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英国の医風

 外国を旅行して最も深く感ずることは、外国人が日本をよく諒解して居ないことである。然らばわれ等日本人は果して自分達の旅行する国々をよく諒解して居るかと訊かれるとき頗る赤面せざるを得ない。欧洲戦争後多数の日本人が、それゞゝ(※1)各方面の用向を帯びて外国視察に出かけるが、これ等の人々が何れも十分なる視察を遂げて帰つてくるであらうか。中にはとんでもない見当違ひの視察談をする者も無いではない。
 現今の日本の医学は独逸医学に其の根柢を有して居て、独逸の医学は比較的よく紹介せられ理解せられて居るが、英国や米国の医学に関してはどうも十分なる理解をもつて居る人が少いやうに思はれる。そして英、米の医学が、まるで取るに足らぬやうに思つたり、又は口を極めて罵つたりするやうな乱暴な人が中には往々ある。これは医者の英、米国に留学したものゝ少いことゝ、偶ま英、米国に滞在しても其の医学の歴史の十分なる研究をしないが為であると思はれる。然し乍ら、少しく長く滞在して、少しく深く研究して見ると、今まで独逸人だと思つた人が英国の人であつたりするやうな事に出逢ふは勿論、却々に学ぶべき多くの尊きものゝあることを知るに至るのである。
 英国の文学に関しては随分日本人で研究するものが多く沙翁やミルトン(※2)の名は誰もよく承知して居るが、英国の医学に関しては医者仲間でも知るものが極めて少い。一般に知られて居るのは僅に種痘法の発見者ジエンナー(※3)の名位のものであらう。大英博物館を訪ねて、世界の偉人名流の筆蹟の集めてある室に入ると、ミルトン(※4)の筆蹟から程遠からぬ所に、血液循環の理の発見者ハーヴェー(※5)の筆蹟がある。これはハーヴェー(※6)が大学で講義に用ひた講本で、而も医学史上最も大なる発見の記念すべき部分が示されてある。即ち血液は循環するものなることを断言した文句が記されてあつて、一六二八年フランクフルト(※7)から出版した名著「心臓及び血液の運動に就て」の下書きと見るべきものである。然し多くの日本人はこの前を何等の感興なしに素通りするに違ひない。外国を旅行しても其の国の歴史を知らなければ少しも面白くないが、専門家以外の多くの旅行者の歴史に関する智識は至つて乏しいやうである。されば英国の医風を紹介することは単に医者の為のみではなからうと思ふ。
 英国の現代の医学の風潮を知るには、必ず英国の医学の歴史を十分諒解しなければならぬ。英国には「アングロ・サクソン」時代の固有の医術も存在し、又「ノルマン」侵略後にもローヂャー・ベーコン(※8)の如き大才が出たが、これ等を説くのはあまりに専門的に亘るし、且現今の医風を知るに直接の関係はないと思ふから、第十七世紀以後の医史の主要なる点を語つて見やうと思ふのである。
 紀元前四百六十年希臘にヒッポクラテス(※9)が出で、医術を迷信から分離せしめて、疾病の純客観的記述を行ひ、西洋医学の祖と仰がれ、後六百年を経て、同所にガレン(※10)が出て、之を大成して中興の祖となつたが、基督教の勃興と共に約一千年間所謂中世の暗黒時代を出現し、医術は僧侶の手に移り、漸く文芸復興期に及んで、十五世紀に伊太利に多くの大なる解剖学者が出て(、)(※11)現今の医学の魁となつた。而して英国では第十五世紀の終りにリ子ーカー(※12)が出て欧洲大陸に遊学し、ガレン(※13)の著を翻訳して、英国内科医の始祖となり、後キイス(※14)などが出で始めて第十七世紀に至つて英国の医学に絢爛の花が咲いたのである。
 第十七世紀は欧洲の黄金時代である。欧洲の黄金時代であると同時に英国の黄金時代である。沙翁、ミルトン(※15)の名は永遠に美はしく、ベーコン(※16)ロック(※17)の哲学、ニュートン(※18)子ピアー(※19)の如き大数学者、フラムスチード(※20)ハレー(※21)等の天文学者、ローレー(※22)モーア(※23)等の天才が輩出し、世界の歴史に稀な美はしい時代を形成した。
 独逸はその頃三十年戦争の為に何等の見るべきものなく、医学は実に伊太利、和蘭、英国に発達し、英国ではギルバート(※24)が千六百年に公にした「磁石」の論文を先頭に、伊太利留学から帰つたハーヴェー(※25)が血液循環の理を発見し、シデナム(※26)が出てヒッポクラテス(※27)医学を復興した。現今の英国の医風は実にこの時に胚胎した。
 其後英国の生んだ大学者は沢山ある。ジェンナー(※28)は言ふ迄もなく始めて「クロヽフォルム」を麻酔に応用したシンプソン(※29)や、消毒法の創始者リスター(※30)の名は何人も記憶せねばならぬ。「マラリア」が蚊によつて伝染さるゝことを発見して、「マラリヤ」の予防法を案出し、ノーベル(※31)賞を得たロス(※32)、生理的食塩水に代るべきリンガー(※33)液を創製して、生理学研究に多大の便宜を与へたリンガー(※34)等を生んだことは何れも英国の誇りとする所である。

 英国の医学に大なる影響を与へた者はフランシス・ベーコン(※35)の学説である。氏は真理を誘導する方法を哲学的に説き、所謂自然哲学に一新機軸を開いた人である。その説の主眼とする所は、出来得る限り多くの事実を観察し、其の事実を基として帰納的に真理を導き出さうといふのである。この方法は科学研究に重要なるものであるが、寧ろ消極的の方法であることは否み得ない。この観察法は受働的とも言ふべきもので、彼は能働的の観察法即ち実験に就ては多くを語つて居ない。
 氏のこの説を遵奉して之を医学に応用したのはトーマス・シデナム(※36)である。エドムンド・バーク(※37)が英国民中の大天才と批評したこの人は、疾病に関して全く独創的の研究をした。氏は医者であり乍ら、あまり先人や他人の書いた医書は読まず、たゞヒッポクラテス(※38)の著書のみを愛読し「他人の読書する間自分は思索する」と揚言し「ドン・キホーテ」を熱読したことを見ても凡そ其人となりが推察せられる。其の文章の巧妙なるは、シセロ(※39)を愛読したゞけあつて「痛風及水腫に就て」の論文の如きは、多くの文学者に愛読せられて居る。氏は病因を知るには疾病を臨床的によく観察するにありといつてヒッポクラテス(※40)医学を復活し、疾病の記述に独特の手腕を発揮した。
 シデナム(※41)の行つた方法こそは、軈て其の後の英国医学者の態度に直接間接に大なる影響を与へて居る。而して現今に至るまで一貫して、英国の医風の特色をなして居るやうである。
 観察に念を入れた例として、ジェンナー(※42)を挙げることが出来る。始め乳j搾りの女から、牛痘に罹つたものは痘瘡に罹らないと聞いて、それから実験に取りかゝる前に先づ自分で其の事実を精細に観察しやうと企て、それが為実に十八年の歳月を費やしたのを見ても、如何に用意周到であつたかゞわかる。氏がまた観察に秀でゝ居たことは、かの「ホトトギス」が他の鳥の巣の中に卵を生んで行く事実を発見したのに徴しても明かである。
 次に観察を如何に精細に奥深くやつたかの例証としてアヂソン(※43)を挙げることが出来やう。氏は皮膚が銅色になる疾患に眼をつけて其臨床上の精細なる観察を行つて、其の他の症状群を研究し、これが副腎の病的変化と関係あることを発見した。今ではこの病気をアヂソン(※44)氏病と名けて居るが、アヂソン(※45)が一八五五年に記載した以上に、その後如何なる人も何事をも加へることが出来ない程其の記述が完全である。この人は倫敦のガイ(※46)氏病院に内科医をして居た人であるが、同じ病院からはまたブライト(※47)が出て居る。この人は尿に蛋白質が出て、浮腫のある疾患は、腎臓の病的変化と関係のあることを観察発見した人で、其の記述は後人を驚かして居る。
 其他シェーン・ストークス(※48)氏呼吸型で有名なウイリアム・ストークス(※49)の業績の如き、又医学者ではないが、医学と間接に大なる関係を有する進化論を創唱したダーウィン(※50)の「種原論」の如きはこの種の産物の最も大なるものであらう。ダーウィン(※51)の従兄弟のガルトン(※52)、其の衣鉢をついだピアソン(※53)、統計学の権威ファール(※54)などかゝる例証は沢山あるが、之を要するにベーコン(※55)によつて唱へられた研究方法及び態度が英国の医学及び医学者に見らるゝ特色であることは何人も否み得ない。
 今一つ英国医学者に見らるゝ特色は医学史をよく読む事である。ハクサム(※56)の「熱」に関する論文の序に言つてある如く、医史を読むことにより、より良き医者となることが出来るといふ信念を持つて居ることである。医学史の系統的の立派な研究は、フレンド(※57)の医史の外別に見るべきものが無いが、医史を重んずる態度は英国の医風に認めらるゝ特色であらう。生理学者フォスター(※58)の如きは一面に於て立派な生理学史家であつた。
 独逸の優れたる医学者は物を系統的に纏めるに秀でゝ居る。例へばエールリッヒ(※59)ヘルムホルツ(※60)の如きがこれである。仏蘭西の大なる医学者は奇想天外的の研究をやるが、別に系統といふものがない。例へばパストール(※61)クロード・ベルナール(※62)の如きこれである。然るに英国では、前述の如く、一つことに飽く迄綿密に奥深く進まんとする。之を譬ふれば、独逸流はしつかりして鎧を着たやうであり、仏蘭西流は華美で錦を着たやうであり、英国流はじみ(※63)で黒羽二重を着たやうである。

 英国の医風は外科医に於てよりも内科医によく現れて居ると思ふ。外科医にはジョン・ハンター(※64)アバー子チー(※65)ブローヂー(※66)の如き天才が出て、書くべきことも多いが、茲ではやはり内科医に就て述べやうと思ふ。たゞ英国の外科医、内科医に共通なる点は、彼等が機智諧謔に富んで居ることである。
 倫敦の「内科医大学」の図書館の一隅に一本の杖が飾られてある。この杖こそは、英国の内科の歴史と最も関係が深く、英国の医学者気質の象徴と言つてよい。この杖の握りの部分が金で作られてあるゆゑ「金頭杖」として名高い。この金の握りに五箇の紋が刻まれてあるが、これはそれを所有した人々の紋である。即ちこの杖は、英国の有名な内科医五人の身辺に常に侍つたもので、最初の所有者はラッドクリフ(※67)(一六五〇年生)である。其の後ミード(※68)アスキウ(※69)ピットケイン(※70)ベイリー(※71)に順次に伝へられ、ベイリー(※72)の死後其未亡人がこの杖をサー・ヘンリー・ハルフォード(※73)に譲り、ハルフォード(※74)は直ちにこれを大学に寄附したのである。
 昔し英国の内科医は患者の室に入る時でも必ず一本の杖を携へたものである。杖の握りは象牙や銀で作られ、其の中が空虚になつて居て、伝染病などの感染を防ぐべく、薬剤をつめたものである。薬剤として多く用ひられたものは「四盗の酢」と称せられたものである。これはむかしマルセイユ(※75)に猖獗な「ペスト」が流行したとき、四人の盗賊が死体の財宝をあさつてあるいたが、不思議に「ペスト」に罹らなかつたので、後に調べて見たら、四人共一種の薬剤を携へて居た為であるとわかつた。この薬剤が「四盗の酢」として、英国内科医の杖の中に蔵せらるゝやうになつたのである。其後薬剤は別として、杖を携へるといふ風習だけ長く残つた。(現今は稀であるが)。
 此杖の最初の所有者ラッドクリフ(※76)は医学に於てよりも医術に秀でた人である。彼の有名な言葉に「医者は一方の扉から僧侶の入つて来た時他の扉から退却すべきである」といふのがある。即ち患者が瞑目する迄、医者は其側に居てやるべきものだといふ意味である。此言葉は英国時代の内科医の遵奉した所で、誠に尊いものである。
 彼はまた病気の予後をよく言ひ当てたのみならず、頗る機智に富んだ人である。ある時田舎へ招ばれて患者を診るに、扁桃腺炎の重いので、内服にも外用にも薬剤の施すべからざる時期のものなるを見て、ひそかに二人の料理人に意を含め、患者の眼の前で「プツヂング」の食ひあひを行はしめたのである。一人が早く食ひ一人が遅く、為に二人が喧嘩を始め、「プツヂング」を顔に投げあつた。其の滑稽なる有様を見て、患者は我を忘れて笑ひ出し、同時に扁桃腺が破れて、多量の膿が出で、病気は治療した。かうした頓智は英国の医者の血液に多量に流れて居るやうである。
 ラッドクリフ(※77)から、この人ならばとて杖を譲られたミード(※78)は、詩人ポープ(※79)をして「ミード(※80)チーセルデン(※81)の言ふことなら、何でも聞く」と歌はしめた程の名医である。氏には色々の著述があり、その「毒に就て」の論文は有名である。ミード(※82)以後の三人の金頭杖の持主は何れも其の時代の傑出した人々で、すべてラッドクリフ(※83)の精神を受け継いだのである。
 ラッドクリフ(※84)は其の職業によりて多大の富を得、之を寄附して、死後、天文台、図書館、慈善病院などが建設せられた。オックスフォード(※85)を旅行する人は、誰しもラッドクリフ(※86)の名を冠したそれ等の建物を見るであらう。倫敦にありても昔から医者の御礼は高価なものと定められ、内科医は一般に富裕であつた。勿論医薬は分業であるが、現今に至るまで御礼の単位はギニー(一磅一志)で、昔でも、一回の御礼は三ギニーや四ギニーが普通であつた。
 要するに英国の医学は頗るじみ(※87)で、其の研究の仕方には観察を主として、念に念を入れる風習があり、一方に於て歴史を重んずる。医術にありては、親切を旨とし、機智を働かしめて臨機応変の処置をするに秀でゝ居る。
 現今の英国の医風が、果してかゝる美風をその儘踏襲して居るか否かは断言出来ない。学風の堕落は何れの国に於ても見られるが、もし現今の英国の医学者に美はしい点を発見するとせば、それは前記の諸事実であることを誰しも認むるであらう。
 そして以上の事柄を胸に置いて英国の医学者の業績を読み、英国に渡つて現今の医学及医術の状態を視察したならば、却々に学ぶべき多くのものゝあることを知り、英国の医学はどうも駄目だといふやうな軽率な断案はなし得なくなるだらうと思ふ。

(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文二重傍線。
(※8)(※9)(※10)原文傍線。
(※11)原文句読点なし。
(※12)(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)(※20)(※21)(※22)(※23)(※24)(※25)(※26)(※27)(※28)(※29)(※30)(※31)(※32)(※33)(※34)(※35)(※36)(※37)(※38)(※39)(※40)(※41)(※42)(※43)(※44)(※45)(※46)(※47)(※48)(※49)(※50)(※51)(※52)(※53)(※54)(※55)(※56)(※57)(※58)(※59)(※60)(※61)(※62)原文傍線。
(※63)原文圏点。
(※64)(※65)(※66)(※67)(※68)(※69)(※70)(※71)(※72)(※73)(※74)原文傍線。
(※75)原文二重傍線。
(※76)(※77)(※78)(※79)(※80)(※81)(※82)(※83)(※84)原文傍線。
(※85)原文二重傍線。
(※86)原文傍線。
(※87)原文圏点。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年6月3日 最終更新:2019年6月3日)