「若しクレオパトラが、突然くさめ(※1)をしたら、世界の表面に大変化を来したであらう。」
駄洒落の好きなアメリカ人も、こんど流行つて来たスパニツシュ・インフルエンザに対しては、こんな貧しい皮肉しか言へないほど、したゝか狼狽したらしかつた。平素、船舶検疫を世界第一と自慢して居たヤンキーの鼻を、みごとにへし折つたフルーの皮肉は、とうゝゝ(※2)彼等をして、かぶとを脱がしめ。(※3)
「お前がフルーにかゝつても
わたしの恋には変りない。」
といふ恋歌まで作らしめるに至つた。
はじめ、ボストンを襲つたフルーは、今にニューヨークへやつて来るらしかつた。あまり身体の強くない花田は、可なり用心して、ボルチモアに居る友人の平尾が、ボストンへ見学に行くとて、彼の下宿を訪ねたときには、極力、ボストン行きを思ひとゞまらせようとしたほどであつたが、程なくニューヨークにはいつて来たフルーに、友人のドクター杉村が罹つたのを度々見舞つた彼は、杉村が恢復して二三日過ぎると、三十八度ほどの熱を出し、皮肉にも、ボストンから帰つた平尾に見舞はれることになつたのである。
「とうゝゝ(※4)、やられたよ。」と、花田は平尾に恥かしいやうな気持になつて言つた。
「肺炎にさへならなきやいゝよ。」
「うむ、御蔭でもう熱は下りかけたがね…………時にボストンのフルーはどんなかね?」
「可なりはげしいようだつたよ。街を歩いて居ても、よく家(うち)の中で咳の音が聞えたよ。」
十月も半ば過ぎた頃であるから、日本ならば小春日和といふ時分である。窓から見下すハドソン河の水は灰色に光つて、リヴアーサイド・ドライビを間断なく往復する自働車の響と共に、「小春日和」といふやうな静かな感じは持てなかつたけれど、晴れた空に浮び上つて見える対岸のニュー・ジヤーセー州の幾つかの森は、久し振りにベッドの上に起き上つた花田の眼に、さわやかな印象を与へると同時に、その心の底には、何となう、秋らしい哀愁の情を起さしめた。
「外国で病気をすると心細いだらう?」と平尾は同情して言つた。
「さうねえ。第一食物に困るよ。杉村君が病気した時、僕がよくカワゾヘ(日本料理屋)の鮨を持つて行つてやつたから、今度は杉村君が毎晩のやうに鮨を持つて来てくれるが、それが何よりの楽しみでねえ。」と花田はしみゞゝ(※5)言つた。
平尾は先刻から、何か言ひたさうにして居たが、言ひ兼ねて居るらしく、しきりに巻煙草をふかした。
「実はねえ、」と平尾はとうゝゝ(※6)話し出した。「今朝村山といふ留学生が肺炎で死んださうだ。」
村山といふのは某高商の教授で、花田はまだ一度も、親しく話したことはなかつたが、同じ留学生仲間だから、よく、その噂をきいて知つて居たのである。
「さうか。」といつたまゝ花田は暫く、ぼんやり、十月の空を眺めて居たが、何思つたか、急にベッドの上に横になつて、掛蒲団を引つ張つた。
「外国ぢや、何といつても不自由だからねえ。」と、幾分の心が落ついてから花田は言つた。「重い病気に罹つたが最後、死ぬより外に道はないよ。」
花田は、親切に看護してくれる人もなく死んで行つた村山の姿を想像して、暗い気持になつた。平尾も同じやうに黙りこくつて、頻りに巻煙草をふかした。
「アメリカの病院では、病人の臨終のとき、家族のものさへ近づけぬことがあるつてねえ。」と平尾は言つた。
「さうかねえ。すると病人は泰然自若として死ぬんだねえ。」と花田は答へて寂しく笑つた。
「泰然自若も、さうなつちや、有難くないなあ、はゝゝ(※7)」と平尾も大声で笑つた。
花田は暫く天井を見つめて居たが、ふと、村山が死んだとなると、留学生仲間で何とかしなければなるまいと気がつき、困つたことになつたと思つた。といふのは、花田はニューヨーク在留の文部省留学生会の当番幹事であつて、幹事は、花田と、もう一人某大学助教授のSとの二人であつたが、Sはフルーがはやつて来るなり、早速行李をまとめて、西部へ逃げてしまつたので、花田一人で、何とかしなければならぬけれど、病人ではどうにも仕様がないからである。
その時、花田の眼の前に中島の顔が浮んだ。中島は某農林学校の教授で、花田はニューヨークへ来てから、よく日本料理屋で一しよになりそれが因縁で、段々親しく交際するやうになつたが、中島は世話好きの楽天家であつて、つい先日も、ビールを飲みながら。(※8)
「かうして日本酒を飲み日本食を食べて居るんだから、僕は決してフルーには罹らぬよ。」
と、気焔をあげて居た程だから、花田は、この中島に幹事の代理をして貰はうと思つたのである。で、早速、手紙を書いて、平尾に頼んで、中島のとこへ届けて貰ふことにした。
二月過ぎに、中島は、ドクター杉村と一しよに花田を訪ねた。
「どうも君、大へんなことを申しつけて、相すまなかつたねえ。」と、花田は中島の顔を見るなり言つた。花田はもう平熱に復して居たけれど、大事を取つてベットの上に居たのである。
「いや、葬式は無事に済んだから安心したまへ。僕は村山君の病中もよく見舞つてやつたよ。愈々駄目だとわかつたときには、国元へ電報を打ちに行つたよ。始めに
seriously ill
と打ち、それから間もなく。(※9)
died
と打つたよ。君が手紙を寄越さなくても、葬式万端の世話はするつもりだつたよ。」と中島は快活に語つた。
「さうか、それはどうも色々有難う。だが君、君自身フルーに罹らぬやうに用心してくれ給へよ。杉村君も僕も、一度罹つたからもう安心だが、君はまだ罹つて居ないからねえ。」と、花田は杉村を顧みて言つた。
「さうだよ。」と杉村も合槌を打つた。
「いや、僕は大丈夫だ、これでも可なり注意はして居るよ。」と中島はいつになく真面目な顔をして答へた。
それから中島は、村山の告別式の模様を語つた。寝棺の頭の部分だけの蓋があくやうになつて、会葬者が死人の顔に告別を告げたことなどを色々話したが、同じ話でも、中島がすると、花田は別に哀しい心地にもならなかつた。花田は、自分の病気がなほりかけたので、哀情を催さぬのかもしれんと思つても見た。
中島の話がすむと、杉村は、花田を診察して、もう大丈夫だから起きて散歩してもよいと言つた。花田は、中島がかうして病人の傍へ来て危険に面して居るのを見て、心の中では可なりに気を揉んだが、中島の楽天的な態度を見ると、その懸念もいつの間にか去つて、いつものとほりに三人で談笑した。然し、別れ際に花田は、さつさと元気よく室を出て行く中島の後ろから、「用心したまへよ」と声をかけることを忘れなかつた。
その翌日、花田は杉村に誘はれて散歩に出たが、どうも気分がはつきりしなかつたので、早速引き返して、ベツドに横はると、その晩寒気がして、検温すると三十八度五分あつた。翌日杉村が来て診察したところによると、花田の怖れた肺炎ではなくて、肋膜炎の古傷が頭をもたげたのであるとわかつた。果して三日の後、熱は下つたが、その日の午後、杉村から電話で意外な通知があつた。
「君、中島がやられたよ。それも重い肺炎だ。」
と杉村は言つた。
「えゝつ? 中島が? 本当か? 君、診てやつてくれたか?」
「うむ、診たがね、すぐ、病院へ入れなきやならん。」
「困つたなあ。僕が行つてやりたくても、この状態では。」
「君は動いて(※10)いかんよ。僕等で何とかするからいゝ。」
「頼むよ。」
受話器をかけると、花田はがつかりして、ベツドの上に横になつた。と、その時、嘗て中島の家を訪ねたときのことが眼の前に浮んだ。
狭い下宿の一室の、隅に置かれた机の上に、五人の子供をうつした写真が、ニツケル製の枠に入れてあるのを見て、花田が、
「これは君の子か?」とたづねると、中島はうなづいて言つた。
「そうよ。僕の帰るのをみんなが待ちこがれて居るよ。何しろ、日曜日には五人とも僕が連れて散歩することになつて居るからねえ。近所でも評判になつて居るよ。」
中島はその散歩の一場面でも思ひ起したのであらう、空間を見つめて愉快げに笑つた。
「面白いだらうなあ、僕にはそういふ経験がない。」と花田は寂しさうに答へた。
花田の眼の前には今、その五人の子供の写真を枕元に置いて、ベツドの上に怖ろしい病に罹つて、寂しく横はつて居る中島の姿が浮んだのである。
その晩、杉村が訪ねて来て、花田に中島の容態を語つた。
「驚いたよ君、はじめて行つて見ると、もう、唇にチアノーゼが起つて居るんだからねえ。下宿の人たちはフルーだといつて、怖がつて寄りつきもしないのだ。枕元に葡萄が一ふさ食べさして皿の上に置いてあつたが、水さへ飲めぬといふ有様さ。でも、本人は相変らずの元気でねえ。何をいふかと思ふと、こつちが栄養を取らなきや、黴菌も栄養不良になつて死ぬから、わざと食物は避けて居るのだといつたよ。で、兎にも角にも病院行きをすゝめて諸方へ電話で交渉したが、どの病院も満員でね、やつと一つ見つかつたので、其処へ移したが、下宿屋を臨時病院になほしたのだから設備も何もあつたもんぢやない。然し、致し方もないので、この市(まち)で開業して居るY君を主治医に頼んで、いゝ病院があき次第移すことにする筈だ。」
「そんなにひどいかい?」
「両方の肺が大部分やられてる。」
二日の後花田は、二度目の病気から恢復して、久し振りに研究室へ顔を出し、もどりに中島を見舞つてやらうと、外出の支度をして居ると、杉村から電話がかゝつて、ゆうべ、二時に中島が死んだことを報じて来た。
多少予期したことではあるが、花田は急に力の抜けたやうな気がしたので、もう一日、研究室行きをのばすことにした。そして、室の中をあちらこちら歩き廻りながら、中島が先日村山のために打つた電報の言葉を、口の中で幾度も繰返した。
seriously ill..............died
seriously ill..............died
...............................................
...............................................
...............................................
(完)
(※1)原文傍点。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文の踊り字は「ぐ」。
(※6)(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)(※9)原文ママ。
(※10)原文ママ。
底本:『医文学』大正14年8月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木全小説レビュー(大正14年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(最終更新:2005年4月12日)