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無実の罪に苦しんだ東西の女性

 自ら犯さぬ罪のために、私刑、公刑を受けた例(ためし)は、昔から今までどれほど数多くあつたかしれない。さういふことのないやうに、今日では、よほど慎重に裁判を行ふことになつて居るけれども、なほ且冤罪のために公刑を受くるものは少くないのである。況んや公の裁判にまで持ち出されない冤罪はどれほど沢山あるかわからぬ位である。
 女性の苦しむ冤罪の最も普通なのは、いふまでもなく、男子の邪推または嫉妬による、所謂「濡れ衣を着せられる」場合であつて、昔から、文学的作物の中(うち)に屡ば取扱はれて居る所である。

アポローと鴉

 既にギリシア神話の中(うち)にアポローが鴉の虚言を信じてその妻コローニスを殺す話がある。山村に住んだアポローは、用事が出来てパーナツサスの宮殿へ行つたが、妻子の消息を知るために、年来飼つて居た鴉を使者として毎日告げしめた。鴉はその頃色が真白で、よく人間の言葉を話すことが出来たのである。鴉は毎日コローニスの所からアポーロ(※1)の所へ飛んで行つて、その肩の上にとまつて、『コローニスは無事です』と告げた。ところが、ある日、鴉は息をはずませながらとんで来て、『コーコーコー』といふのみであつた。アポローが驚いて、『どうしたのか?』ときくと鴉は『コローニスの所へ男が………』といひかけた。これをきいたアポローはカツ(※2)と怒つて、銀の弓箭(ゆみや)を取るなり、我が家をさして走りかへると、家の手前の森の中に白い衣服を纏つた人の姿が見えたので、さてはと思つて、箭を放つと、手答へあつて白衣の人はたふれた。近づいて見ると豈はからんや、それは最愛のコローニスで、彼女はアポローを迎ひに森まで出て来たのだと察せられた。アポローが今更ながら悲歎の涙にくれて居ると、件の鴉がとんで来て、『コーコーコー』と言つた。怒つたアポローは、『これも皆貴様のためだ、今日から貴様は罰として、「コーコーコー」としか言へぬやうにしてやる。また羽も真黒にしてやる』と言つた。――これが今日の鴉の起原であるといふ。

バグダツドの商人

「一千一夜物語」の中(うち)にもこれに似た話がある。バグダツドに、十一年連添つて三人の男児を儲けた商人夫婦があつた。あるとき妻が病気になつて、頻りに林檎を食べたがつたが、生憎バグダツドには、どの市場にも一つもなかつたので、商人は往復二週間もかゝるバルソラまで行つて三つの林檎を買つて戻つて来た。ところが、もうその頃には病人は林檎を食ひたくなかつたので、枕元に並べておいて、それを見ては楽しんで居た。
 数日の後、商人が市へ出て商売をして居ると、一人の黒人奴隷が林檎を持つて彼の店へ入つて来た。商人はバクダツド(※3)に林檎のないことを知つて居るので、ハツと思つて、黒人に訊ねると、黒人は、これは自分の女が呉れたのだ、彼女は今病気で寝て居るが、愚かな良人はこの林檎を二週間もかゝつて買つて来たのだと語つた。商人が驚いて帰宅すると、妻の枕元には二つの林檎しかなかつた。もう一つの林檎をどうしたかと訊ねると、患者は知らぬと答へた。かつ(※4)と怒つた商人は刀を抜いて妻を刺殺(さしころ)し、屍体を箱へ詰めてチグリス河に投げに行つた。
 家(うち)に帰ると末の子が門口で泣いて居たので、どうしたのかと商人が尋ねると、今日、母の枕元の林檎を一つ内証で持ち出して街で遊んで居ると、黒人が来てそれを奪つて行つたので、追ひかけて行つてその林檎のわけを話したけれど帰し(※5)てくれなかつたから悲しいと答へた。――商人の後悔はいはずもがなである。

オセロー

 かうした事情を取扱つた文学の中(うち)、最も名高いものはシエクスピーアの「オセロー」であらう。イヤゴーと称する腹の悪い男の讒言によつて、妻のデスモーナが他の男と姦通して居ると邪推して之を殺し、後真相がわかつて後悔のためにオセローは自殺する。
 冤罪のために裁判を受け、時に重刑を課せられた女性も東西の裁判史上にその例(ためし)は少くない。
 支那の漢代に趙といふ人の妻が、若くして良人を失ひ、子がなかつたけれども、姑の寂しさを思つて、麻をうみ、機(はた)を織つて、孝養を尽した。姑は嫁を不憫に思つて、自分さへ居なければ嫁は福幸(こうふく)(※6)になれるのだと考へ、あるとき、嫁の留守中に縊死した。その姑に一人の娘があつたが、娘は嫁が母親を殺したのだらうと思つて、鎮台に訴へ出たところ、鎮台は碌に詮議もしないで嫁を死刑に処した。すると、その地方はそれから三年間、雨が一滴も降らずに大飢饉となり、鎮台は交代したが、新任の鎮台は、ある博士に占はせると、罪なくして殺された嫁の祟であると言つたので、嫁のために塚を立てゝ祀り、讒訴した娘を罪に行ひ、前の鎮台の官を剥いだら、天も納得したものか、豪雨があつて、万物が甦つた。

津の国屋お菊

 この話が種になつて居るかどうかは知らぬが、俗に「大岡政談」と称する中(うち)に「津の国屋お菊の件」といふのがある。
 江戸神田に津の国屋松右衛門といふ小間物商があつたが、病気のため父子相次で死に、あとに残つた姑と嫁のお菊とが、貧困な生活を送つた。ところが姑も程なく大病にかゝつたので、お菊は随分苦労をして姑につかへ、附近のほめ(※7)者となつた。姑の一人娘はお粂と言つて、浅草田原町の花房屋彌吉の家へ縁附いて居たが、どうした訳か二年越しの母の病気を碌に見舞にも来なかつた。ある年の暮に、どうにも遣繰がつかぬのでお菊がお粂の家(うち)へ金を借りに行くと、お粂は無情にもそれを断つた。お菊が悲しい思をして帰つて来ると、姑が留守中に縊死して居たので、大(おほい)に驚いてお粂の所へ報らせると、お粂夫婦はお菊が姑を殺したものと思つて訴へ出た。
 幸に裁判官が大岡越前守であつたので、お菊は却つてほめられ、お粂夫婦はお目玉を頂戴した。

ラフアルジ夫人事件

 欧洲の裁判史上に名高い女性の冤罪事件は不思議にも毒殺に関係したものが多い。フランスのラフアルジ夫人事件、英国のメーブリツク夫人事件、バートレツト夫人事件などがそれで、この三人の夫人はいづれもその良人を毒殺したものとして逮捕され裁判されたのである。このうちバートレツト夫人だけは無罪の宣告を受けたが、他の二夫人は有罪の宣告を受けて獄に投ぜられた。
 ラフアルジ夫人の結婚生活は、はじめからあまり幸福なものではなかつた。彼女は、良人ラフアルジが金持ちだと聞いて結婚したのであるが、その実ラフアルジは却つて彼女の持参金を宛にしたくらゐであつた。一家はグランヂエと称する田舎に住(すま)つたが、一八三九年、ラフアルジはパリーへ職を求めに出かけた。留守中、夫人は自分の肖像画が出来たので、それを姑の作つた菓子と共に良人に送つた。姑の作つた菓子は五つ六つあつたが、パリーへ届いた菓子は大きなのが一つきりであつた。ところが、それを食つた良人は急に病気になつて故郷に帰つたが、段々重つて九日の後に死んでしまつた。姑やラフアルジの友だちは夫人が怪しいと睨んだので、遂に夫人は逮捕され裁判され、屍体解剖の結果、砒素中毒とわかり、毒殺者として終身懲役に処せられたのである。が、その実、ラフアルジの雇つて居た助手のバルビエの仕業であるらしかつた。といふのは、バルビエは菓子の小包が発送されると共にパリーへ行き、ラフアルジについて帰つて来てから、ずつと看護し、又平素夫人を非常ににくんで居たからである。彼女は十二年の後赦免されたが、その後二三ヶ月して死んだ。
 メーブリツク夫人もやはり、良人を砒素剤で毒殺した廉(かど)によつて一八八九年、裁判され、その結果、死刑に処せられたが、世間の人々が承知しなかつたゝめに一等を減ぜられて終身懲役に処せられた。良人が死ぬ前に摂つた肉汁の中に砒素剤が混つて居たことが唯一の証拠となつたのであるが、その実、良人には平素亜砒酸を嚥む習慣があつて、その肉汁の中へ亜砒酸を入れさせたのは実は良人自身であつた。そして、彼女はそれが亜砒酸であるとは知らなかつたのである。

 なほバートレツト夫人事件に就ても述べなければならぬが、与へられた紙面が尽きたから略(はぶ)くことにした。

(※1)原文ママ。
(※2)原文圏点。
(※3)原文ママ。
(※4)原文圏点。
(※5)(※6)原文ママ。
(※7)原文圏点。

底本:『愛の泉』 大正13年11月1日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1924(大正13)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2022年9月9日 最終更新:2022年9月9日)