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書簡

昭和三年

江戸川乱歩氏宛 一月三日発(※1)

 御手紙拝見しました。小此木氏に診て貰はれし由さういふ状態では嘸不愉快のことゝ存じます。鼻茸があるとすれば先づ鼻茸だけとれば非常に楽になると思ひます。三つとも一時に手術するのはどうでせうか。これは無論専門家の意見に従はねばなりませんが、この辺のところよく相談なさつて下さいませ。鼻茸の手術は一両日でなほつてしまふ筈です。蓄膿扁桃腺の手術もそんなに時日はかゝらぬものと思ひます。で、たとひ今すぐ手術を受けられても合作の執筆には差支ないと思ひます。
 若し大兄が名古屋で手術を受けられるやうでしたら八木沢教授にたのみ病室も都合してもらつて出来るだけの便利をはからひます。たゞさうすると奥様が心配なさるで、これは強ひてすゝめることも出来ません。名古屋でしたら大兄が病床に居られても小生がそばへ行つて合作すればやれますから、その点は都合がよいと思ひますが合作ゆゑに色々な不便をしのんでもらふのは心苦しいですから、この点はたつてとは申しません。東京では名医がいくらもありますけれど鼻茸や蓄膿や扁桃腺肥大の手術は少し経験の積んだ人なら誰でもよいと思ひます。
 合作はなるべくなら大兄が一貫して書いて頂きたいですが、やむを得ぬ時には他の四君と相談して何とか致し ます。然し若し出来ることなら五十枚分を二十枚ぐらゐにした筋書(?)でも書いて下さると非常に都合がよいと思ひます。
 尤も病気の程度にもよりますから、手術後の経過がどれくらゐかゝるものか一度小此木氏にきいて御覧になるとよいと思ひます。
 大兄の頭痛は必ずしも之れ等の三つの病の為ではないと思ひますが、然し不愉快のほどは御察ししますからあまりたえられぬやうでしたら、とに角手術を受けて早く苦痛から脱して下さい。若し名古屋でもよいといふことなら、すぐやつて来て下さい。その手順を運びます。

白井喬二氏宛 三月十四日発

 拝啓其後は申訳ない御無沙汰に打過ぎました。益々御健筆、何よりに存じます。小生不相変(あひかはらず)無事暮し居りますから乍他事(たじながら)御安神下さいますやう。
 さて御世話様になりました小生の集も愈よ配本され去る一日五千円を現金にて、残額を約束手形(五月十六日払)にて平凡社より受取りました。かような喜びに接するのも偏に大兄の御尽力と感謝に堪へません。早速御礼申上ぐべきのところ月初めより俗用多端にてついゝゝ失礼してしまひました。不悪(あしからず)御思召下され度く切に御願します。
 それにつき甚だ失礼とは存じましたが、本日別便にて、小生の感謝の意を表するため、記念として粗品を御送り申上ましたから御笑納下さいますれば幸甚に存じます。
 乍末筆(まつぴつながら)御令室様によろしく御伝言下さいますやう。『富士に立つ影』の御盛況を切に祈り上げます。

竹内芳衛氏宛 三月二十二日発

 御手紙及び雑誌忝く拝手致しました。
 益々御清祥何よりです。『寸感独語』の中には散り行かうとする花のみじめな姿がよくあらはれて居ります。尼子氏の研究をよみて、なるほど老人のゼロロギーは研究すべき事が沢山残つて居るやうに思ひました。
 何から手をつけてもよいやうに思はれます。
 若し御手をつけたいと思はれましたらプランをたてゝもよろしいです。さうして一度ゆつくり相談したいと思ひます。
 本荘君も熱心にやつてくれて居ます。私の手許から二人完成出来ました。民間で出来た仕事でも平気で認めてくれることは非常な喜びでした。
 こんど名古屋へ御いでの節は是非御立寄り願ひます。

田村利雄氏宛 四月一日発

 先夜は御親切に遠いところを来て下さいまして本当に感謝に堪へません。翌日は留守にして失礼しました。御菓子は実においしく拝味しました。
 二十八日午前五時起床七時に本願寺の式にのぞみ、それから正午までに京都見物をすましました。二十九日は嵐山へ行き、午後は桃山、宇治を経て夜奈良につき、昨夜無事帰宅いたしました。
 とりあへず失礼かたゞゝ御報せ申上ます。

田中早苗氏宛 四月九日発

 拝復、実に申訳ない御無沙汰を致しました。度々御ハガキを頂戴してその都度御答へしなければならぬと思ひながら、ついゝゝ失礼してしまひました。御許しを願ひます。先般も大衆文学全集の拙作集の月報に大兄の文を無断で引用させて頂き、この事を申し上げやうとしてそれさへ致さず罪万死にあたるとも申すべきです。平に御海容を願ひます。
 ルヴエルは実に心待ちに致して居りました。どうか一日も早く見たいもので御座います。小生から春陽堂に申すべきことが御座いましたら、遠慮なく仰せ下さいまし。
 先日京阪地方を家族と共に旅行して来ました。創作をするには旅をしなければならぬとつくゞゝ思ひました。京都はひどく変化して居りました。その京都を題材に只今短篇を物しつゝあります。取りあへず御返事旁々御無沙汰お詫びまで。

幸田正治氏宛 四月二十六日発

 拝復御作拝誦しました。全体として少し力が弱いやうに思はれます。従来の御作で気のつく弱点としては、作中の人物が読者の目の前にあらはれるとき、どうもその陰影が薄いことです。こんどの作でも真犯人即ち親の性格をもう少し鮮かならしめて置く必要があります。たゞ読者を意外に思はせるだけではいけません。意外であると同時になるほどと感嘆するのでなくてはいかぬと思ひます。
 それからこんどの作では場所が彦根であるといふことをなるべくはじめに書くべきであります。それから婆さんの会話が何だか昔の婆さんらしくありません。なほ又息子の死体を見たときその親が一向平気で居るのも少し変だと思ひます。玉稿は別封御返送申上げました。

橋本はな氏宛 五月二十七日発

 御手紙嬉しく拝見しました。畑さんの御著は先般いたゞきましたから御送り下さるに及びません。店の方今暫く辛抱してやつて下さい。近いうちに御訪ね致します。
 野口さんの死はかへすゞゝゝも残念です。ニユヨークの時を思ひ出しました。カハゾヘで二三回姿を見た記憶があります。惜しいことをしました。とりあへず一寸

田中早苗氏宛 六月一日発

 拝復。まだ御目にかゝりませぬが、新青年を通じて御健筆に接して居りました処、今回御蔵書を割愛下さいまして、本日森下さんから御送り下さつて、拝手いたしました。御好意の程実に御礼の申様もありません。あゝした書物がどれ位私を喜ばせるかは御察し下さることと存じます。犯罪に関した書物は出来るだけ手許に集めたいと心懸けて居りました。今後も犯罪に関する書物を御読みになりましたら、頂くといふことはあまりに厚顔(あつかま)しい願ひですから、せめてその書名なりとも御知らせ下さることを御願ひ致して置きます。
 そのうちに上京するやうな機会でも御座いましたら、是非御目にかゝつて、御話を伺ふと同時に御礼を申上げたいと思ひます。とりあへず書中を以て右申上ました。
 御健康を切に御祈りします。

幸田正治氏宛 六月二日発

 拝啓『溶暗』は大へんよい出来です。たゞ筆売娘の正体がはつきりして居りません。彼女は何故に立聞きをしたか、事件の関係者でなくてはさういふことをしません。偶然さうしたことをしたといふのでは小説としては困ります。この点に筆を加へる必要はないでせうか。
 弁護士が驚いて見つけたときに、『や、あれは脇田の情婦だ!』とか。『や、あれは嘗て俺に何々だ』といふとよいですが、さうも出来ぬのが遺憾です。玉稿別封返送致しました。

加藤昌元、加藤譲太郎氏宛 六月十五日発

 御芳書忝く拝誦仕り候
 益々御健勝に亘らせられ慶賀此事に存じ候
 偖今回は憲一氏御名誉の御事に有之同慶至極に存じ候小生も重荷を下せし気持致し家内と共に喜び申候次第に候早速御手紙を差上べきの処先月末より少しく不快を覚えそのまゝ無礼致し候不悪(あしからず)御容赦下され度候いづれそのうち拝顔の上万縷申述度く取敢御返事旁(かたゞゝ)御喜びまで。早々拝具

田中早苗氏宛 六月二十三日発

 御懇書嬉しく拝誦致しました。その後は久しく御無沙汰いたし申訳御座いません。実は先月末より腰痛に冒され仰臥を余儀なくされいまだにぶらゝゝ致して居ります。
『夜鳥』愈々出来実に嬉しくてなりません。昨夜拝手いたし実に気持よく出来たことを御喜び申上げます。地下のルヴエル氏も定めし喜びませう。一二篇まだ読んでないのがありますから早速貪り読みました。近日中通読いたしたいと思つて居ります。ことに英語で読んだまゝのものは、記憶もぼんやりして居りますから、はつきりさせて置きたいと思ひます。健康がすつかり恢復しましたら読後の感想を書かせて頂きます。
 奥附印はよい思ひつきでした。私は二十種ばかり出しましたが、一度もそこへ思ひついたことはありませんでした。何にしてもすべてに於いてあなたの好みがよくあらはれてゐるやうに思ひます。この上はたゞ一部でも余計に売れてほしいと思ひます。
 まだ少し身体が苦しいですから、本日はこれで失礼いたします。とりあへずお喜びまで。

西尾紅二氏宛 七月二十七日発

 拝啓
 その後御無沙汰致しました。一昨日岡戸君に日比野寛先生の通信原稿をもつて大兄をたづねてもらひましたところ生憎御留守で原稿は尾池先生に給仕の人に届けてもらふやう預つて来たとの事でした。実は岡戸君に逢つてもらふつもりだつたのが、さういふ都合でしたから色々申さねばならぬことも申し上げないで来た訳で、こゝで一寸申上ます。
 日比野先生の通信はこれからもまだ来ると存じますから御誌に御厄介になりたいと思ひます。尾池先生へは一寸手紙を添へては置きましたがこの点大兄からも御頼み置き下さい。日比野先生は小生宛原稿を送られ、小生に然るべく書き直してくれるやうとの事ですが、やはり日比野先生の特有の文はこのまゝの方がよいと思ひ、なるべく手を触れないことにしました。俳句の方は原稿がきたなかつた(※2)書き直して差出しました。又本文の方には日比野先生の名を逸しましたから『日比野寛』と御書き入れを願ひます。どうか尾池先生にくれゞゝもよろしく。

白井喬二氏宛 八月二十一日発

 残暑厳しい折柄大兄には益(ますゝゝ)御健勝御活動何よりに存じます。今晩久し振りで国枝史郎氏に逢ひましたところ、大衆文学全集の話に移り、全集に加入せる人たちが、大兄に意外な御心配を相かけし由を伝へ聞き、実に驚き入りました。
 只今午前二時、帰宅して早速これをしたゝめる訳で御座います。一つには私が知らず識らずの間に大兄に対して、御無礼を致しはしなかつたかと気遣ひ、今一つには私の大兄に対する心持を明かにして置きたいためで御座います。
 先般甲賀君より印税配分に関する相談の委任を求められ甲賀君の人格を尊重して、万事よろしく頼むと申し置きましたが、今晩国枝氏の話によれば甲賀君は実に意外な意見を建てられし由、全く私としては後悔致したので御座います。甲賀氏が印税等分といふやうな事を申し越されしに対し、私は、皆さまがそれに賛成なれば兎も角、たとひさういふことになつても、自分の作が出ない先に受取ることは気持が悪い旨を申し伝へて置きました。さうして私はそんな説は到底成立すべきものでなくまた成立してはならぬと思つて居りました。
 ところが一部の連中はその不成立について大兄そのものをせめるやうな態度に出たときいて、私は心外に思ふのみならず憤慨の情に堪へないのであります。
 今回の大衆文学全集は全く大兄一人の御力でなりたつたものと私は認めて居るばかりでなく、私ごときが全集に加へて頂いて意外な大金を頂戴することの出来るやうになつたのは、実に大兄の御蔭で御座います。何の労力を費さずして大金を得るといふことは実に勿体ないことゝ思つて居ります。さうして私は大衆文学全集に加はつた人が委く私と同じ心で居るものと思つて居りました。それだのに大兄の御恩を思はず大兄をせめるとは実は言語道断の卑しさだと思ひます。
 冷静に自分の作品の価値を考へたならば大部分の人は、大兄の光輝の余沢を蒙つて恥かしながら全集へ顔出しをさせて頂いたに過ぎぬと思ひます。自分の作品の拙なさをもつて他人のことを云ふのは僭越かも知れませんが、これは恐らく局外者から見ても動かぬところと存じます。それだのに大兄に対してその様な態度を執るゝは実にけしからぬことゝ思ひます。大兄も定めし意外に思はれたことでせう。御世話になる時だけ勝手に御世話になつて置いて、お金のことになると、過去を忘れるといふのは実に見苦しいことだと思ひます。今晩国枝氏から承つたとき、何だかそれ等の人々にあいそがつきかけて来ました。さうして、若しや私も大兄にあいそをつかされて居りはしないかと、気になり出しました。で、この際私の心持を御伝へ致して置きたいと思つて筆を執つた次第で御座います。私の心持は国枝氏もよく了解して下さつて居りますが、名古屋の二人は決してそのやうなさみしい心を持つて居ないことを御信じ下さいませ。
 大兄が今回のことに関し一方ならぬ心痛をされしときゝ、実に何といつて御慰めしてよいやらわかりません。然し、やがて大金を受取つた暁には、みんなが眼がさめて大兄の御恩を感ずるだらうと思ひますからどうか御気にかけないやうにして下さい。要するに優れた人は万人の嫉妬を買ふといふ通則に基いたはかない現象に過ぎませんから、この際暫らくの時間を眼をつぶつて下さいませ。
 書きたいことはまだ尽きませんが、とりあへず私の申し上げねばならぬことだけを申し上げました。切に御健在を祈上げます。

江戸川乱歩氏宛 十一月三十日発

 拝復廿四日に小生宅にて四人集合、それから電車で新舞子国枝氏宅を訪ひ、後舞子館で夕食をとりました。小生のみ帰宅あと三人は舞子館にとまられました。東京出発前平山さんに電話をかけてもらひましたがよく通ぜずとの事でした。大兄が来られないので小生は殊更さびしい思をしました。大切にして下さい。来月は仕事のない限り会はやすみます。
 ヒキの方先日みんなに話しました。無論その條件で結構ですから博文館に約束して下さいませんか、題名変更は大兄に一任します。出版部の人と相談して然るべく御きめを願ひます。
 寒くなつたから大切にして下さい。そのうち一度名古屋へ来てくれませんか、小生目下研究室に詰めきつて原稿書きはやめて居ます。委細は後便に。

(※1)正しくは昭和3年1月2日付(実物確認済み)。
(※2)原文ママ。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)