参考文献/資料集 1990(平成2)年

(公開:2006年1月23日 最終更新:2017年3月8日)
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3月

鞍馬天狗のモデルが古書店を訪れるとき / 長谷部史親

『日本古書通信』 3月(未確認)
 → 『推理小説に見る古書趣味』 長谷部史親 図書出版社 1993年1月20日発行 ※改稿

第九章 近代―破滅への行進

『毒の文化史』 杉山二郎/山崎幹夫 学生社 3月30日発行
 → 『推理小説に見る古書趣味』 長谷部史親 図書出版社 1993年1月20日発行 ※改稿

杉山 『続・幻影城』には毒殺トリック三八例というのがのっています。中世イタリアの犯罪史に毒物使用の興味ある例が多く、毒殺史の本もいろいろあるけれども、日本では小酒井不木の『毒と毒殺』とか『殺人論』、古畑種基の『毒と毒殺物語』がおもしろいとして引用されています。

9月

異端文学・再考 / 川村湊・松山巖

『幻想文学』 30号 幻想文学出版局 9月30日発行

松山 推理小説の方でいうと、戦後になって欠けてしまったと思うのがペダントリーの部分なんです。たとえば小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』みたいな、本当か嘘か全然分からないような知識の羅列、そういうものがかつてあったというのは、ある意味でショックだった。澁澤さんのものなんかは高校時代から読んでいたけれど、それが根のところでそっちにつながっていたというのは知らなかったでしょう。「新青年」でいえば小酒井不木、推理作家としてはたいしたものではないと思うけれど、あのともかく知識を並べ立てる世界というのは、ちょっとびっくりしました。そういうペダントリーの部分をいまの推理作家は書かないでしょ、せいぜい日影丈吉・中井英夫といった人たちまでじゃないかな。
(中略)
川村 そういう知識に対するコンプレックスがないと、ペダントリーも成立しないんですね。「新青年」あたりでペダントリーをやっていた人の中には、本当に教養があったのか疑わしい人もいるけれど(笑)、それでも一生懸命飾り立てるわけですよね。どう考えても教養のなさそうな橘外男みたいな人が、ペダントリーをやろうとする。もちろん本当に教養があってやってる人もいるわけで、なにしろ、あの頃はちゃんと“博士”がいましたからね、小酒井不木博士とか木々高太郎博士とか。そのあとだって博士で推理作家という人はいるかもしれないけれど、まさか博士で売る人というのはいないですね。
松山 やっぱりそういうことに対する飢えは必ずあると思うんです。知らない雑学を横つなぎに知っている人たちというね。いまそれは消えてしまったけれども。

全集編纂を終えて――江戸川乱歩研究展望 / 中島河太郎

『幻想文学』 30号 幻想文学出版局 9月30日発行

――今回の全集編纂にあたって、特に留意された点は。
中島 僕がいちばん注目していたのは、膨大な量にのぼるはずの書簡の所在でした。たとえば乱歩と小酒井不木との書簡、これは全部保存して製本してあると『探偵小説四十年』に書いてあるんです。そのほかにも、乱歩は自分にきた手紙は全部保存している――この全部とはどういう意味なのか、ありとあらゆる手紙を保存していたとは物理的にも考えられませんから、やはり作家関係の手紙でしょうが、それがあるはずなんです。そう書いているんですからね、自分の手紙はカーボン紙にとって、相手のものも保存していると。

12月

名古屋の探偵小説家(一)小酒井不木 / 斎藤亮

『郷土文化』 45巻2号 12月15日発行

 ある春の一日、不木の遺跡を訪ねて文学散歩を試みた。
 まず作品を書き、医学の研究をも続け、そして亡くなった御器所の家を訪ねた。年譜に大正十二年十月、名古屋市中区御器所町北丸屋に新築移転とあるところである。地下鉄鶴舞線の荒畑で下車、昔の郡道を北へ一本目を左折してしばらく行くと、北側のコンクリートの土手の上に「小酒井不木宅跡」という白いペンキ塗の木の案内板が建っていてすぐわかった。現在の町名では昭和区鶴舞四丁目八番である。この家のことは乱歩が「肱掛椅子の凭り心地」という文章に書いている。コンクリートの土手は残っているが、“門を這入ると正面にコンクリート造りの小さな洋館の窓が見え、窓の鉄格子のまわりを、蔦が這っている”という面影はない。相当に改造されたものであろうが、二階建のその家は不木が建てたものとうかがわれる。御器所町は大正十年名古屋市に合併され、その頃から近郊の住宅地として開発されたところである。不木の作品に出てくる鶴舞公園は北西五百メートルのところにあり、また耽綺社の集りをもった料亭寸楽は鶴舞公園の西五百メートルのところにあり現在も店を開いている。
 次に不木の育った土地蟹江町の蟹江新田へ向う。近鉄富吉駅で下車し南口へ出ると直ぐ国道一号線である。絶え間なく走る車を見ながら東へ一粁、日光大橋に至り日光川右岸を南へ五百メートル堤防を行くと大海用橋がある。橋のたもとを西へ下ると宮ノ割六十四番地である。そこには現在でも「小酒井」と標札の出た住宅があり、不木の縁者が住まわれているのであろう。家の前を流れていた小さな川は無い。道路が整備された際に埋め立てられたか暗渠にでもされたものと思われる。このあたりまだのどかな田園風景が残っている。日光川の水は流れるでもなく静かな水面をかもめが一羽飛ぶといったおだやかさである。
 帰途鹿島神社文学(原文ママ)を訪ねる。神社境内に二十数個の句碑が建てられていて、なかに不木の“いつとんで来たか机に黄の一葉”の句碑もあった。この文学苑は建築家で俳人の黒川巳喜の手によって建てられた。海部郡南部の水郷地帯を訪れた俳人の句碑群である。その中に不木のものがはいっているのは、建立者の属する「ねんげ句会」の創設者が不木であったことによる。「ねんげ」というのは、不木の屋敷に掛けられていた南条文雄筆の「拈華微笑」の扁額からとられたもので、岡戸武平の記憶では昭和二年(一九二七)秋にその最初の会が不木邸で開かれ、潮山長三、殿島蒼人、杉浦冷石等が出席したということである。ついでに岡戸武平の句碑には“葭切は葭の青さにけふを鳴く”と彫られていた。