吉野君は午前十時頃に研究室の仕事を切り上げて逃げるやうにハムステツドの下宿へ帰つた。
ロンドン大学に留学してから満一年、医化学の教室へ毎日欠かさず通つたけれども、主任教授から貰つたテーマが思はしい結果にならないので、最近一二ヶ月、吉野君の心はいらゝゝ(※1)してならなかつた。二ヶ年の私費留学期間も、もう半分暮れてしまつたかと思ふと、何だが(※2)、じつとしては居られないやうな気持になるのであつた。
「いつそ、帰朝して、東京大学の研究室へ入れて貰はうかしら」。(※3)
霧の多い昨今のロンドンの陰鬱な空をながめて、東京に残して来た妻子のことを思い乍ら。(※4)此頃中、幾度となく心の中で呟くのであつた。が、然し、すぐそのあとから、
「いやゝゝ(※5)。今頃どうして、おめゝゝ(※6)帰られやう」。(※7)と打消し、又、そのあとから、
「それにしても金森君が羨ましい………」
と言はずには居れなかつた。
金森君は、吉野君と殆んど時を同じうして同じ教室にはひつた私費留学生であるが、研究はどしゝゝ(※8)進むらしかつた。金森君は元来物事に屈託しない性質ではあるが、いつも、にこゝゝ(※9)して仕事して居る所を見ると、好結果を得て居るにちがひなかつた。吉野君はそれが何よりも羨ましかつたのである。同じ教室で毎日机をならべて研究して居ながら、一人の研究が順調に進み、他の一人の研究が少しも進まぬといふことは、学術研究室に於ける最も悲しい出来事の一つである。
学術研究は運次第だ!! と、天才エールリツヒも言つた。エールリツヒでさへこの嘆息の声をもらしたくらゐであるから、自分は決して不足を言つてはならない。……かう考へ直して見ても、吉野君は中々あきらめることが出来なかつた。まして自分と同じ力量の金森君が幸運に見舞はれて居ることを、まのあたり見て居ては、いよゝゝ(※10)、くやしくてならなかつた。
「金森君が羨ましい」。(※11)
いつも分析を行ひ乍ら、吉野君は金森君の無邪気な姿を、ともすれば嫉妬の眼をもつて見るのであつた。そして近頃は金森君の挙動ばかりが目について、はては研究の手をやすめてまで、色々な考へに耽るのであつた。そして、「吉野君、どうした? 馬鹿に考へこんでるぢやないか」。(※12)
といふ金森君の声に、はつ(※13)と我にかへるのであつた。
かうした焦燥の日が続くうち、吉野君の心は、とうゝゝ(※14)をさまりがつかなくなつてしまつた。この苦しい思を金森君に話したところが、金森君は「馬鹿だねえ。しつかりしたまへ」。(※15)といふにきまつて居る。さうすれば自分は愈よ悲観するばかりである。………どうしたらよからう。どうしたならばこの苦しい思から免れることが出来やう。かう考へて行くうち、吉野君の心には、いつの間にかある恐ろしい計画が企てられて居たのである。
………金森君には少しも知らせないで、この苦しい思を分たう。………
然し、気の小さい吉野君は、事を行ふ前に幾度も躊躇した。が躊躇する心の底からいつも「決行せよ」と命ずる声がありゝゝ(※16)と聞えて来た。過去二週間、吉野君は、やらうか、やるまいかといふことばかりを考へ、研究室では勿論下宿へ帰つてからでも、何事にも手がつかなかつた。そしてとうゝゝ(※17)、やつてしまはねばとても生きて居られないやうな状態になつてしまつた。
今朝、吉野君はいつもより早く研究室へ行つた。愈よ、やつてしまはうと思ふと、心は何となう救はれたやうに感じられた。吉野君はつかゝゝ(※18)と、金森君の机の傍に歩みより、その上にあつたアルカリ定規溶液のはひつた大瓶の栓をとつて、その中へ、手早く、蒸餾水をベツヘルに一ぱい入れたのである。
蒸餾水を定規液の中へ投じて、瓶を二三度動かして居ると、吉野君の心の中には悔恨の念がむらゝゝ(※19)と起つた。それは全く吉野君の予期しないところであつた。吉野君は恰も足もとへ蛇が這ひ寄つてゞも来たかのやうに、金森君の机の前をとび退いて、自分の机の前に腰を下したが、その顔は土のやうであつた。
「やあ、吉野君、今日は馬鹿に早いねえ」。(※20)
かういつて突然、金森君がはひつて来たが吉野君のたゞならぬ顔色を見て、びつくりして続けた。「どうした君、元気がないぢやないか。しつかりしたまへ。僕は今日大仕事だ。沢山定量分析をするのだから、やりづめにしても晩まではかゝるだらうよ」。(※21)かういひ乍ら金森君は、定規溶液の瓶に手をかけ、それをゆすつた。「つまり、こいつ(※22)にしつかり働いて貰ふんだよ。何しろ過去四ヶ月分の仕事が、今日でけり(※23)がつくんだからぬ(※24)え」。(※25)
吉野君はぎよつ(※26)とした。穴があつたならばはひり度やうな気がした。恐ろしくて、金森君の顔は勿論、瓶を見ることさへ出来なかつた。
「僕は一寸用事があるから、出て来るよ」。(※27)
かう言つて吉野君は逃げるやうに研究室を出たのである。
研究室から下宿迄、吉野君は殆んど夢中で歩いて来た。どこをどう通つて来たかは少しも記憶して居なかつたが、道をとほる人の顔がいくつにも見えたことだけは心に残つて居た。
自分は何故、蒸餾水を入れてから、すぐあの定規溶液をあけてしまはなかつたか。そうすればこんなに苦しまなくてもよいではないか。定規溶液はいつでも拵らへることが出来るけれど、金森君の四ヶ月の実験を取りかへすことは至難ではないか。かう思ふと吉野君の胸の中は、何かでかきむしられるやうであつた。金森君も、妻子を残して、私費を以て留学して居るではないか。金森君は、自分の世にも卑劣な行為によつて、自が此頃中味つたやうな苦い思ひをせねばならぬではないか。…………
吉野君は室に居たゝまらなくなつて、霧の多い街へ出た。何がさうさせたかは知らぬけれど、吉野君はタクシーをヴイクトリア停車場へ走らせて、ブライトン行の汽車に乗つた。ブライトンは吉野君の好きな英国の南海岸の町で、ロンドンのやうな霧はなく、十一月の空は澄み渡つて、海面は至つて穏かであつた。
一時間ばかり海岸を散歩して居ると、吉野君は幾分か落ついて来たが、間もなく、更に更に強い悔恨の念が起きた。
自分はなぜ下宿から、すぐ研究室へ引き返し、金森君に陳謝して、その実験を喰ひとめなかつたか?
吉野君は時計を出して見た。
「やつ、もう三時だ。これからロンドンへ帰つたところが、金森君の実験はもう済んでしまつて居る。然し……」
男らしくあやまらう。さもなくては自分はもう英国に居ることが出来ない。かう決心して吉野君はロンドン行きの汽車に乗つた。
ロンドンへ着くと、日はとつぷり暮れて、陰鬱な霧が日中よりも濃く、街一ぱいに漲つて居た。然し吉野君の心は何となう軽かつた。
「男らしく白状するんだ。(」)(※28)かう思ふと、此頃中味つたことのない晴れやかな気持になつた。
金森君は下宿に居た。吉野君の顔を見るなりにこゝゝ(※29)して言つた。
「おい君、一たい何をして居たんだ。今日は随分君を捜したよ。研究室へは帰らないし、下宿にも居ないし、僕はどんなに君に逢ひたかつたか知れん。実はねえ……」
と言葉きつて
「僕の定規溶液めが、とんでもない狂ひを生じて居たんだ!」。(※30)
吉野君は頭から熱湯を浴せかけられたやうに思つた。然し、金森君は相変らずにこゝゝ(※31)して続けた。
「この四ヶ月来、僕の実験がちつとも思ふとほりに行かんので、内心少なからずいらゝゝ(※32)して居たんだ。どこかに間違ひがあるだらうと色々に考へて見たんだが、まさか、定規溶液が狂つて居やうとは思はぬので、随分、人にはいへぬ悲しい思ひをしたよ。ところが今日、定量にとりかゝると、第一の分がまるで予期に反した結果を出すぢやないか。で、始めて気がついて、定規溶液をしらべて見ると、驚くぢやないか、定規どころか、まるで水でもさしたやうになつて居るんだ。とに角、それで四ヶ月うまく行かなかつた理由がわかつて、僕は大に喜んだねえ。………でも君、にくいのはあの定規溶液だ、僕はどうしたら気晴しが出来るかと色々考へた末、小使に一ポンドといふ大金を握らせ、よく情を話して、後始末をするやうに納得させ、あの瓶を地下室へ持つて行き、石畳の上に力一ぱい投げつけたものさ。ボーン!! といつた音は、たまらぬ程痛快だつたよ。はゝゝゝゝゝ」。(※33)
「はゝゝゝゝゝ」。(※34)金森君の話をきゝ乍らいつの間にか重荷を下したやうな気になつて居た吉野君は、この時、心から愉快さうな顔をして、大声を出して笑つた。 (完)
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)括弧・句読点位置原文ママ。
(※4)原文ママ。
(※5)(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)括弧・句読点位置原文ママ。
(※8)(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)(※12)括弧・句読点位置原文ママ。
(※13)原文傍点。
(※14)原文の踊り字は「く」。
(※15)括弧・句読点位置原文ママ。
(※16)(※17)(※18)(※19)原文の踊り字は「く」。
(※20)(※21)括弧・句読点位置原文ママ。
(※22)(※23)原文傍点。
(※24)原文ママ。
(※25)括弧・句読点位置原文ママ。
(※26)原文傍点。
(※27)括弧・句読点位置原文ママ。
(※28)原文閉じ括弧欠落。
(※29)原文の踊り字は「く」。
(※30)括弧・句読点位置原文ママ。
(※31)(※32)原文の踊り字は「く」。
(※33)(※34)括弧・句読点位置原文ママ。
底本:『医文学』大正14年9月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木全小説レビュー(大正14年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2005年4月16日)