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ギリシヤ(※1)古代の寺院参籠

 ギリシア(※2)神話の中の、医神アポロ(※3)と女神コローニス(※4)との間に出来たエスクラピウス(※5)は、医術に秀でた神として人々の最も尊崇する所であつた。さればエスクラピウス(※6)を祀つた寺院は古くからギリシヤ(※7)の至る所に建設せられ、今から二千五百年の昔、即ちヒツポクラテス(※8)の在世当時は、それ等の寺院の全盛時代であつて、其処の僧侶は、何れも医術を行つて人人の治療に従事し、所謂「僧侶医者」Asclepiadae の名を以て呼ばれて居た。これ等の寺院は何れも温泉に近き、小高き丘の森の中、又は高山の半腹など、疾病治療上理想的の土地に建てられてあつた。そして、是等の寺院を訪ふ患者は、先づ僧侶から、エスクラピウス(※9)の如何に医術に秀でゝ居たかを説明され、後、祈祷を行つて温泉に浴し、「マツサージ」や油の塗擦などを施され、最後に、神前に鶏又は羊を供へて所謂「参籠」Incubation をするのである。参籠とは即ち聖殿の中に眠ることであつて、夜中、僧侶が来て治療法を告げるのであるが、これは覚めて居る患者に対してのことであつて、通常多くのものはよく眠り、夢の御告げを受け、その夢を判断して、僧侶は、瀉血なり投薬なりをするのであつた。若し患者が幸にして治癒したときは、御礼として蝋製、銀製、又は金製の患部の「モデル」と、病歴及び治療法とを記した額とを奉納するのである。
 この参籠の模様を知ることはギリシヤ(※10)古代の医術を了解するに極めて肝要なことであつて、当時の喜劇作家アリストフア子ス(※11)はその作「プルーツス」の中にこの参籠の有様を巧みに描写して居るから、左にその一部分を訳出して読者の参考に供しやうと思ふ。この劇はプルーツス(※12)即ち富貴神を題名としたもので、プルーツス(※13)は当時の伝説によると盲目であつたがために、善人と悪人との見わけがつかず、従つて悪人が富み、善人が貧乏するといふやうな不公平を生ずるのだと考へられて居た。そこでこの貧富の不公平を歎いたアテ子(※14)の中流の一市民は、プルーツス(※15)の眼さへ治したならば、かゝる不公平は無くなるだらうとの考のもとに、召使つて居る奴隷のカリオ(※16)と共に、この富貴神を連れ出して、エスクラピウス(※17)の聖殿に参籠したのである。左に訳出するのは、参籠の後、奴隷カリオ(※18)が帰宅して、夫人にその模様を物語る場面である。
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 カリオ(※19)。それから聖殿へ参りまして神壇へお菓子と焼肉とを供へ、燈明をあげました。そして富の神様を規則通りに寝かせ、私共はめいゝゝ(※20)に、藁蒲団の上に乗りました。
 夫人。外にも参籠の方が来て居たかい?。
 カリオ(※21)。沢山居りましたよ。あの泥棒のツオクリデス(※22)も来て居ました。半盲目ですからね。尤も奴さん泥棒するときは、誰よりもよく見えるといふことですが。それから、ありとあらゆる病気を持つた連中が一ぱい居りました。間もなく役僧が来て、あかりを消して、皆さんおやすみなさいと申しました。するとそれからはどんな音がしても、誰も身動きもせず、声をも立てません。そしてぢつと寝転んで居りました。ところが、私はどうしても眠られないのです。本当にまんぢりとも出来なかつたのです。といふのは私の近くに居たお婆さんの枕元にうまさうな吸物が供へてあつて、それがぷんゝゝ(※23)香つて来たからです。そこで、しまひには我慢が出来ず、そつとその傍へ匍ひ寄つたのです。その時ふと仰向くとどうでせう、坊さんが、神壇の上の菓子や果物を片つ端からさらへ廻つて袋見たやうなものの中へどしゝゝ(※24)詰め込んで居るぢやありませぬか。其処で私も、こりや何も遠慮するには及ばんと思つて立上つてその吸物に手をかけました。
 夫人。仕様のない人だね。神様が怖くなかつたのかい。
 カリオ(※25)。そりや怖かつたですとも。今にその吸物の鉢を神様に取られはせぬかと気が気でなかつたのです。実は、坊さんが始めにさういつておどかしたのですもの。ところが、私の足音がすると、神様ではなく、そのお婆さんがだしぬけに太い腕をのばしてよこしたのです。私はシツといつて、お使ひ者の蛇の真似をして、やさしくその腕をなめてやりました。すると、お婆さんは、忽ち手を引きこめ、夜着をしつかりと緊めて、びつくりした猫のやうにその中でふるへて居る様子でした。そこで私は飲めるだけ、たらふく飲んでやりました。
 夫人。神様はお出ましがなかつたかい?。
 カリオ(※26)。お出ましになつたのはそれからずつと後です。
   (中略)
 愈御出ましだなと思ひまして、私は着物を頭からすつぽりかぶりました。すると神さま(坊さんのこと)は静かに御歩きになつて、病人を順ぐれに診察なさいました。おそばには一人の召使が、石造りの臼と杵と薬箱とを捧げて居りました。
 夫人。なに、石造りの薬箱だつて?。
 カリオ(※27)。御冗談を。薬箱は石造りぢやありません。
 夫人。黙つて聞いて居ればいゝ気になつて居るが、頭からすつぽり着物をかぶつて、それで、どうしてそんなことがわかつたのかい?。
 カリオ(※28)。着物は穴だらけですもの、その穴からのぞいたゞけです。
   (中略)
 それから、とうゝゝ(※29)神さまは、富の神さまのそばへ座つて、先づその頭に手をやられまして、真白なナプキンで両方の瞼を乾くまで拭ひになりました。すると、こんどは召使ひが真赤な布で顔と頭とを包みました。その時神様が何か合図をなさると、むかうの御厨子の中から太い太い二匹の蛇がニユツとあらはれて来ました。
 夫人。まあ。
 カリオ(※30)。それから二匹の蛇はその真紅な布の下へ匍ひこんで、富の神さまの瞼をなめ廻したらしいのです。と、どうですか、奥さま。あなたがお酒を十杯召し上るか召上らぬ位の時間に富の神様はむつくと御立ちになりました。見ると、両眼がぱつちりあいて居りましたよ。
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 読者はアリストフア子ス(※31)一流の構想と台詞とに笑はされながら、その間に、参籠の模様をありゝゝ(※32)と見られるであらう。

(※1)(※2)原文二重傍線。
(※3)(※4)(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文二重傍線。
(※8)(※9)原文傍線。
(※10)原文二重傍線。
(※11)(※12)(※13)原文傍線。
(※14)原文二重傍線。
(※15)(※16)(※17)(※18)(※19)原文傍線。
(※20)原文の踊り字は「く」。
(※21)(※22)原文傍線。
(※23)(※24)原文の踊り字は「く」。
(※25)(※26)(※27)(※28)原文傍線。
(※29)原文の踊り字は「く」。
(※30)(※31)原文傍線。
(※32)原文の踊り字は「く」。

底本:『西洋医談』(克誠堂書店・大正12年6月15日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 初出不明」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年9月29日 最終更新:2017年9月29日)