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「ラムール」

江戸川亂歩 小酒井不木

 負傷者が意識を恢復したといふ看護婦の知らせを受けた時、私は多分青ざめたに相違ない。一瞬間心臓が変な動き方をした。私は立上つたことは立上つたけれど、私自身の心の持方を定めかねて、すぐには歩き出せなかつた。
 患者は私のたつた一人の心を許した友達で、天才とうたはれた有名なピアニストであつた。
 彼がある夜更けに、非常に、唐突に、血まみれになつてこの病院へかつぎ込まれた時、――二人の警察官につき添はれ、破れた雨戸の仮りのタンカに横はつてゐた彼のみじめな姿を見た刹那、第一に私の目をうつたものは、肘の辺から切り離された彼の右腕であつた。出血を止める為に白い布で無性にしばつた彼の肘のそばに、赤インキを塗りたくつた様な右腕が、ポツンと別々になつて、置かれてあつた。
 負傷者は無論意識を失つてゐた。それ以来今看護婦が知らせて来たまで、まる一日といふもの彼の意識はなかつたのだ。その時警察官から聞いたのであるが、本人に聞いて見なければ犯人はまるで見当がつかないけれど、恐らくは彼の盛名をねたむ者の仕業ではあるまいか。その夜更け、彼はとある淋しい裏町で、何者かの為に右腕を切られて倒れてゐたといふのである。誠に偶然にも私は私の無二の親友の治療を引受けることになつたのだが、親友であるだけに私の心は騒いだのである。生命に別状のないことも、傷口の治療すべきことも分り切つてはゐたけれど、私の親友がとり返しのつかぬ片輪者になつてしまつたといふことが、しかもピアニストである彼が、生命よりも大切にしてゐた右腕を失つたといふことが、私を非常に悲しませた。ピアノを離れては、最早や彼の人生はないのも同然だつた。右腕をうばふことは、彼の全生命をうばふことであつた。彼にしては、指を失つて生き永へるよりはいつそ死んでしまつた方がどれ程幸福であつたかも知れないのだ。
 今意識を恢復した彼に向つて、私はどんな慰めの言葉をかけたらよいのであるか。それは全く慰めるすべのない悲しみではないのか。彼はさぞかし今頃は、意識の恢復したことをくやんでゐるであらう、私が彼を治療してやつたことを、寧ろ恨むに違ひはない。
 だが私は、意識を恢復した彼を見舞はぬ訳には行かぬのだ。私はある悲壮な心持ちを抱いて、静かに彼の病室の前に立つた。ドアのノツプを引いた時、私はどんなに彼の絶望した目を恐れたであらう。彼は、彼にしてもたつた一人の心の友達である私の顔を見たならば、「どうしよう! どうしよう!」と泣き出すかも知れないのだ。
 だが、ドアを開いて一歩病室に踏み込んだ時、私はそこの空気の案外明るいのに驚かされた。
 私の足音に目を見開いた友達は、何か物珍らしく私の顔を眺めた。そして、色のない唇をほのかに歪めて、たどたどしく物を云つた。
「アヽ、分つた。僕を治してくれたのは、君だつたのだね。有難うよ。有難うよ。」
「そんなことはいゝんだが、どうだい気分は。」
 私はつけ元気みたいな声で云つた。
「アヽ、いゝよ。何だか今夢から覚めた様な気持なんだよ。…………淋しい町を歩いてゐるとね。ヒヨツコリ僕の前に黒いものが飛出したんだよ。…………そしてキラキラと何だか光つたと思つたら、それ切り分らなくなつてしまつた。…………突かれたんだか切られたんだか、そんなことだらうね。…………まだ身動きが出来ないのでよく分らないけど、右の腕がひどく痛むが、…………どんなになつてゐるんだね。」
「イヤ、何でもないんだよ。一寸腕をやられたんだね。大丈夫だよ。ぢき治るよ。」
 言葉の行きがゝりで私は遂そんな風に云つてしまつた。
「さうかい。治るかい。指さへいためなければ、安心だよ。治つてから鍵板が叩けない程ぢやああるまいね。」
「大丈夫だよ。大丈夫だよ。」だがそれ以上私は余りにまざゝゝ(※1)とした嘘がつけなかつた。「もう黙つてゐる方がいゝ。無理に喋つたりしてはよくないよ。」
 可愛相な友達は、まだ片腕なくしたことを意識してゐないのであつた。傷ついた右腕は厚く厚くホータイ(※2)を巻いて、動かせぬ様にしてあるのだから、彼の意識が今よりもハツキリして来た所で、患部を見ない以上は、この恐ろしい事実に気づくことはないであらう。誰にしたつて、腕が半分とれてしまつた感覚なんていふものを経験したことはないのだから。目で見ないでそれを悟ることは出来ないに違ひない。
 けれど、と私は考へた。いつかは彼にこの恐ろしい真実を割らねばならない。その時…………あゝ、私はとりかへしのつかぬことをしてしまつた。何故私は一思ひに彼に真実を告げなかつたであらうか。徐々に真実を悟らせる! 敏感な彼に向つてそんなことは出来る筈がなかつた。真実を知つた瞬間、彼はどんなデスペレートな気持にならぬとも限らないのだ。さうして偽りを告げた私をどんなに恨むかも知れぬ。
 といつて今更前言を取り消す訳に行かなかつた。出来ることなら永久に彼に知らせないで置きたかつた。が、それは、徐々に真実を悟らせるよりも一層困難なことであつた。あゝ、私はどうしたらよいのか。
 喋るなといつた私の言葉を守つて、先刻から黙つて私の顔をながめて居た彼は、私の内心の苦しみを読みとつたのか、
「君、君、本当に僕の指は大丈夫かい?」
 私は大きくうなづいた。さうして、早くこの場をはづしたいと思つたが、一種の言ふに言へぬ力が私を引きとめた。
「ね、君、僕はね、いつも目がさめると、空手で一回づゝ、好きな曲をひくことにして居るのだ。どんな時でもそれをやらずには居られないのだよ。」
 かう言つて彼は左手を取り出したが、次の瞬間、
「あ、痛い!」と、叫んで顔をしかめた。
「いけないゝゝ(※3)。右手を動かしてはいけない。」
「あゝ、さうだつたね、右手をやられて居たんだつたね。いゝよゝゝ(※4)、なに取り出さなくつたとてやれるよ、此頃中は毎朝パデレウスキーのラムールといふのをやつて居たんだよ。かういふ風にね。」
 私は思はず彼の右の上膊を押へた。それは右手の真実をあかさないための手段ではなくて、別の目的があつたのだ。指の感覚を司る尺骨神経の幹を圧迫すると、たとひ指は切り去られても、指があると同じ感覚を脳中(※5)に伝へることが出来るからである。
 その時、すでに彼は目をとぢ、口の中で拍子をとりながら、鍵板をたゝくと同じ調子で、左手の指を目まぐるしく動かして居た。
「あゝ、なるほど、右の指は大丈夫だね。有難い、有難い。」
 暫くの後、かう言つて彼は疲れた左手を投げるやうに下した。
 私はほツとした。
「興奮するといけない。大事な時だから、なるべく静かにして居たまへ。」
 さすがに彼もぐつたりとして、物うくうなづいた。彼の尺骨神経を圧迫することによつて、当分の間、彼をあざむくことが出来るとしても、それがいつ迄続くかと思ふと、この一時の安心は、不安よりももつと気味の悪いものであつた。
 それにしても天才芸術家といふものは、何んと恐ろしい存在であらう。あの、いたましい打撃を受けながらも、なほ且つ芸術を忘れ得ないとは。
 私は泣きたいやうな気持になつて、彼の部屋を出た。
 と、廊下のむかふから、一人の看護婦が顔色かへて走つて来た。
「先生。」といつたきり、彼女は大きく息をするだけであつた。
「どうした。何があつた。」
「先生、早く来て下さい。今、手術室に置いてある患者さんの右腕が、まるで生きて居るかのやうに、指で銀盆をたゝきました。」
「え(※6)」私は引づられるやうに手術室に駆けこみ、傍の机を見た。そこには銀色の金属盆の上に、蝋細工のやうな右腕が静かに横はつて居た。
「あら、もうやめましたわ。」
 私は、看護婦の錯覚としてそれを片づけることが出来なかつた。といふのは、たしかに拭ひ去られてあつた傷口から、新たに出血したと見え、二銭銅貨大の円形の血溜りが、チヨコレート色をして、銀面に垂れて居たからである。
(をはり)

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文圏点。
(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)車偏に「區」
(※6)原文ママ。「ツ」の誤植。

底本:『騒人』昭和3年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(公開:2017年3月11日 最終更新:2017年3月11日)