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屍を

江戸川亂歩 小酒井不木

 ガラス窓をあけてしのびこむなり、彼はほツと一息ついた。戸外には冬雨がしとゝゝ(※1)降つて居た。若しあかりがついて居たならば、彼の顔も衣服も、びつしより濡れて居る筈である。けれども中はまつ闇(くら)であつた。さうして夜の静かさがあつた。それはまつたく文字通りの静かさであつた。といふのは、そこは法医学教室に属する死体解剖室であつて、現にその地下室には一個の死体が置かれてあるからである。
 彼は暫らく突立つたまゝ耳を澄した。だんゝゝ(※2)降り募る雨の、樋を走る音ばかりが物うく響いて来た。もとよりそこには誰も居る筈がなかつたけれど、彼は用意して来た懐中電灯をともす気になれなかつた。又、その必要もなかつた。何となれば、彼は彼の今はひつた部屋が、死体解剖室であることを知つて居たからである。
 彼は腐肉と消毒薬のにほひの漂つて居るその部屋を、手さぐりで横ぎつて、ドアの握りに手をかけた。それをあけると廊下になる。廊下の反対の側に、分光器室があつて、その下が死体を置く地下室である。地下室のドアは横側について居て、それをあけるとすぐ足許から階段がある……
 彼は闇を過(よぎ)つて、やがて地下室に通ずるドアの握りに手をかけた。と、さすがに胸の動悸が高まつた。これから成し遂げようとする一つの行為。それを思ふと、恐ろしさに全身が顫へはじめた。
 彼が今あけようとして居る地下室の底には若い女の死体が、木製の吊台の上に、白い布に覆はれて横(よこた)はつて居る筈である。それは彼のよく行くカフエーの、美貌なウエートレスの絞殺死体で、今日、法医学教室に運ばれて、明日(みやうにち)、主任教授の解剖を受けようとして居るのだ。彼は彼女と二三度言葉を交しただけであるが、彼女の肉体に特殊の魅力を感じて居た。その彼女が今、たとひ死体となつたとはいへ、たつた一人、人なきところにその肉体を横へて居るではないか。もはや彼女は、彼がどんなに大胆な振舞をしかけても抵抗しないであらう。彼の要求が断はられる恥かしさもなければ、怪しい行為を他人に発見される憂もない。
 かう考へると、いつの間にか全身の顫ひがとまつて、病的な好奇心が身体の末梢までも熱くした。で、彼は、ガチリと握りをまはして、ゆるやかにドアを開いた。
 一種のにほひがプンと彼を襲つた。それは穴蔵に共通なにほひだけではなかつた。彼は再び躊躇したが、すぐさま勇気を取り戻して冷たい鉄製の手摺につかまりながら、寝て居る猛獣に手を触れるときのやうな感じで一段々々、闇の中を下りて行くのであつた。
 彼はガチゝゝ(※3)と震へてゐた。それは怖は(※4)さといふよりは、ある真暗な愉悦の予感から来たものだつた。
 階段をおり切ると、行手に区切られた闇があつた。彼はぢつと立止つてゐた。闇の中に何かゞ見えて来る様であつた。向ふの隅に白布の覆ひが若い女の肉体の曲線のまゝにふくらんでゐるのが感じられた。
 彼は思切つて懐中電灯のボタンを圧(お)した。丸い光線が壁を這つて、白布の女体(ぢよたい)の上を震へながらさまよつて電灯の光線は、彼の心臓の鼓動をそのまゝ非常に拡大しておのゝくのであつた。
 光の輪が段々小さくなつて行つた。そして遂に彼は屍体の白布に手をかけた。だがそれをのけて死人と顔を見合すまでには、流石に数十秒の躊躇があつた。
 女の顔は、生前の美しさのまゝ青ざめて、それが苦悶にひんまがつてゐた。彼女が死の刹那、虚空を掴んでもがき苦しんだ光景が、魅力を以て彼の目に浮んだ。
 なまめいた女の首にはむごたらしく紫色の輪がついてゐた。それから、肩、乳、腹、と白布がとりのけられるに従つて、全身が現れて行つた。懐中電灯の光が、生々しい女の皮膚を、生毛の数へられる程も、まざゝゝ(※5)と照らし出した。
 彼はまつ青になつて歯を食ひしばつてゐた。暗闇の悪(※6)の恐ろしさと、ある云ひ知れぬ歓喜とが、不思議な交錯を為して、痛いまで彼の神経を刺戟した。
 やがて彼は、かたへの床に、つけたまゝの懐中電灯を置くと、そこに中腰になつて、だらりと伸びた女の二の腕を掴んだ。よく肥えしまつた二十歳(はたち)女の腕のふくらみは、見た所生きてはゐたが、触れた指には、蝋細工の様に冷たかつた。冷たいまゝにブヨゝゝ(※7)と柔軟な肉塊が、彼に不思議な快味を伝へた。
 彼はその腕を握つたまゝ、ぢつと屍体の顔を見つめた。苦悶にしかめた眉、糸の様につむつた目、だらしなく開いた唇、彼の血走つた目は、死人の奇怪な表情を、いつまでもいつまでも見入つてゐた。
 
 * * * *
 
 彼は無事に元の窓から忍び出ることが出来た。外は来た時と同じ様に小雨がそぼ降つてゐた。闇の中の悪行に疲れ果てた彼は、人なき深夜の町をフラゝゝ(※8)歩いて行つた。
 宿望をやつとの思ひで果した満足に、彼は殆ど我を忘れてゐた。雨にぬれることなぞ、まるで意識もしなかつた。
 彼は家にたどりつくと、裏に廻つてそこの切戸をそつと開き、家人の目を覚まさぬ様に注意しながら、雨戸のない肘掛窓をのり越して、彼の書斉に忍び入つた。
「やつとの思ひで、たうとう物にしたぞ。」
 彼はぬれそぼつたふところから、さも大切相に何か手拭にくるんだものを取り出して、丁寧にそこのテーブルの上に拡げた。そして、テーブルの抽出から一枚の大型の吸取紙を取出すと、その品物を吸取紙の(うへ)(※9)に移し、鉛筆を取つてその紙の端にこんなことを書きつけた。
「カフエ女給――子の屍体の右腕よりはぎ取る。刺青師、木挽町の梅吉。最も苦心せる採集。」
 それは刺青蒐集狂である彼が、長い間目星をつけてゐた、有名な刺青女給の右腕を巻いてゐた見事な蛇のほりものであつた。

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文ママ。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
(※7)(※8)原文の踊り字は「く」。
(※9)原文ママ。「上」の誤植。

底本:『探偵趣味』昭和3年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2017年3月11日 最終更新:2017年3月11日)