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不木が乱歩に夢みたもの

 探偵小説界における小酒井不木の功績は、例えば「疑問の黒枠」や「恋愛曲線」といった一篇の小説を例に挙げて評価するだけでは不十分に過ぎる。探偵小説というジャンルの発展をその黎明期からさまざまな活動を通して支えた、コーディネーターとしての手腕をきちんと考慮しなくては、作家・小酒井不木の存在を正しく見定めたとは言えないだろう。今回一冊の書籍として纏められた百五十通もの江戸川乱歩・小酒井不木の往復書簡――これにより探偵小説ファン及び近代文学研究者は、大正末から昭和初期にかけての探偵小説界の動きを今まで以上に詳細に知る事が出来る。本稿は、現在流通している不木・乱歩の交流のイメージを、書簡データによって実証的に批判・再構成する試みの一端と理解して頂ければ幸いである。

 昭和二(一九二七)年十一月二日付の江戸川乱歩宛て書簡を以て実質的に結成された耽綺社(注1)は、昭和四(一九二九)年四月一日、「社長」と呼ばれた小酒井不木の死を以てその活動を停止した(注2)。大衆文芸・探偵小説ジャンルの活性化を目論んだとされる耽綺社だが、表向きの理由はさておき、スランプに陥った江戸川乱歩への支援が目的だったという意見はよく聞かれるところである(注3)。これは後世の人間が抱く印象というばかりでなく、同時代人・森下雨村も小酒井不木への追悼文の中で「大衆文芸の向上が最大の眼目ではあつたらうが、故人が中心となつてこしらへた耽綺社も、その成立の動機の一部は江戸川君を激励するにあつたのではないかと私自身は考へたくらゐである」(注4)と既に述べていた程であった。
 このように外部の人間が推測した耽綺社の実体――江戸川乱歩への支援、に関して当事者・江戸川乱歩は回想として次のようにまとめている。

 私はこの手紙を見て、小説家としてはどうにも賛成しにくいと思ったが、一方、小説によって生活して行かなければならない一人の人間としては、若しこれで収入が得られればという誘惑をも感じた。そして、この場合もまた、孤独厭人的な小説家の私よりも、商人的な私の方が勝ちを制して、結局、この提案に賛成し、合作組合の仲間入りをしたのである。(中略)
 最初は小酒井、国枝両氏だけで始める話だったらしいのを、小酒井氏がちょうど私が遊んでいるのを思い出し、もしお金儲けにでもなれば彼にとっても好都合だろうと、小酒井氏らしい親切な思いやりから、私を誘って下さったことに相違ない。(中略)
 これは当時の私にとって、まあ好都合な話にちがいなかった。三人の名前を並べるのなら、当分書くまいと極めた私の決心に牴触もせず、出来上ったものがよかれ悪しかれ、自分一個の誇りでもなく、又、恥でもない。それで原稿料の分け前に預かるのだったら、何だか話がうますぎるのではないかと思ったことである。(注5)

 乱歩は昭和二(一九二七)年三月、「一寸法師」「パノラマ島奇談」の執筆を終えると休筆を宣言。下宿「筑陽館」を始めて経営は妻に任せ、放浪生活に入る。下宿を始めたのは無論家族が生活に困らぬようにという思惑からで、確かに状況から判断すると、収入の道を無くし金に困っているであろう乱歩に不木が合作という形で声をかけ、助け船を出した、と考えても無理はない。しかし実際には同年十月に平凡社の『現代大衆文学全集第三巻 江戸川乱歩集』が刊行されており、それによって当時の乱歩は莫大な印税収入を得ている。そうしてしばらく休筆を続けた乱歩は「陰獣」(『新青年』昭和三〈一九二八〉年八月号)で大評判を呼んで復活。翌昭和四(一九二九)年の『朝日』一月号で「孤島の鬼」の連載を開始したのを皮切りに、本人曰く「自暴自棄」となって通俗長篇を量産する大流行作家となる。また折から刊行された『江戸川乱歩集(春陽堂・探偵小説全集第一巻)』『乱歩集(博文館・世界探偵小説全集第二十三巻)』『江戸川乱歩集(改造社・日本探偵小説全集第三篇)』等の印税も十分に乱歩の生活を保障するものであった。
 そう見ると耽綺社の活動とは、単に乱歩が作品を発表しなかった時期と重なるというだけで、格別乱歩の生活を支える役目を担っていたわけではなかった。前述の回想では当面の生活費欲しさに合作に参加したような印象を受けるが、乱歩にとって書けなくて金が無くなり困窮した、というような時期は、実のところ特に無い。
 現実問題として切実な金銭の心配は無かった筈だが、しかし小酒井不木は耽綺社の活動を通して、乱歩に対し徹底して経済的な配慮を見せ続けた。書簡集の中から原稿料・印税の支払いに関する記述を拾って行くと、具体的には次のような内容だった事がわかる。
 まず第一長篇「飛機睥睨」(『新青年』昭和三〈一九二八〉年二月号〜九月号)の原稿執筆を担当する事になった乱歩は原稿料に関して五十パーセントの分配に与っている。全員でアイディアを出し合って筋書きを完成し、それを内容(ジャンル)に応じて得意とするメンバーが記述する、というのが耽綺社の創作作法であったから、執筆者の負担が一番大きくなるのを考慮して分配の割合が偏るというシステムならばある程度納得がゆく。しかし乱歩の場合、入院その他様々な事情があったとはいえ、ほぼ毎月行われていた例会には殆ど出席せず、また一度は原稿が間に合わず友人・岩田準一に代筆を頼み間に合わせた事もあった。さらにその後の作品でも岩田は代作者として利用される事になり(岩田は元々耽綺社の会合における書記役を務めていたので、彼が筆記内容をそのまま原稿に起こしたともいえるわけだが)、例えば「白頭の巨人」(『サンデー毎日』昭和三〈一九二八〉年十月二十一日〜十二月十六日)の時は岩田・乱歩の二人宛てに原稿料の五十パーセントという形で分配が行われている。こうなると他のメンバーに比べむしろ働きの少ない乱歩が何故金銭的優遇を受けるのか、少々理解し難い。
 初めの頃、例会を欠席しながら原稿料を受け取る事になったのを不審がる乱歩に、不木は「たとひ欠席しても社員の結束をかたくするため、必ず分配するといふことに議が一決したので御座いますから」(注6)と答え、無理にでも受け取らせようと一方的に通達している。これはやはりある種の「思いやり」と見なさざるを得ない。原稿料の偏りについては他の社員が皆、当時人気を博していた作家ばかりで経済的な負担をそれほど感じていなかった為、たまたま大きなトラブルに発展せずに済んだと見るべきだろう。しかし、だからといって社員間での軋轢が全く無かったとは思われない。その後の書簡で明らかになっている不木と国枝史郎の感情的トラブル(注7)なども、作家的資質の問題ばかりでなく、元を辿れば乱歩への依怙贔屓が目に余る不木に対する国枝の反発がもたらした反応のように思われる。
 書かない上に例会も欠席続きで乱歩の方は余計顔を出しづらいのだろうか。昭和二(一九二七)年十一月が耽綺社の最初の会合で、昭和四(一九二九)年一月に『サンデー毎日』の企画で正月座談会が開かれ、それが小酒井不木存命中最後の会合となったが、それまでの間ほぼ毎月例会が行われていたにもかかわらず、乱歩が出席したと確認出来るのは耽綺社結成後最初の会合の後は昭和三(一九二八)年夏の一回と、前述の一月の会合のたった三回である。いっそ脱退する事も出来ただろうが、やはり世話を焼いてくれている不木の顔をつぶしたくはないし、時々であっても不木に逢いに名古屋に行くのは乱歩にとって楽しみの一つであったのだろう。実際、書簡によれば乱歩は耽綺社の会合に参加しなくても、不木の病気見舞いに名古屋に立ち寄ったりしている。むしろ乱歩とすれば、病気のせいで殆ど旅行も出来ない小酒井不木の為に、同好の士が毎月集まって楽しく過ごす親睦会、という意識で耽綺社の活動に関わっていた観もある。(注8)

 いち早く探偵小説の魅力に取り憑かれ、海外作品の翻訳や評論・随筆の執筆を通して同好の士を喜ばせ、日本の探偵小説発展の土壌を培ってきた小酒井不木にとって、日本の創作探偵小説の代表として登場した江戸川乱歩というずば抜けた才能が、どれほど貴重なものに見えたかはいうまでもない。
 小酒井不木の場合、探偵小説愛好の姿勢は、パーソナルな読書経験というような段階に止まらず、探偵小説の普及活動――市場の開拓、読者の獲得という方向に精力的に進んだ。不木にとって『新青年』というメディアは探偵小説発表の場としては非常に格調の高いステージであったから、自らの創作を発表する場として一番には選ばなかった。彼が創作家としてそれ以前に取り組んだのは、『子供の科学』での子供向け創作探偵小説執筆だった(注9)。不木は第一に、探偵小説の物語的魅力は勿論、探偵小説の魅力を味わう素養としての科学的思考法・科学知識を多分に盛り込んだ探偵小説を、子供達に向けて積極的に発信していったのである。まさに未来の探偵小説愛好家を開拓する、遠大な計画であった。
 また、通俗雑誌や一般文芸誌、女性誌などに探偵小説を発表し、探偵小説の露出を増やして読者を獲得すべく努めたのも不木の仕事の一つだった。メディアの側も新興の文芸ジャンル・探偵小説には注目しており、いわゆる大衆向けの通俗雑誌――講談社の『キング』や博文館の『講談倶楽部』など大部数を誇る雑誌メディアや、新興の文芸雑誌として誌面に売りを求めていたプラトン社の『苦楽』などは早くから創作探偵小説に門戸を開いた。小酒井不木はそこで探偵小説文壇を代表するように精力的に執筆した。探偵小説そのものの露出と浸透という意味で、とにかくある程度の数の作家が市場に現れ、ある程度の数の作品が製産されてゆく必要があったわけだが、まず自らがそれを実践していたのである。同時期に大阪で誕生した「探偵趣味の会」にしても、創作者の裾野を拡げる運動の一環として相当に期待をかけていたに違いない。
 そんな不木にとって、大正十四(一九二五)年末に結成された大衆作家同盟「二十一日会」への参加は即ち当時の大衆文学(大衆文芸)が獲得していた広汎な読者層への、探偵小説文壇からの積極的なアプローチに他ならなかった。読者の獲得、というテーマは今の我々が思う以上に、日本の創作探偵小説黎明期においては切実な問題であった筈で、白井喬二らの誘いを受け、それをチャンスと不木が仲間入りを決断したのも頷けるし、探偵小説文壇のエースである乱歩を強引に誘ってメンバーに加えたのも当然の話であった。しかしその思いに反して大正十五(一九二六)年に創刊された同人雑誌『大衆文芸』はおよそ一年半しかもたず、昭和二(一九二七)年七月号を最後に廃刊の憂き目に遭う。耽綺社結成はそれから約五ヶ月後のことであるが、小酒井不木の中には、耽綺社こそ『大衆文芸』メンバーによるパワーアップした形での「大衆」読者獲得への再挑戦――という思いが含まれていたのかもしれない。

 探偵小説ジャンルを支える市場の開拓、読者獲得の方法として、子供向け探偵小説の発表、各メディアへの探偵小説の発表と積極的に執筆活動を行ってきた小酒井不木だが、そうした中、一つの問題に直面する事になる。それが平林初之輔が指摘した、いわゆる〈不健全派〉の「行き詰り」であった。(注10)
 常に「新奇」なるものを、というプレッシャーと自作の出来に対する自己嫌悪から深刻なスランプに陥って休筆してしまった江戸川乱歩ほどでないにせよ、同じ探偵小説作家として小酒井不木にもマンネリ化・アイディア枯渇の不安がなかったわけではない。むしろ早い時期からそうした可能性を危惧し、対策を講じる必要を考えていた。乱歩があくまでも作家としての自己の問題として全て内側に抱え込んでしまったのに対し、不木の場合には、探偵小説というジャンルそのもの、探偵小説メディアの性質の問題として捉え、作家個々が抱える問題を作家全員で一致協力して解決しようという方向で見ていたように思われる。
 耽綺社結成の意図として不木が使ったのは「局面を展開(注11)」という言葉だったが、探偵小説ジャンルにおける「行き詰り」について、当初不木は次のように語っていた。

一たい、あまり窮屈に考へすぎて、従来の探偵小説の型を破らうとすると、こんどは又、その作者の型が出来上つてしまひます。一般民衆を対照【ママ】として考へると、型にはまるといふことは好ましいことではありません。その時々の一寸した思ひつきであつてもちつともかまはぬから、それを作品にあらはして読者に一寸面白いなと思はしめればそれで沢山でせう。といふ位の元気で書かなければ、行き詰るだらうと思ひます。(注12)

「型にはまる」という言葉で表される、マンネリズムへの危惧――ここではまだ個人レベルでのワンパターン化という問題として語られていた「行き詰り」は、平林初之輔によってその作風から来るジャンルそのものの行き詰まりの兆候と指摘される事になるが、この分析が小酒井不木にとって、共に槍玉に挙げられた江戸川乱歩・横溝正史・城昌幸の誰よりも深刻に響いていた事が今回書簡集を読み進めると明らかになって来る。

平林さんの御説にはいつも感服して居りまして、全く氏のいはれるとほり、私たちの求める世界は行き詰り易いですから、何とかこの際方向転換しなければならぬと思ひますが、然し、当分は先づ御互にこの調子で押し進んで行つてかまはぬではありますまいか。行き詰りやしないかと恐れることは却つてよくないかと思ひます。行き詰らぬぞといふことを示す元気がなくてはならぬでないでせうか。(注13)

 これが森下雨村から「探偵小説壇の諸傾向」のゲラを送られ一読した後、書簡に書き記した不木の感想である。その後も乱歩宛の書簡の中で「行き詰り」「不健全」という言葉が幾度も取り上げられ、「元気」を持って「不健全」なまま進むという姿勢が強調されるが、こうした反応には批判に対する余裕というものが感じられない上、作家としての信念と呼ぶには不安感や自信の揺らぎが透けて見えてしまうように思われる。
 さらに同時期、小酒井不木の作風に対して別方面からも批判の声が上がっている。
 その声は不木が探偵小説文壇の一段高いステージと考えていた『新青年』誌上において起こった。代表的なものとして春田能為の「『呪はれの家』を読んで」が挙げられる(注14)が、批判の対象は素材とその描写の両面に渉った。自らが「玄人」と見なす『新青年』読者からの批判という事もあって、不木にはこれまで読んだどんな批判のコメントよりもこたえたであろう。こうした批判が先の「不健全」評価の延長線上に置かれ、それに対する反応が自作に対する卑下とも開き直りともつかないものになって出て来てしまったのではないだろうか。不木は自分の作風についての苦悩を、メディアを通して次のように訴えた。

物語りを作る際にもかういふ風にしたならば、恐らく読者の感情を動かすことが出来るだらうと思ひながら、それが何だか馬鹿々々しいやうな気がして、つい、冷たく突きはなしてしまふのである。さうしてはいけないと思ひながらもさうせざるを得ぬといふ事は誠に情けない話である。かういふと何だか、自分が暖かい作品の書けぬことを弁解するやうになるから、深入りはしないが、要するに目下のところ暖かい作品は私には書けないのである。(注15)

 不木は口では自作の「不健全」さを是認しつつも、どこかで作風の矯正を試みていた。また、例え自分の考えついた素材が「不健全」と見なされるものであったとしても、描写の仕方如何によっては十分読者を引きつける魅力あるものが作れる、という確信を抱いていた。そして、自分の作品にとって理想とする描写が書ける作家、と不木が思い描いた人物こそ、他ならぬ江戸川乱歩だったのである。

私の作品が一部の人に不快な感じを与へるのは、まつたく、大兄の仰せのとほりです。即ち、取り扱ひ方があまりにも冷たいからであります。自分でも、いつも思つて居ることですが、自分のこの題材を江戸川兄に取り扱つて貰つたら定めし暖かいものが出来るだらうになあといふことは、筆執るたびに考へるところです。(注16)

 これは決して乱歩に対する追従の言葉などではなく、作家小酒井不木の本音であろう。

 不木は探偵小説の発展について、次のような見解を持っていた。

(前略)然らばどうしてその行詰りを打破して行くかといふに、さし当り取るべき策としては長篇小説への発展であらうと思ふ。今迄述べたことは、主として短篇探偵小説についての話であつて、長篇小説の行詰りといふことは一寸考へにくい程その前途は洋々たるものである。(注17)

 ウィットやアイディア一つ一つの出来に全体的に依存する短篇だけではどんな作家でもいつか行き詰まる。結局、そこからの脱却を図る為にはプロット中心の長篇作品を創造してゆく外ない、というのが不木の持論である。そして不木にとって長篇作品のアイディアやプロットを考えるという事は、必ずしも一人の作家の孤独な作業に限らなかった。そこには複数の作者がアイディアを出し合い、プロットを練る合作のスタイルが既に想定されていた。
 小酒井不木という作家の特色といってよいと思うが、彼にはアイディアの提供・テーマの指定という行為に対する躊躇が非常に少ない(注18)。「長篇は是非手をつけて頂きたいと思ふが如何です。犯罪を取り扱はれるための材料ならば御参考にいつでも提供致します。決心さへ御つきになつたら、それがための談合も致したいと思ひます(注19)」と乱歩に書き送ったのは大正十四(一九二五)年七月――不木も乱歩もまだ長篇作品などに全く手をつけていなかった頃の事であるが、既にそのアイディア提供の形が合作スタイルで思い描かれている点に注目したい。実際、日本の探偵小説界において長篇時代の到来を告げた記念すべき作品は小酒井不木の「疑問の黒枠(注20)」だが、その後不木が単独で長篇作品を量産する道を選ばず、合作組織を結成して長篇を製産するという方向に向かったのは、彼の思考方法としては恐らく自然な成り行きであった。

 耽綺社の創作作法は先にも述べたが、土師清二が語っているところでは(注21)小酒井不木が物語の核となるアイディア二三を提出し、社員全員で意見を出し合って筋書きを決め、最終的に社員の一人が執筆を担当したという事である。だとすればそれをうまく利用すれば、かつて小酒井不木が夢見た通りの、「自分のこの題材を江戸川兄に取り扱つて貰」った作品が作り得たという事ではなかろうか。筆者は、耽綺社という組織はそういう意味では、小酒井不木の理想をかなり忠実に形として備えた組織であったとみている。まず執筆者として探偵小説・大衆文芸のメジャーネームばかりを揃えた話題性、これはそのまま読者獲得への大きなアピールとなる。そして作品のアイディアとプロットは主に自分(小酒井不木)が考えたものを使う上、複数でストーリーを練り上げる事によって、一人で考えているのとは違って「行き詰り」を打開出来る(可能性がある)。そして何よりも、その内容が探偵小説ならば江戸川乱歩が執筆を担当してくれる(可能性が高い)。不木にとってはこれが何よりも嬉しい事だった筈だ。
 作品を期待して待ち受ける多くの読者、常に新奇なストーリーの提供と卓越した描写――そんな合作組織が存在すれば確かに探偵小説・大衆文芸の「局面を展開」する最終兵器となり得た。しかし全ては理想である。現実は全くそうはならなかった。耽綺社も結成当初こそ話題性もあり『新青年』に長篇を連載も出来たが、その後継続的な注文は入らず、むしろ耽綺社の側から原稿の売り込みをかけなくてはならなかった。(注22)そしてついには乱歩の回想にあるように「経済的に見ても、毎月の同人の分け前は、東京や大阪から名古屋に出張して一日二日滞在する旅費にも足りない有様」だが「同人が集まって話をするだけでも無意味ではない」、どちらかといえば親睦会的な意味合いの強い会合になってゆく。もっとも不木自身多少目論見が外れたところはあったにせよ、一方でこうした親睦の機会を存分に楽しんでいたようで、会合の万事を取り仕切った彼の様子にはそうした面が十分に感じられる。(注23)

 昭和三十五(一九六〇)年一月号の『ヒッチコックマガジン』に、江戸川乱歩の掌篇「指」が掲載された。暴漢に右手首を切断されたピアニストが麻酔から覚め、いつもピアノに向かっているように指を動かしてみると、切り離された方の指までが動いた、という筋である。これは知る人も多いと思うが、耽綺社の活動の一環であった小酒井不木と江戸川乱歩の合作掌篇「ラムール」(『騒人』昭和三〈一九二八〉年一月号)のリメイクである。「ラムール」は前半を乱歩が、後半を不木が書いて完成させた作品だが、当時の二人が合作も含めて親密につき合った時期のエピソードは江戸川乱歩の追悼文「肱掛椅子の凭り心地」(『新青年』昭和四〈一九二九〉年六月号)に詳しい。
「ラムール」では切断された方の指が動く描写はなく、ただ看護婦の証言と銀盆の上の血溜りが、指が独りでに動いたことを指し示すという趣向だった。乱歩は「指」において後半のショックを強めるべく、切断された手首がアルコール漬けのままピアノを弾くようにうごめき続ける、という演出を施している。どちらがよいか、と言ってしまうと好みの問題になるが、ともあれ、

 ピアノのキイを叩く調子で、しかし、実際の動きよりもずっと小さく、幼児のように、たよりなげに、しきりと動いていた。

という結びの文章は、小酒井不木的な医学風グロテスクを、その衝撃的な効果は薄めずに、より文学的に昇華させようとした意欲的な文章だったのではないか、少なくともそのように意識されて書かれたのではなかったか、と筆者には映る。
「指」を最後に小説の筆を執る事の無かった乱歩にしてみれば、作家生活の最後にかろうじて、不木の夢を改めて叶えてあげた、という事にでもなるだろうか。(注24)そう考えると、身体から切り離され屍となってなお見えない鍵盤を叩き続ける指、という生と死の境界を描いたモチーフが、没してなお『小酒井不木全集』刊行をはじめ、戦後に至るまで何度も江戸川乱歩の助力によって(注25)読者に忘れられる事なく紹介され続けた作家――小酒井不木の姿とオーバーラップして来る。
 江戸川乱歩と小酒井不木――手紙のやりとりから見たら六年程度の付き合いしかなかった事になる二人の探偵小説作家の二人三脚は、凭れたり蹌踉(よろ)けたりしながらも、意外と長い間、途切れる事なく続いていたのかもしれない。


(注1)名古屋在住の小酒井不木、国枝史郎の二人によって企画された合作組織。二人がそれぞれ江戸川乱歩、土師清二を勧誘し、更に長谷川伸が加わって五人組で活動を開始した。後に平山蘆江の加入により六人組となる。「残されたる一人」(『サンデー毎日』昭和二〈一九二七〉年十二月十八日号)を手始めに、全部で十編ほどの小説・戯曲・映画脚本等を残した。

(注2)耽綺社最後の合作作品は映画「非常警戒」脚本(日活・昭和四〈一九二九〉年十二月公開)で、同年夏に残りのメンバーが集まって合作されたものだという。シナリオは『映画時代』昭和五(一九三〇)年一月号・二月号に掲載された。

(注3)斎藤亮「小酒井不木と合作組合『耽綺社』」(『郷土文化』昭和六十〈一九八五〉年十二月)。

(注4)森下雨村「小酒井氏の思出」(『新青年』昭和四〈一九二九〉年六月号)。

(注5)『探偵小説四十年』(桃源社・昭和三十六〈一九六一〉年七月)。引用は復刻版(沖積舎・平成元〈一九八九〉年十月)に依った。

(注6)昭和三(一九二八)年三月十一日付書簡(一三〇)。

(注7)昭和三(一九二八)年十一月七日付書簡(一四四)。

(注8)土師清二「耽綺社の頃」(『別冊宝石第四十二号』昭和二十九〈一九五四〉年十一月)にも、不木没後の耽綺社解散を「病弱で名古屋から外へは出られない小酒井さんのまわりを、おのおの花を持つて集まつて、二三日を過ごそうという無言の肯きが、通い合つた」会だったから、その存在意義を失ったのだという風な回想が見られる。

(注9)小酒井不木最初の創作探偵小説は「紅色ダイヤ」(『子供の科学』大正十三〈一九二四〉年十二月号〜大正十四〈一九二五〉年二月号)である。また、大正十四(一九二五)年四月十一日付書簡(〇二三)には、「私も『新青年』へ何か発表させて頂きたいと思つても、『新青年』の読者は玄人ですから、あつさりした垢抜けのしたものでなくてはならず、私には少し荷が過ぎます。」という感想が洩らされている。

(注10)平林初之輔「探偵小説壇の諸傾向」(『新青年』大正十五〈一九二六〉年二月増刊号)。

(注11)昭和二(一九二七)年十一月二日付書簡(一一三)。

(注12)大正十四(一九二五)年八月二十二日付書簡(〇五八)。

(注13)大正十四(一九二五)年十二月十五日付書簡(〇八四)。

(注14)春田能為「『呪はれの家』を読んで―小酒井博士に呈す―」(『新青年』大正十四〈一九二五〉年六月号)。また、『新青年』の読者投稿欄「マイクロフォン」にも「考へ物の如し」(春田能為・大正十四〈一九二五〉年十一月号)、「学者らしい固苦しさが脱けてゐない」(西田政治・大正十五〈一九二六〉年三月号)、「小酒井さんの作品が、研究室を出ない限り、今後如何なる名作が出ようとも私には感心出来ないだらう」(横溝正史・大正十五〈一九二六〉年三月号)、「氏の世界には煩悶がない。不木氏の用ふる主人公は尽く超人間である」(甲賀三郎・大正十五〈一九二六〉年五月号)、「取扱ひ方が概念的」(甲賀三郎・大正十五〈一九二六〉年七月号)、とかなり手厳しい評価が並ぶ。

(注15)「作家としての私」(『探偵趣味』大正十五〈一九二六〉年七月号)。引用は『闘病問答』(春陽堂・昭和二〈一九二七〉年八月)より。

(注16)大正十五(一九二六)年三月三十日付書簡(〇九四)参照。また、それより以前の大正十四(一九二五)年六月十七日付書簡(〇三八)にも、「『序文』の中へ書いたやうに、探偵小説も芸術として書かれねばならぬといふ自分の主張であり乍ら、自分の書くものは、やつぱり駄目です。(中略)いつも材料を取り扱ふたび毎に、これをあなたなら定めし私が満足するやうに表現するだらうになあ、と思はぬことはありません」という発言が見られる。

(注17)「探偵文芸の将来」(『新潮』昭和二〈一九二七〉年四月号)。引用は『小酒井不木全集第十五巻』(改造社・昭和五〈一九三〇〉年八月)より。

(注18)「課題」(『探偵趣味』大正十五〈一九二六〉年五月号)には「昨今は、小説を書くさへ、『題があつたら』と思ふことが決して稀ではない。私の性質として、よい思ひ附きの出来る迄待つて居ることが非常に困難である」という発言が見られる。

(注19)大正十四〈一九二五〉年七月二十六日付書簡(〇四八)。

(注20)『新青年』昭和二〈一九二七〉年一月号から八月号まで連載。犯人当ての懸賞が企画されたり、映画化されたりと話題性も高かった作品で、小酒井不木の代表作の一つ。

(注21)土師清二「耽綺社打明け話」(『大阪朝日新聞』昭和四〈一九二九〉年二月三日)。

(注22)昭和三(一九二八)年十月二日付書簡(一四二)などを参照。複数の、それもある程度名の知れた作家達で構成される合作組織という都合上、どうしても原稿料を高めに設定しなくてはならないという出版社側の事情も原稿依頼を渋る原因になっていたと想像出来る。

(注23)国枝史郎「逝ける小酒井不木氏」(『週刊朝日』昭和四〈一九二九〉年四月十四日号)に「私共のやつてゐる耽綺社で、私など酒を飲みますので、氏は『せめて、皆様のお交際(つきあひ)ぐらゐはしたいので。』とかういつて、みすみす身体に悪いのを承知で、酒を飲む稽古をされ、そのため果たして一時身体を悪くされたほどであります」と回想されている。また、長谷川伸「耽綺社の指導者」(『サンデー毎日』昭和四〈一九二九〉年四月十四日号)に「氏を耽綺社の会合において見て先づ心づくことは、会合席上の整理按排のうまさだ、それからまた一方に筆記し一方に他人の談話の相槌を打ち、その間々に女中を指揮し、次々に進行係的な手腕を十分にふるつてゐたことである」とあるのも、小酒井不木の事務的才能に対する評価でもあろうが、それ以上に不木の同人達に対する心配りの度合いとして読む事が出来る。

(注24)勿論、「新年号向きにショート・ショートの特集を試みた際、乱歩も参加せざるを得なかったため、旧作の改稿で責めをふさいだ」(中島河太郎「解題」『江戸川乱歩推理文庫28 堀越捜査一課長殿』・講談社・昭和六十四〈一九八九〉年二月)というような事情、原型を「半分ぐらいに短くして、最後のスリルをもっと強くしたものにすぎない」(同「解題」より引用)というような当人のコメントを意図的に無視しての解釈である。

(注25)小酒井不木の七回忌を機として乱歩が編んだ作品集『闘争』(春秋社・昭和十〈一九三五〉年十月)が戦前ではその代表というべき仕事であるし、「作家としての小酒井博士」(『科学ペン』昭和十三〈一九三八〉年十一月号)、「小酒井不木博士のこと」(『宝石』昭和二十七〈一九五二〉年四月号)などタイミングをみて回想・紹介の場を作り、戦後すぐに編まれた数種の探偵小説アンソロジーで不木作品を欠かさず採り上げるなど、乱歩の律儀なまでの活動振りを指摘するのは容易い。

初出:『子不語の夢』(皓星社・2004年10月21日発行) 改稿:2009年1月19日

(公開:2009年1月19日 最終更新:2009年1月19日)