソン(※4)の伝記を読み、彼の風貌を胸に描くとき、いつもこの重くるしい、灰色の空を聯想せずには居られない。何となれば、彼は神経質な、「メランコリック」な、そして何処となく寂しさうな、浅黒い顔の所有者であつたからである。
 黒い髪、広い額、太い眉、小さく鋭い眼、高い鼻、堅く結ばれた口――かう書いて来ると敏感な読者は、音楽家ベートーヴェン(※5)の顔を、思ひ出さるゝであらう。或は又大詩人ウイリアム・ブレーク(※6)の顔を想像せらるゝであらう。実際アヂソン(※7)の顔から頬鬚を取り去つたならば、前二者の顔に余程よく似て居るのであつて、而も、ベートーヴェン(※8)にしろ、ブレーク(※9)にしろ、其の顔には、アヂソン(※10)と同じく絶大の悲哀と寂しさとが漲つて居ることを、誰しも認めずには居られない。
 由来天才は寂しいものである。「前不見古人、後不見来者、念天地之悠々、独愴然而涕下」といふ気持を彼はたつぷり持つて居た。彼は英国内科学の泰斗トーマス・シデナム(※11)と同じく、研学に際しては専ら自己の鋭い観察眼に頼り、前者に特有なりし Nil admirali といふ性質をも多分に具へて居た。五十の坂を越えても独身で(其後結婚したが)、一身上の事は、極めて親しい二三人の友人の外には、打明けず、人に接して容易に許さず、患者に対して遠慮なく手荒い言葉を使つたがため、彼は周囲の多くの人々から誤解せられ、学生からは崇拝せられては居たが、只管に恐れられて居た。
 彼のこれ等の性質は、彼の境遇から生じたものではなく、全く彼に生みつけられた性格の然らしむる所であつた。而して彼が容易に人を近づけないのは、実は彼の神経質な性情を人に知らしめないための用心であつて、彼が如何に孤独を愛したかは、深夜人なき折を選んで、屡ば街頭を散歩したことを以ても知ることが出来る。彼は自分が他人に誤解せられて居ることを、よく知つて居ながらも之を如何ともする事が出来なかつた。而も彼は同僚に対しても学生に対しても、内心極めて親切であつた。嘗て彼と他の教授との(※12)が不和になつた時、一日彼の面前で、或人が其教授の悪口を言つた所、彼は忽ち顔色を変へて「あの人は自分の同僚です」といつて相手を沈黙せしめた。又ある時病院で回診をして居た時、倫敦の南部から年若い患者の往診を求められた。すると彼は、当時其の近所に開業して居た Dr. Barlow に往診して貰つたら、よい(※13)だらうと返答した。ところが患者が自分の教へて居る学生だと聞くや、忽ち彼は車を命じた。又ある時道で昔の学生に逢ひ、その男が今度 Fellow of the College に選ばれたことに対し、彼が祝辞を述べると、その男は、目下経済上の都合でその肩書を貰ふことが出来ぬと語つた。これを聞いた彼は、矢庭にその男の手を執つてある所に伴ひ行き、懐から小切手帖を取り出し、五十ギニー(五百円余)の小切手を黙つて手渡した。
 彼の講義、就中臨床講義は、何人も追随を許さない程立派なものであつたと言はれて居る。彼の言葉は、一語一語よく練られて居り、彼の述ぶる所は、精細を極めて居た。彼の診察は丁寧といふよりも、患者や助手に取りて、寧ろ苦痛な程長い時間を要し、殊に彼は、一方の耳が悪かつたため、「ベッド」の周囲を幾度となくかけ廻つた。入院せしめてからも、病気の真相を見極むるまでは、日に幾度となく患者を訪ね、時としては、深夜あわたゞしく診察に来り、当直の看護婦を驚かすこともあつた。
 診察には、これ程綿密だつた彼も、治療に対しては、心にくき迄冷静であつた。即ち彼は必要のないと思つた病気には一服の薬も与へなかつたのである。ある時彼をまだ見たことのない医者が、彼の名声を慕ひて、腹部の疾患に悩む患者を伴つて、彼の診察を乞ひに来た。彼は熱心に検査して、其の医者に腹膜の悪性腫瘍なるを告げ、色々語り論じた挙句、治療の事は何もいはずに去らうとした。驚いた医者は、彼を呼び止めて、何を与へたらよいかを訊ねた。すると彼が「君は今迄何を与へて居た」といふに対し「マグ子シアを」と答へると、彼は言下に「結構結構、続けて服用するやうに」。
 彼は色々の論文を書いたが、其中有名なるは言ふ迄もなく副腎の疾患に関するものである。彼の知識は多方面であり、始め外科学に志し、後皮膚科学を修め、殊に後者にはよく精通して居たといはれて居るだけ、其の知識を基とし、其の優れたる観察力を応用して、書かれたるこの論文は、完璧といふを憚らない程、行き届いた記述がなされてある。彼のこの書“On the Constitutional and Local Effects of Disease of the Suprarenal Capsules”は、一八五五年ロンドン(※14)で出版せられたが、彼はその五年前に、始めて副腎の疾患と臨床的所見との関係を報告した。始め彼はこの病気に Malasma Suprarenale なる名を与へたが、後には Bronzed Skin(青銅色の皮膚の意)なる名称をも使用するに至つた。
 総ての新発見に共通なるが如く、彼のこの学説は、其の当時一般の承認を得ることが出来なかつた。独逸其他の国に於ては、所々で長い反対論文が公にせられ、本国なる英国に於ても、彼の示した標本に就て、幾年か討論が行はれ、エヂンバー(※15)に於てはヒューズ・ベン子ット(※16)其他二三の教授が、之を否定するといふ有様であつたのである。
 かゝる喧しい反対の声の中にありて、アヂソン(※17)の発見を肯定したるのみか、この疾患にアヂソン(※18)氏病の名を与へたるものは、実に仏蘭西科学の泰斗トルーソー(※19)その人であつた。新疾患を発見するは、無論至難の業である。然しその新疾患を認め、之に発見者の名を冠するといふことも、決して容易なことではなく、さすがに、トルーソー(※20)なればこそと思はずには居られない。茲に彼がアヂソン(※21)氏病と命名した時の言葉を記してこの稿を終らう。
 「私は今日、当病院のセント・アンヌ(※22)室の第五番の患者を其の著名なる例とせるこの疾患に、公平な見地からして(※23)、これを発見した英国医学者の名を冠せしめることを提唱します。この医学者は名をアヂソン(※24)といひ、かの倫敦「ガイス・ホスピタル」の主席教授にして、従来幾多の有益な論文を公にして斯界に貢献する所多かりしブライト(※25)氏の同僚であります。即ち私は茲に、この皮膚の変色、委しくいへば、アヂソン(※26)氏が Bronze disease と命名したに相応はしい皮膚の青銅様の著色を以て、その特徴とする異常なる「カヘキシー」を、爾後アヂソン(※27)氏病と呼ぶことを提唱するのであります。」

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)(※8)(※9)(※10)(※11)原文傍線。
(※12)(※13)原文ママ。
(※14)(※15)原文二重傍線。
(※16)(※17)(※18)(※19)(※20)(※21)(※22)原文傍線。
(※23)原文圏点。
(※24)(※25)(※26)(※27)原文傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年6月10日 最終更新:2019年6月10日)