ランドルーの偉業は、カイエンヌの配所に深刻な印象を与へた。それもその筈、隣人の生命を奪つて間一髪で死をのがれることもあれば、また、ありたけの智慧を搾つて発覚を防いでも、苦もなく警察に捕へられ、巧みに判事に訊問され、執念深く陪審員に有罪の宣告を受け、次で最重の刑罰をのがれるために、先から先へと名案を工夫し、たとひ拘禁されて居ても、せめて、致命的の証拠を払つて生命だけは助かるべき疑念を起さしめるといつたやうなこともあり、――仏領ギアナのこの配所では、三千の考へ深い囚人が、何れも、他人の業績の真価を認める力を持つて居るからである。全く彼等はその道の達人といつてよいが、然し、彼等の経験上、独創性といふものはめつたにないもので、古い方法を完成することすら、難中の至難事であることをよく知つて居るのである。
「だがな。」と海千山千のシクーニョが反対した。彼は細君を毒殺して終身懲役に処せられた男である。「若し、ランドルーが、十一人目の情婦(いろ)でやめて置いたら、決して発覚はしなかつたゞらうよ。そこがそれ、天才は際限を知らぬといふもの(、)(※1)ランドルーの物語はナポレオンのそれと同じだ。」
「そりやさうさ、」ともう一人の終身囚マルトラが言つた。「けれど、彼がやりたいだけやつて、此処へ来たとして見ろ、ここでは大に歓迎されるだらうよ。あゝいふ男は、仲間の名誉だからな。」
ところが、十二回の殺人を行つたコルシカ人のピエトロ・アタナシは、かねて、他人の考に盾つくことを誇(ほこり)として居たが、この時、突然叫んだ。
「こゝには、ランドルーよりえらい人間が居るよ。みんな気がつかぬだらうが、さりとは義理を欠いた仕打だ。」
「義理なんて認めないよ。」と、海千山千のシクーニョが言つた。「又、俺たちは認めないだけの権利をもつて居る。たゞ俺達は、堂々たるやり方を尊敬する。頴才に向つては、決して敬礼を厭はぬ。だが、見渡したところ、讃嘆に値する奴は一人も居ないよ。」
「カルドヴアツクのことだよ。」と、アタナシは凛とした声で言つた。
ふゝんと嘲笑ふ声が起つた。カルドヴアツクなら誰でも知つて居る。でつぷり太つて平凡な顔附で、お世話焼きの、さぐり好きと来て居て、いつも牧師の彌撒(みさ)の手伝ひをし、そのお礼に病院の宿直にしてもらつたといふ男なのである。刑務所では、他人に阿諛する人間は評判が悪い。
「カルドヴアツクは死刑から減刑されたんだよ」とピエトロ・アタナシは答へた。「どういふトリツクをつかつて彼が減刑されたかをきいて見るがいゝ、きつと頭を下げずに居られないから。それどころかむしろ羨ましくなるよ。こゝに居る連中の脳味噌をみんな寄せ集めたつて、とてもあのトリツクは考へつくものでない。」
この人を喰つた暴言は、シクーニョを怒らせずに置かなかつた。彼はせゝら笑つた。然し、この「紳士」にあまり同情を表しなかつたほかの連中は、カルドヴアツクをよんでそれをたづねて見ようではないかと言ひ出した。
アタナシがさがしに行くと、程なくカルドヴアツクは、てれ気味の顔をしてやつて来た。このめづらしい会合の席では、てれるのが当りまへである。然し、例の話をしてくれといはれると、彼は二度とたづねられぬ先に言つた。
「俺は、あのランドルーのやうに、子供のときは、教会の歌童だつたんだ……」
「は! は!」と、シクーニョが呟いた。
彼は一方に於て牧師を嫌つたが、同時に、又牧師なるものは聴聞者の心に、奥深いすばらしい考を与へるものだと考へて居た。
「お前たちが思つて居る程のことぢやないよ。」と、カルドヴアツクはやさしく語つた。「別に悧巧なことをした訳でない。俺はある女をアイロンでぶち殺し、責任も、罪状も、計画してやつた事実も包まずに話したよ。新聞記者は粗暴残忍な犯罪者だと折紙をつけやがつた。で、陪審院の意見が一致して有罪の宣告を受け、減刑の請願は見ごとにはねられたんだ。」
「だが、減刑されたといふぢやないか……」と、シクーニョは口を出した。
「待て!」とアタナシは言つた。「黙つて聞け、今に肝腎なところへ来るから。」
「宣告を受けたのは丁度三月だつた。」とカルドヴアツクは続けた。「ところがその年の復活祭は四月にはひつてからだつたので、「世界画報(ラ・マガヂン・ピクトレスク)」や「海底二万里(ワ゛ン・ミーユ・リエー・スー・レ・メール)」を読んだり、看守とカードを遊んだりする度毎に、願はくば神様、聖週がはじまつたら早速死刑執行のあるやうにと内心大に祈つたよ。」
「それが一たい何の関係があるんだい。聖週まで待つことはたまらなく退屈だし、聖週がはじまりやいつだつていゝぢやないか。」とシクーニョは言つた。
アタナシは笑つた。
「その理窟は孔雀の理窟だ。」
シクーニョはじろりと横目でながめた。が、カルドヴアツクは手を上げて制しながら続けた。
「すると、全く俺は運がよかつたんだ。復活祭前の火曜日と水曜日には何事も起らなくつて、平和のうちに眠ることが出来た。と、聖木曜日のあけ方に、毎日の通り監房の扉があいて、検事と、警視総監と、浅右衛門と、その助手と、俺の弁護士と、牧師とがはひつて来た。牧師の顔を見ると、たしかに困つた様子で、手足がぶるゝゝ(※2)顫へて居たよ。
その時俺は心の中で、よし、今に見るがいゝ、もつと顫ひ出すんだからと言つたよ。」
「何故?」とシクーニョが遮つた。
「まあお聞き、そこで件のごとく、検事は言つたよ。しつかりしてくれ、お前の請願は斥けられた。俺は言つた。しつかりして居ます。それからタバコを吸つて牧師に言つたよ。師父、懺悔致します。無論牧師はうなづいたよ。それはあたり前だ。だが足は顫へて居た。俺はすかさず、どうか彌撒(みさ)をきかせて下さいと言ひ足した。
案のごとく、牧師は蒼ざめ、唇をなめて、大鬘連(おほかつられん)に言つた。これだから、言はんことぢやありません。あゝ神様! すると連中の返事が、変だ、たしかに変だ、何とか別の……が、牧師は頭をきつくふつた。俺はその時腹の中では大笑ひしながら、信心家のやうに両手を合せて拝んだよ。
だから、御注意申し上げたのです、と牧師は言つた。たとひこの人が彌撒(みさ)をきかせてくれといつても、それは出来ないことです。聖木曜日には教会の規則によつて、各監区で所定の彌撒(みさ)をたゞ一回しか出来ないことになつて居ます。ですから、こゝではもう出来ません。出来ません。
すると検事はひどく機嫌を損じて言つたよ。出来なければ聞かせないだけだ。
牧師は言つた。私に彌撒(みさ)を行ふ権利はありませんが、同様にあなたにも、この不幸な人を、その望むところの彌撒をきかせずに来世へ送る権利はありますまい。これは実に遵奉すべき神聖な儀式です。あなたは肉体を奪つても魂を罰することは出来ますまい。従つてその御言葉には断然服し兼ねます。
それぢや、と検事は言つた。明日の金曜日にやりませう。死の通知後二十四時間を経てからでは習慣に反するけれども致し方がない。
金曜日には尚更行ひ兼ねます、と牧師はとうゝゝ(※3)涙を出したよ。それに又聖土曜日も木曜日金曜日と同然です。
それぢや日曜日にしますかと、総監がおづゝゝ(※4)口を出した。彼はもう、はや、それでは遅過ぎると思つたからだ。
閣下、と浅右衛門は総監に言つた。日曜日は休日(やすみ)です。休日には死刑はやりません。
馬鹿な、と検事は唸つたよ。復活祭月曜日も法律上休日だ。チエツ。
検事は牧師を脅さうとして舌打ちをしたんだが、もはやそれには及ばなかつたよ。
検事は俺の方を向いて言つた。おいカルドヴアツク、お主本当に彌撒がきゝたいのか。そりや無理もない話で、感心の至りではあるが、本当に聞かなきやならぬのか。
「はい、恐れ入ります(」)(※5)と、俺は答へた。
「ふむ中々気がきいて居るな(」)(※6)と、彼はいらゝゝ(※7)して、又舌打ちしたよ。お主のやうな悪党でも、生前通りの心で死ねぬのか。わしはお主の一件書類を読んで知つて居るが、お主は無信仰を公表して居たでないか、それが、死に際にぐらつくとは何といふことだ。今時お互に何物にも頼れず、信念にさへ頼れぬとなれば、もはや正義は世に行はれないよ。おい、カルドヴアツク、一つ勇気を出さぬか。お主が忠実な無信仰者として死んだとならば、たしかに新聞種になるよ。
俺は答へた。旦那のお言葉に従ひたいのは山々ですけれど、お袋の心を思ひますと。
よし、それぢや仕方がない、死刑は火曜日に行ふんだ、と検事は面ふくらせて言つたよ。
今まで黙つてきいて居た俺の弁護士はこの時はじめて口を開(あ)いたよ。いや、私は大統領に再び請願します。たとひ虎のやうな心の人間でも、死の通知を五日前に与へ、恐ろしい心の拷問にかけて黙つて見て居ることは出来ますまい。況んや至仁至慈なる国主おやです。今日はこれで失礼しますが、火曜日には決してこゝでは御目にかゝりませんよ。
まつたく検事(※8)の言つたとほりで、俺は首尾よく減刑されたよ。」
「実に傑作中の傑作だ。」とマルトラは叫んだ。さうしてシクーニョも、内心羨望に堪へかねながら、その言葉を認めざるを得なかつた。(をはり)
(※1)原文句読点なし。
(※2)(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)(※6)原文閉じ括弧なし。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文ママ。「弁護士」の誤りか。
底本:『探偵趣味』昭和2年8月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細:翻訳編(昭和2年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(公開:2006年11月17日 最終更新:2006年11月17日)