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「ペスト」小史

 何が恐ろしいといつても、古来、疫病ほど人類を極度に恐怖せしめたものは少いであらう。その原因の発見されなかつた以前にあつては、人々は、たゞもう運命に任せて、荒れ狂ふ死神を、ぼんやり眺めて居る外、何の施す術もなかつた。そして人々は、或は疫鬼の仕業であると考へ、或は謗法の罪であると考へ、或は神が人類の罪悪をにくんで、罰し給ふものであると考へた。中にも「ペスト」は太古から度々欧洲に流行して、一時に何十万、何百万の人をたふし、たゞ単にその惨状を目撃したゞけで、精神的激動を受けて死ぬものも、数知れぬ位であつた。それ故、欧洲の文学には、「ペスト」の惨状を描写したものが尠くなく、「ペスト」は他の如何なる流行病よりも、欧洲文学と関係が深いのである。
 既にかのホーマー(※1)の詩「イリアツド」の始めにも、トロヤ(※2)の戦の第十年目に、アポロ(※3)が彼に仕ふる僧侶クリシーズ(※4)の娘の、アガメノン(※5)のために奪ひ去られたことを怒つて、「ペスト」を流行せしめたことが記載されてあるが、ギリシア(※6)の有名な史家ツキヂデス(※7)は、紀元前四百三十年の流行の際、自分も、「ペスト」に罹つて、当時の惨状と「ペスト」の病状を精細に描写し、「ペスト」文献の最も古い且つ最も名高いものとなつて居る。
 「ペスト」に関する文学の中最も名高いものは、一三四八年のフイレンツエ(※8)の流行の模様を述べたボツカチオ(※9)の十日物語である。左に「十日物語」中の一節を挙げて見よう。
 「下層階級、中流階級の人々の間に於て、その光景は一層惨憺たるものであつた。彼等の多くは或は貧乏のために、或は、救助さるゝといふ危ふい頼みを以て、その家に留まつた。そして日々その内の何千人宛が、病に冒され、誰も看護するものがないので、殆んど皆死んで行くのであつた。あるものは街の上でその最後の息を引き取つた。あるものは家の中で瞑目し、腐敗の臭気のために始めて隣人に発見された。いやもう、街の上も家の中も、悉く死体を以て埋められた。これでは致し方ないとて生存者のため、また死者のために、ある方法が案出せられた。即ち隣人共は、死体運搬人の手を借りて、家毎の死体をその戸口に列べることにした。かうして毎朝、戸口に運び出された死体は、夥しい数に上つた。そしてその戸口からは、或は棺台の上に、或は卓子の上にのせられ、二三個宛、束にして運び去らるゝのであつた。時には夫婦、時には兄弟、時には父子が一しよに運ばれることもあつた。あるときは二人三人の僧侶が、死体に十字架を置き廻つて居るとき、その死体の運搬人が、ぱたゝゝ(※10)と死者の仲間入りをすることもあつた。ある時は一人の墓の中へ、縁のない死体同士が、七つも八つも一しよに埋められることがあつた。そして、死体を埋葬するとき、誰一人、供に立つものがなく、また誰一人涙を流すものはなかつた。かかるとき人々は、人の生命を、たゞ獣の生命のやうに考へたからである。」
 千六百六十五年、英京ロンドン(※11)を驚かした「ペスト」は、かの「ロビンソン・クルーソー」の作者として有名なデ・フオー(※12)の「倫敦疫病日誌」とエーンズウオース(※13)の歴史小説「旧セント・ポールズ(※14)寺院」に遺憾なく描かれてある。デ・フオー(※15)の描写は、「デカメロン」よりも精細であり、エーンズウオース(※16)の描写はデ・フオー(※17)よりも一層詩趣に富んで居る。いづれにしても、これ等の作品は、過去において人類が伝染病とたゝかつた、苦々しい経験を記念する尊い金字塔と云ふべきものである。

 こゝで私は「ペスト」が過去の欧洲に、どれ程残虐にその魔の手を揮つたかを述べて見やう。
 「ペスト」の起原は、恐らく有史以前であらうといはれて居るのであるが、そのたしかな記録は前記の紀元前第五世紀に於けるアテ子(※18)の流行である。それから降つて紀元第二世紀、即ちマルクス・アウレリウス(※19)の治世と、その次の世紀にも流行があつた。然しそれ等の流行はあまり大きいものでなかつたが、第五世紀にはエヂプト(※20)に始まつてトルコ(※21)に及びそれから欧洲の各所に、約半世紀間流行を来した。
 そのときコンスタンチノープル(※22)では、約四箇月間、毎日五千乃至一万の人が死んだと言はれて居る。
 が、最も恐ろしかつたのは、ボツカチオ(※23)が描写した第十四世紀の中頃に起つた大流行である。これもやはり東洋から入つて来たもので、欧洲に入る前に、支那に大流行をしたといはれて居る。この大流行のときにたふれた死亡者の数はもとより精確な統計はなく、歴史家によつてそれゞゝ(※24)計算がちがふが、ヘツケル(※25)に依ると千三百四十七年から千三百五十一年に至る、約四箇年に、二千五百万(即ち当時のヨーロツパ(※26)の全人口の約四分の一)の人が死んだといはれて居る。
 前にも言つたやうに、当時の人々は、かやうな惨憺たる疫病の起る理由を、神が人間の罪を怒りたまふためであると考へるより外はなかつた。そこで人々は当然神様の怒りを鎮める手段を講じなければならぬと考へるに至つた。その人身御供にあがつたのが、猶太人であつた。猶太人を毛虫のやうに嫌つた基督教徒は、遂に神の怒つた理由を、猶太人が、基督教国に雑居して居るからだと解釈し、所謂「猶太人虐殺」が行はれたのである。一三四八年九月瑞西に始まつたのを導火線として、ストラスブルヒ(※27)では約二千人の猶太人が焚殺され、マインツ(※28)では約一万二千の猶太人が虐殺された。何といふ血腥い歴史であらう。
 かくの如き多数の人口を失つたのも、また、かくの如き残酷な行動を敢てせしめたのも、要するに科学の発達しなかつたゝめであると思ふと、我等は切に自然科学の恩恵に感謝しなければならない。
 その後第十五世紀、第十六世紀に到り、欧洲各地に小流行があつたけれども、前記のもの程著しくはなく、第十七世紀の半頃、ロンドン(※29)に一大流行を来して、欧洲に於ける「ペスト」大流行の最後の幕を閉ぢたのである。

 多くの人々が、疫病の原因を「神の怒」であると考へつゝある間に、所謂自然哲学者のあるものは、そこに何かの具体的の原因、即ち人の力で探り得べき何物かゞなくてはならないと考へて居た。前記ロンドン(※30)の「ペスト」大流行の際、時の名医シデナム(※31)は、「ペスト」は空気の性質の変化したゝめに起るものであると観破し、「ペスト」はその毒性ある空気が、血液に混つて起るのであるから、その毒血を出しさへすれば、病気は自然に治るものであると考へ、「ペスト」治療法として、瀉血法を応用し、相当の好成績を収め得た。
 丁度その頃顕微鏡が発見され、肉眼で何も見えない所にも色々のものがあるとわかり、扠は病気、ことに伝染病は、何か肉眼で見えないものが、人体を侵すためではないかと考へたのが、ドイツ(※32)キルヘル(※33)である。彼は実に、顕微鏡を用ひて、「ペスト」患者の血液を検査し、沢山の「虫」の居ることを発見した。彼はこの「虫」は肉眼では見えず、顕微鏡によつてのみ見得るもので、これが多分「ペスト」の原因であらうと考へたのである。
 もとより、彼の見た「虫」を今日の「ペスト」菌とは異なつたものであるが、病気が、他の生物の寄生によつて起るといふことを見つけたのは彼の大きい功績といはねばならない。そして遂に二百年の後、同国人コツホ(※34)によつて、各種の所謂病原細菌が発見せられ、伝染病なるものは微生物が人体に寄生するために生ずるものであるといふ、一大原理が建てられたのである。その原理に基いて、一八九四年香港に「ペスト」大流行のあつた際、パストール(※35)研究所から派遣されたエルザン(※36)の手によつて、「ペスト」の病原たる「ペスト」菌は発見せられたのである。
 一たび病原菌が発見さるれば、あとの研究は比較的訳なく進捗する。「ペスト」菌が発見せられてから今日に至る約三十年に「ペスト」に就て人類の知り得た所のものは甚だ多い。即ち「ペスト」菌は皮膚又は粘膜から人体に侵入し、主として淋巴腺を侵す腺「ペスト」、主として肺臓を侵す肺「ペスト」、主として皮膚を侵す皮膚「ペスト」、「ペスト」菌による敗血病等があることがわかり、また鼠が「ペスト」に罹り易く、之に寄生する蚤が、「ペスト」菌を媒介することなどがわかり、治療法としてはエルザン(※37)氏「ペスト」血清が製出せられ(但し卓効をあらはさない)、予防法としては「ペスト」菌「ワクチン」(ハフキン(※38)氏予防液その他多種)の皮下注射法が考案せられ、良好の成績を挙げ得るに至つた。一方に於て、鼠を退治したり、又は船舶の検査を厳重にして、間接に予防の実を挙げることが出来、最早、前記のやうな猖獗な流行は、文明国にはなくなつた。
 「ペスト」菌の原産地ともいふべき地方として挙げられて居る所は、現今世界に四ヶ所ある。第一はヒマラヤ(※39)山脈の東腹で、例の香港の大流行はこゝに源を発した。第二はヒマラヤ(※40)山脈の西腹で、千八百九十四年ボムベイ(※41)に入つてからいまに至る迄ぼつゝゝ(※42)発生して居る。第三はアラビア(※43)からメソポタミア(※44)にかけた地方で、黒海の沿岸、ペルシヤ(※45)地方に流行を及ぼして居る。第四はアフリカ(※46)の内部ウガンダ(※47)地方で、コツホ(※48)に依て発見されたものである。この外にカリフォルニア(※49)を第五の原産地に数へる人もある。
 これ等の原産地から今後、何かの機会によつて「ペスト」菌が持ち来され、大流行を来すことがあるかもしれぬが、我等は少しも驚き怖れる必要はなく、個人としては消毒を厳にし(千倍の昇汞水、四十倍の石炭酸水、十倍の「フオルマリン」で「ペスト」菌は死ぬ)、又亜硫酸瓦斯で家屋を消毒し(「ペスト」菌ばかりでなく鼠、蚤をも殺す)、国家としては船舶検疫その他の処置を取れば枕を高くして眠ることが出来るのである。

(※1)原文傍線。
(※2)原文二重傍線。
(※3)(※4)(※5)原文傍線。
(※6)原文二重傍線。
(※7)(※8)(※9)原文傍線。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文二重傍線。
(※12)(※13)(※14)(※15)(※16)(※17)原文傍線。
(※18)原文二重傍線。
(※19)原文傍線。
(※20)(※21)(※22)原文二重傍線。
(※23)原文傍線。
(※24)原文の踊り字は「ぐ」。
(※25)原文傍線。
(※26)(※27)(※28)(※29)(※30)原文二重傍線。
(※31)原文傍線。
(※32)原文二重傍線。
(※33)(※34)(※35)(※36)(※37)(※38)原文傍線。
(※39)(※40)(※41)原文二重傍線。
(※42)原文の踊り字は「く」。
(※43)(※44)(※45)(※46)(※47)原文二重傍線。
(※48)原文傍線。
(※49)原文二重傍線。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年10月27日 最終更新:2017年10月27日)