メニューに戻る

書簡

昭和二年

飯野至誠氏宛 一月五日発

 御手紙拝見致しました。私も風邪にかゝると一ヶ月位なほりません。然し昨今は風邪にかゝることが少なくなりました。私は随分厚着致して居りますが、厚着のために風邪ひき易いといふことはないやうです。
 風邪引き易い性質だといつてあきらめてしまへばそれきりですが、私は風邪は睡眠中に引き易いものだと考へて居ります。睡眠中は意識が働きませぬために寒暑に対する適応性がにぶくなりますからそのために風邪をひき易いと思ひます。起きて居る時は意志の力でどうにでも適応出来、めつたに風邪はひきません。それ故私は夜寝るときに甚深(しんじん)(※1)の注意を払ひます。私は毛糸のシヤツとチヨツキをきて寝ますがそれが為肩は決して冷えず近頃は風邪をひきません。又腕や足首を知らぬうちにフトンの外へ出して居ると風邪をひくのです。ですから私はあなたに寝て居られる時の気候の変化に対して工夫して下さることを望みます。冷水摩擦とかその他のものはあまり効がないと思ひます。尤も一方に於て身体が強壮になつて行けば全体の抵抗力が増しますから風邪をひかなくなる筈ですが当分は睡眠に対して工夫して見て下さい。きつとある程度まで防げると思ひます。とりあへず御返事まで。

南信好氏宛 一月三十日発

 先夜は態々(わざゝゝ)御出席下さいまして恐れ入りました。度々御芳書忝なく拝聞致しました。春陽堂と愈愈御契約の趣何よりに存じます(。)(※2)一日も早く御出版の程祈り上げます。とりあへず御返事旁(かたゞゝ)

江戸川乱歩氏宛 二月十八日発(※3)

 江戸川兄
 その後はまことに申訳ない御無沙汰を致しました。度々春陽堂の捺印に御立合を煩はし恐縮に存じます。とくに御礼を申上げようと思ひながら失礼しました。といふのは大兄の長篇執筆中、わざと遠慮して居りました。
 さうして先達(せんだつて)、横溝君から健康を快復されたときいて早速喜びの手紙を差出さうと思ひましたが、柄にない探偵小説の劇化に一月以来ひまをつぶして、これ又、失礼してしまひました。
 ところが昨日波屋書房の宇崎君が立寄られ大兄が又少し脈搏の頻数を来されたときゝ、久し振りにこの手紙を書くことになりました。『一寸法師』も愈よ映画になり何よりに存じます。こちらでも『疑問の黒枠』を映画にしようといふ計画がありますけれど、まだどうなるかわかりません。探偵小説が追々劇化され、映画化されて行くことは御互に愉快なことで、何とかして、その方でも物にしたいと思ひます。
 十九日より大阪の波花座で拙作『紅蜘蛛奇譚』が上演されますので二十二日に春日野君の発起で探偵趣味の会の人が観劇会を催ほしてくれるさうです。是非出席せねばならぬと思ひますが、まだ健康が許さないやうですから出席出来ねば代理を出さうと思ひます。
 探偵小説も昨今は落つくところへ落ついたといふ感があります。それと同時に、この機運を持ち続けるためには長篇小説をどしゝゝ出産せねばならぬやうに思はれます。ですから、この際大兄の健康を切に祈つてやみません。脈搏の頻数などは週期的に来るもので捨てゝ置けば自然に治つて行くと思ひます。どうか安心して執筆に従事して下さい。
 色々申し上げたいことがありますけれ(※4)本日はこれで失礼します。
 御令室様によろしく。

那須茂竹氏宛 二月十九日発

 珍鳥御贈り下され感謝に堪へません早速拝味しました。
    鴨鍋やつゝましやかに隣の子
 来る二十四日はさちの礎の例年の会に御出席のことゝ存じます。小生もそのつもりですからこちらの例会は又やめることにしました。同人氏へ電話で御知らせ下されば幸甚です。

江戸川乱歩氏宛 二月二十日発(※5)

拝復
 丁度入れちがひになりました。これも昔の以心伝心又はテレパシーの現象かも知れません。御元気な筆蹟を見て杞憂に過ぎなかつたことを知り愉快に思ひます。その調子でやつて下さい。
 二十二日に探偵趣味の会が開かれ、春日野君がどうしても来いといひますので行かねばならぬかと思ひます。新らしく書きおろした方ですと万難を排しても行かうと思ひましたが、といつて折角皆さんが集まつて下さるのをすつぽかすのも悪く一寸困りました。
 東京ではいつやるともわからぬことになりました。新作は大衆文芸の四月号に掲載してもらひます。若し東京でやることになりましたらよろしく願ひます。
 大衆文芸全集にはとても頁数が足らぬので、づつとあとにしてもらひ『疑問の黒枠』やこれから書くものもいれて貰はうと思つて居ります。
 甲賀兄の御元気には感心します。よほどの決心だと思ひます。私など遊び半分といふ気が抜けないのですが、甲賀兄の決心を思ふと、少しは真剣にならねばならぬかと思ひます。尤も又、大兄ほど真剣では、私など一たまりもなく健康を崩してしまふと思ひますが。叱られるかも知れぬけれど、どうかラクな気持で書いて下さい。
 大兄から御手紙を貰つたので久し振りに愉快な気持です。妻もいつも心配して居りました。よろしく申してくれとの事です。

尾見薫氏宛 四月十二日発

 拝復
 昨日電報をいたゞいたとき、『ケフト』とあるのに少しをかしい思ひました(※6)が、今日御手紙而も代筆の御手紙に接してびつくりしました。
 別府に御ゐでになることゝ思ひ、愈々御達者に暮して御ゐでになることゝ思つて居ましたのに、御手紙を読んで実に驚きました。知らぬことゝはいひ乍ら、御見舞をもしなかつた自分を悲しく思ひました。巴里であれほど御世話になり乍ら、いますぐ御そばへ飛んで行き得ない自分を尚更悲しく思ひます。然し一度是非御目にかゝりたいと思ひます。御目にかゝつて、もう一度必らず恢復していたゞきたいと思ひます。
 闘病術の最後に書いて置きましたとほり、私は巴里で受けた御恩を決して忘れ得ません。あの時のことはいまだにありゝゝと私の記憶に残つて居ります。紅いつゞじの花を頂いたときのうれしさは心に永久に残つて居ります。そのつゝじの咲く季節が今や目前に迫つて居ります。あのときはもう二度と助かるまいと思つて居ましたが、御旅行先より絵葉書を下さつて『天は君を殺さぬ』と書いて下さつた言葉は私に力をつけてくれました。さうして今は曲りなりにも生命をながらへて、逆に私が御見舞状を書くことになりました。
 どうしても恢復してもらはねばなりません。手術のために御衰弱になつたやうですが、一定の時期を過ぎれば、又順調になるのではありますまいか。いや、これは私が申し上げるまでもないことかも知れません。私も素人の病人に対するやうな通り一ぺんの慰めの言葉は申し上げますまい。たゞ私も帰朝以後随分あやふい瀬戸際に接して来まして、どうにもならぬ場合にはどうにもならぬと痛感するより外はないと思ひました。どうにもならぬと痛感したとき救(すくひ)の手は来ると思ひます。ですから、救ひの手のあることだけは信じて下さい。救ひの手を否定する態度はとりたくないと思ひます。
 又、一方からいへば死は安楽の世界です。ですから私はそれを最後の楽しみになるべくさきへたばつて置きたいと思ふのです。苦しみ抜いたあげくの最大慰安としてとつて置きたいと思ひます。かういふ考へ方は、御心に副はぬかも知れませんが、これは今の私の心持であります。私の身体も爆弾を抱いて火に近づいて居るやうな危険に絶えず面して居ります。然しいつ破裂しても救ひの手を信じ苦しみを貪つて死を遂げようとするでありませう。生を貪るのは生の安楽を貪るのではありません。生の苦しみを貪るので御座います。
 かうはいひましても、いざ病気となると私も恐らくいろゝゝ心が迷ふでせう。まだ私は病での苦しみ方が足りないために、かうしたのんきなことをいつて居るのかも知れません。
 病中の御感想は、是非々々承りたいものです。さうして御容態を、出来得る限りしばゝゝ聞かせ頂きたいものです。『春告鳥に別れの歌をうたへ』といはれる御心持は、私の胸をゑぐりました。
 私はいま巴里の病床の日誌を繙きました。当時詠んだ歌を二つ三つ御目にかけます。
    身の終り遠からじとぞ思ひけるグラスを充てし血をながめつゝ
    また来むと契りし友の来る日のみ待たれて逢へば話し得ならず
    夢さめし暁鳩の声きけば身を仰向きにふるさと思ふ
    今日もまた仰向きのまゝ暮れにけり車馬の響の絶え間なくして
    『覚悟せよ』と妻に送れる文の中帰る予定の日取書きたり
 何と仰せになつても、私は御恢復を信じ且つ祈つてやみません。そのうちに必らず御目にかゝります。
 花をお送りしたくも、遠隔の地でありますから意に任せません。別便で花かごを送りましたから、それに花を盛つていたゞきたいと思ひます。
 書きたいことは山と尽きません。追々書きます。御家族皆様によろしく。

尾見總子氏宛 四月十二日発

 拝復、いまだ拝顔の栄を得ませんが、何かしら久しい以前より御目にかゝつて居る気が致します。
 御主人様には巴里で肉親も及ばぬ御厄介に相成り本当に私一代御恩を忘れません。ところが図らずも今重病にて御臥床の由承り、実に何ともいへぬ焦燥の念に駆られて居ります。何とかしてお目にかゝり度いと存じます。
 御介抱なし下さる御許様の御心中は実に御察しするにあまりあります。今日も御手紙を家内に読みきかせたところ、むかし私が危篤に陥つたことを思出して、奥様の御心を御察しすると申しました。私はパリーから帰つて間もなくインフルエンザ肺炎の為に危篤に陥りました。医師はインフルエンザと申して居りますが、多分結核の方も手伝つて居つたことゝ思ひます。けれども最後まで私は希望を捨てずに、看護婦を指図してカンフル注射をいたしまして、とにも角にも一応生命をとり止めたので御座います。
 医学を修めたものはよく見切りをつけ易いので御座いまして、私は見切りをつけることに反対で御座います。どこまでも世に執着したいので御座います。死はもとより厭ふ所ではございませんが、生き得るうちは生きたいと思ふので御座います。これは死を恐れるといふよりも死を辞せない迄も生に執着する態度だと思ひます。どうか御主人様もさういふ態度になつてほしいと思ひます。死を覚悟するといふことは死に近よるといふことではないかと思ひます。まだ年齢わづか五十四歳であらせられるではありませんか。全く人生はこれからといふ時で御座います。病気といふものは医師が考へるとほりに進行するものではありません。とても駄目だとあきらめることは危険だと思ひます。どうかあくまで希望を持つて頂きたいと思ひます。
 それにしても御手紙によりますと、かなり御重態のやうに伺はれます。胸の苦しさは充分御察し出来ます。ことによると、今の御主人様の苦しみに比べれば、私共の苦しんで来たことなどは、御話しにならぬ程度かも知れません。然しながら生命の瀬戸際を彷徨するときの心持は、よほどの程度に相似てゐるかと思ひます。いつ恢復するかわからぬ病を持つときの一種の恐怖は、到底経験しないものでなくてはわかりません。
 それと同時にさういふ重病人をはたで見てゐる肉親の心持もかなりに私は痛感出来るので御座います。私の家内が睡眠不足と食不振に陥つて、たゞならぬ顔色をしてゐたことは今でも思出さずには居られません。さうしてある点に於いては、病人そのものよりも病人を看護する人の心持が数倍苦しいかと思ひます。奥様の御心持を御察しします。
 然し、私は奥様にあくまで希望を持つて頂きたいと願ふのであります。はたの人があきらめるのは一層病人を寂しくします。私はいつも作り元気でもよいから自分で元気を出し、また家内にも元気を出させて居ります。笑ふ真似をすれば可笑しくなると同じく、作り元気を出せば、それがやはり真の元気に到る導きとなると思ひます。どうにも方法のない病気にかゝつた時は、捨てゝ置けばよろしいが、それかといつて死ぬつもりになることは賛成したくありません。どうか、私の意のあるところを御主人様に御告げ下さいますやう。この手紙を御読み伝へ下さらば幸甚で御座います。
 私もこれまで通り一ぺんの慰安の言葉を度々受けて来ましたが、そんなものは少しの慰安にもなりません。だから私も先便に申しましたとほり、形式的な慰安の言葉は申し上げません。ですから以上述べましたところのものは、私の偽はらぬ病気に対する態度で御座います。私が御主人様と同じ程度の病気になりましても、きつとこの態度をとるつもりで御座います。
 もとより人間の考へ方は、個々のもので御座いますから、かうなさいといふのではありません。又さういふだけの資格をもちませんが、たゞ参考にはして頂けるであらうと思ひます。
 神仏に祈る心持に対しても、私はかなりな理解をもち、自分でもその気になつて居ります。私は御主人様の御恢復を切に祈るものであります。
 今日は御主人様への御手紙を別には書きません。どうかこれを御一緒に御読み下さいますやう。
 御序での節御容態の経過御知らせ下さらば幸甚に存じます。
 私は熱がある時、どうにも食べることが出来ず、家内を困らせた経験があります。御食事は奥様の御心配の種だと思ひます。御食事の進むやう祈つて居ります。

竹内芳衛氏宛 四月十六日発

 拝復御無沙汰致しました。
 懸賞小説御当選御祝申上ます。私の短評を添へて置きましたが編輯の都合上のせられなかつたと見えます。『あのうちで一番小説になつて居るのは貴作だ』といふ意味でした。
 大抵の作は一種の教訓を含めたいはゞ甘いもので小説となつて居りませんでした。
 いづれ第二等以下掲載されますから御比較下さらばわかると思ひます。
 其後子供の歯は些のみ痛みを覚えませんのでつい伺はないで居ります。春の休み中にと思つて居ましたが休み中、少し身体をいためて居りましたので機会を失ひました。そのうちに御厄介になりに参ります。
 そんな訳で一度御礼に伺ふのも差控へて居るので御座います。よろしく御諒恕願ひます。乍末筆(まつぴつながら)御令閨様によろしく御伝へ下さいますやう。
 委細は拝眉の上に譲ります。

尾見薫氏宛 四月二十日発

 其後いかゞで御座いますか。
 今、私は午前零時半書斎でこの手紙を認めて居ります。ガラス張の書斎の窓から下弦の月をながめてあなたの御苦しみを思つて居ります。
 奥様の御手紙により先夜月光を賞せられしときく、実になつかしい思ひをしました。病床で眺める月ほど意味の深いものはありません。たゞゝゝ無心に照つて居る月が、病に臥すとき如何に多くの思ひを私たちに与へることでせう。月を見るとき、私はどんなに苦しんだときでも、生き甲斐のあることを痛感せずには居られませんでした。いたづらにセンチメンタルな心になるよりも、私はこの冷たい月が、いふに言へぬ力を与へてくれるのを覚えました。
 月を見て寂しい思ひを抱くのは私一人ではありますまい。然し私は寂しさを痛感したとき、いつも偉大なる力を感ずるのであります。人皆東するとき我たゞ一人西せんといふ気持は、どれだけか私に内在せる力を喚起してくれたことでせう。生れて来たのもわれ一人、死ぬ時もまたわれ一人、この思ひに徹したとき、真に迸ばしる精神力を感じ、大きな安心を得ます。
 私はこれといふ宗教を持ちませぬでしたが、よく念仏を唱へました。これは闘病術の中にも書いて置きましたが、パリーで大いに唱へました。さうして何かしら打ちくつろいだ気持になることが出来たのであります。寂しさを痛感した時に起る偉大なる力も、結局は大自然に救はれたための安心かと思ひます。
 だいぶ御苦しい御様子御察しします。而もそれがながいのですから、到底私では談ずる資格のないほどの苦しみであるだらうと思ひます。奥様の御手紙を通じて想像した御苦しさは、私に息づまるやうな思ひを与へました。それは酸素吸入をした時のことを思ひ起したからであります。あの時私は看護婦を指揮してカンフルを注射せしめ、もし心臓衰弱のために意識を失ふやうなことがあつから(※7)、叩いてもなぐつてもよいから、鞭撻してくれと申して一夜を切り抜けましたが、それでも二三度数分間意識が朦朧と致しました。如何にあの時私が生に対する執着が大きかつたかわかります。
 眠りがさめた時の恐ろしい気持、恐らく今あなたもそれを痛感なさつて居られるでせう。私は大咯血をした時、眠りのさめた時の恐しさを避けるために、永久に眠らぬ方法はないかとさへ考へ、それから遂にパントンを味ふことを覚えてしまひました。強がりを申して居りますものゝ、つくづく自分の弱さを嘆かざるを得ません。
 いやこんなことを書いて却つて暗い気持を致させはせぬかと案じますが、苦しいときに苦しんだ話をきくのも面白かつた経験がありますからふと申上げました。
 一度お目にかゝりたいと思ひます。それまでには元気を恢復しておいて下さい。病といふものは或る頂点をさへ耐へれば、再び順調に入ることが出来ると思ひます。
 又、書きます(。)(※8)

尾池義雄氏宛 五月七日発

 御手紙及び玉作拝誦致しました。
『診察室』は感銘深く拝読致しました。十分舞台効果を持つ作品と存じます。
 西尾君への御ことづけ拝承しました。実はあの御作を拝誦して私も誰にやらせたらよからうかと考へて居た矢先で御座います。
 早速その道の人と相談して一日も早く上演されるやう奔走致します。
 委細は西尾君から御聞き下さいますやう。いづれ拝眉の上万縷申述ます。

豊田氏宛 五月十六日発

 御手紙忝く拝見致しました。その後打絶えて御無音に打過ぎ誠に申訳御座いません。御主人様御他界の後はや一年を経過致しましたが、この間は嘸々御淋しく、御悲しき日を送りたまひしことゝ御察し致します。御子さんは御達者で御座いますか。承れば御令弟様にも御他界の由何といふ御不幸続きで御座いませうか、実に御くやみする弁(ことば)がありません。
 二三日前御主人様の追想の事の書を送つて頂きました。御写真を拝して今更ながら感慨無量で御座いました。エハガキの漫画さながらにその光景をうつし出して御主人様の姿を目前に躍動させました。日誌と数々の御歌拝誦し、新らしく涙をそゝられました。追想録には私も感想を書かせて頂くつもりで居ましたところ、怠慢の内に時を過してつい残念してしまひました。いつも雑誌に書くときは〆切間際に先方から催促がありますので、その式に思つて、時を過してしまつたので御座います。あしからず思召下さいますやう。
 私は御蔭様にて恙なく暮して居ります。随分多忙な日を送つて居りますので、皆様に御無沙汰勝になり申訳御座いません。近頃は通俗小説ばかり書いて居りますので、娯楽雑誌以外には自然遠ざかり勝で御座います。
 どうぞ、時折御たよりも御聞かせ下さいますやう。
 御子さんの健全に御育ち遊ばすやう心から祈つて居ります。

岡本綺堂氏宛 六月一日発

 拝啓益々御健勝欣賀に堪へません。
 御高著『江戸子(えどつこ)の死』忝く拝手致しました。
 御厚志のほど切に感謝致します。
『虚無僧』と『新宿夜話』はかねて御発表当時に拝読致しましたがその他の四篇ははじめてゞ御座いまして直ちに拝読いづれも深い感興を覚えました。重ねて御礼申上ます。
 大正八年たしか先生は英国に見えましたと覚えて居ります、その時丁度私は(六月に)アメリカからロンドンへ渡りまして、伊坂梅雪さんに御目にかゝりました。大正九年の五月パリーで持病に襲はれまして、生命のあやぶまれた頃、正木不如丘君が先生の『雨月集』を病床の友にすべく私にくれました。咯血になやみながら、その間の小康の時間に、御作を読んだ当時のことがはつきりと印象に残つて居ります。『雨月集』は転地先のアルカシヨンへも持つて行きました。先日あの中の『播州皿屋敷』を名古屋で市川左団次氏一座が上演し、それを見て感慨無量で御座いました。『雨月集』は繰返し繰返し読みましたので『正の娘』や『箙の梅』などはつきり頭に残つて居ります。その節私もかういふものが書いて見たいとしきりにその欲望にかられましたが、それは及びもつかぬことで御座います。昨今つまらぬいたづらを始めまして、冷汗につかる次第で御座いますが、何かと御教へに預りたいと思ひ居る矢先『江戸子の死』を頂いたことは本当によろこばしく存じます。どうぞ今後もよろしくお願ひ致します。とりあへず御礼旁(かたゞゝ)

尾見總子氏宛 六月四日発

 御手紙と御心尽しの御形見御写真本日忝く拝手いたしました。
 御手紙は繰返しゝゝゝ拝読して泣いて了ひました。家内も拝読して眼をはらしました。
 御逝去後、御手紙を差上げて御慰め申(まをし)あげようと幾度か考へましたけれども、それは却つて御悲しみを増すものと思ひ、先日もたゞ簡単に申上げた次第で御座いました。
 御写真を拝見し、パリー時代の御顔をちつとも変つて居ないのに驚きました。五日後に大病で没せらるべき御顔とはどうしても思はれません。家内も一瞥した時はよほど前の御写真かと申したくらゐで御座います。平素よりあまり御ふとりでありませんでしたせゐもありますが、何といつても病中の御忍耐とあの強固な意志と決心とが然らしめたものと、今更ながら敬虔の念を深くすると共に、いよいよもつて奥様の御悲しみが想像されました。あのやうな大往生を遂げ給ふ御姿は、却つて想像するだに断腸の念にかられます。解剖の結果を御伺ひして、よくもそれ位の容態に御たえになつたことゝ奇蹟的な気が致します。思へばパリーで御世話になりました時、すでにもう多少癌の初期で御座いましたでせうか。然し何といつてもあの時は元気で御座いました。本当にこの御写真の顔と、パリーのホテルの一室に午前一時まで、私のスヤゝゝ眠るのを見て居つて頂いた時の顔とは少しの変りもございません。
 大連病院を御やめになつたのも多少御苦痛があつた為で御座いませうか。私が病中であつたとはいへ、帰朝後先日まで御無沙汰してしみゞゝ御手紙を差上げなかつたことは後悔に堪へません。それに御生前に御目にかゝり得なかつたのは、尚更残念で御座います。
 然し今となつてはもう何とも致し方が御座いません。たゞこの写真を永久の友として追憶のよすがと致し度いと思ひます。私も一度はこのやうな目に逢はねばなりません。遅かれ早かれ、魂となつて此世で御目にかゝり得なかつた残念さを、償ふこともあると思ひます。
 御形見は何と御礼申上げてよいやらわかりません。直ちに着用いたしましたところ、行たけぴつたりあひました。西の空を向いて暫らく祈念をこめました。命のあらん限り大切にして着用させて頂きます。あらためて御心づくしを感謝いたします。
 御写真を拝見しますれば御子様御三人、極めて御壮健に存ぜられます。何よりの事と存じます。然し大きい悲しみの後には、御力落しもあることですから、皆さま御身体を御大切になさつて下さるやう祈り上げます。
 わけて奥様には、御逝去後から今日まで、随分御心労遊ばされたことで御座いますから、今の心の緊張を御失ひにならぬやう漸次御疲労御恢復を祈ります。気の引き上げは何より大切で御座います。どうかがつかりなさいませぬやう。
 当分はやはり今後も京都に御住ひでございませうか。もし名古屋に御用がありました節は何なりとも御下命下さいませ。
 尚、私も機を見て御霊前に額づきたいと思ひますが、もし当地にお出で下さるやうなことが御座いましたら、是非一度ゆつくり御目にかゝつて、故博士をしのび申上げ度いと思ひます。
 申上げたいことは尽きませんが、今日はこれで失礼致します。家内からくれゞゝもよろしく申上げました。
 二白、もし当地へ御いで下さいますやうでしたら、一寸御ハガキを頂きたう御座います。わかりにくいところで御座いますから、地図を書いて差上げたいと思ひます。

豊田氏宛 六月二十日発

 御手紙繰返しゝゝゝ拝誦して今更ながら悲しみを新(あらた)に致しました。この四月に『闘病術』の最後に書いてありますパリーで私を世話して下さつた尾見薫博士が死亡され、今また、御主人様の身に接して本当に暗い心になりました。尾見博士は御逝去三週間程前から、私に代筆で書を寄せられて苦しさを語りあひ幾分なりとも御なぐさめすることが出来ましたけれど、御主人様にはつい私の前回の手紙さへその御耳に触れなかつたのはかへすゞゝゝも残念で御座います。御臨終の有様や医化学教室の研究態度を拝読して、今更ながら、なつかしさに堪へません、あのやさしい落ついた態度と御風貌はいまもなほ私の目の前にちらつきます。それにしても、前途に大きな仕事を残してあまりにも早く逝かれましたことは、何といつてもこの心をあらはすべきかに迷ふほど悲く思ひます。
 妻は御手紙を読んで泣きました。私も幾度か生死の境に彷徨したことがありましてその折々の遣瀬ない思ひを真に痛感して居るからであります。
 御葬式その他で嘸々御疲れだつたで御座いませう。その御疲れが去ればこんどは寂しさが襲つて来ます。本当に御察し申して居ります。
 論文通過と学位授与が御本人の身に入らなかつたのは残念ですけれども、御主人様は通過を確信して居られたことで御座いませうし、もつとゝゝゝ大きなところに眼をつけて御ゐでになつたでせうから、その大きな仕事を為し得なかつたところに心残りがあつたゞけだと思ます(※9)
 若し私が東京に居りましたら、きつと御目にかゝり得て多少の御慰めになつたゞらうにと、それだけ遺憾で御座いますが、これは今はもう及ばぬことで御座います。
 どうかこの上は御身を御大切に御嬢様を無事に御育て下さいまして、いつゝゝまでも故人の御霊をなぐさめて御あげ下さいませ。
 色々申し上げたいことも御座いますが、今更御悲しみを新たにするのも不本意で御座いますから、今日はこれで失礼致します。
 今後若し御話が御座いましたら、時折御消息を御もらし下さいますやう。
 なほ水上兄に御逢ひの節にはくれゞゝもよろしく御伝へ下さいませ。

本田緒生氏宛 六月二十三日発

 御手紙忝く拝手致しました。御心配相かけ恐縮に存じます。今年一月末から『面会謝絶』の札を貼り、○○○○○○達のユスリを避けて居りますのを横溝君が知らないで帰られた訳で御座います。何でも家内が横溝さんを見たさうですけれど、顔を忘れて居て呼び戻すことが出来ず残念しました。
 今日は『疑問の黒枠』のロケーシヨンがあつて自動車で市中を走りまはりました。
 さう云ふ訳ですから、どうか御心配下さいませぬやう、そのうち一度御いで下さいますやう。

福井野紅氏宛 七月十三日発

 拝復、先般は私のわがまゝのため態々(わざゝゝ)遠路を御たづね下さいまして恐れ入りました。大入袋忝く拝手いたしました。伊井さんの御病気もその調子でしたらもはや心配すべきでないと思ひます。どうか御逢ひの節、よろしく御伝言を願ひます。
 夏は御芝居のシケと存じます。ことに昨今急に暑さがまゐりまして、観劇も一苦労で御座います。只今水谷八重子氏が当地に来て居ります。
 どうか木内さんによろしく御伝へ下さいますやう。とりあへずご返事旁々。

某氏宛 七月十八日発

 拝復
 咯血の際は何ともしなくてもよろしいが、氷で冷すと、気持がよいから私などはいつも氷で冷します。血がとまつてから、血痰が出ますが血痰が出なくなつて三日過ぎたら起き上つてよいと思ひます。それから漸次馴れて行つて散歩に移ります。
 咳は無論出るのがあたりまへで、咯血後もとどほり出るのはあたりまへのことです。ふと気分が悪くなつて食事の進まぬことはよくあります。夜分でも散歩はちつとも差支ありません。気分が悪くなつたとき寝るのは当然のことで無理に起きて居る必要は毫もありません。闘病術も決してそれをとめるものではありません。
 のぼせの為顔の赤くなるのをとめる方法はこれといふよい方法がありません、然し別に身体には差支のないものですからむしろその侭に捨てゝ御置になるとよいと思ひます。のぼせるのは肺病の際どちらかといふとよい現象だと思ひます。
 私の著書は色々ありますが、みんなかたいものばかりで御すゝめして読んで頂きたいと思ふものがありません。来春には闘病問答といふようなものを書きたいと思ひますからその節には読んで頂きたいと思ひます。

尾池義雄氏宛 七月二十五日発

 拝啓
 酷暑の節愈々御健勝御多忙の御事と存じ上げます。
 偖先般来色々御配慮を忝くし感謝に堪へません。御電話を頂いて、早速マキノ中部配給所へ問合せましたところ、京都のマキノ氏へ問合せたといふ返事がまゐりましただけで今以て返事がまゐりません。
 マキノ氏自身私の許に依頼に来られたので御座いますが、その後の様子を察すると、一時中止するのではないかと思ひます。(これは私の想像に過ぎませんが)もとより私としては中止になつても何の不愉快をも感じませんが、若しさうとすれば新聞掲載は無意味になりますから、掲載は中止して頂きたいと思ひます。
 本日この手紙を同時に中止するのか否かの決定的返事をくれるやう手紙を出しましたが、若し二三日中に返事が参りませんでしたら断然御掲載中止にして頂きたいと思ひます。映画界といふものは随分勝手次第に予定変更をするときいて居りますから累を万朝報社に及ぼしては申し訳御座いません。マキノとしては万朝報に掲載されゝば全国的になつてよいと思ひますが、どうも致し方御座いません。
 近日中に若し愈々上映の手順にするといふ返事が参りますれば御願ひするとしさもなくば御中止下さいますやう、甚だ乍勝手(かつてながら)右御含み置き願ひます。
 委細は拝眉の上に譲り申上ます。

橋本はな氏宛 八月七日発

 拝復。此頃は折角はるゞゝ御いで下さつても何の風情もなく失礼しました。本当に久し振りで愉快でした。もつとゝゝゝお目にかゝつて居たかつたのでしたが、又の日を待ちます。雨が降り出して来たから、到底途中下車は駄目だらうと思つて居ました。
 無事御帰京何よりです。挙に引かれぬやうにして下さい。歌集の方は私にまかせて置いて下さい。それから御身辺のことがきまり次第御一報下さいませ。私は『もとの鞘へ』を願ふのですが若しひとり立ちでといふことならばこちらでもさがして見ます。
 御身大切にくらして下さい。家内よりくれゞゝもよろしくと。

横江主計氏宛 九月二十四日発

拝復
 今後は右手を強く動かす運動は一切御つゝしみになることを御すゝめします。それから腹壁を運動させて腹の力を強くして下さい。腹式呼吸といつても呼吸とは無関係になるべく肺をつかはぬやうに腹式呼吸を御やりになるとよいと思ひます。
 早く妻帯なさつてもちつともかまはぬと思ひます。二十五歳まで待つ必要も理由もないと思ひます。どうも将来の注意などゝいふことは御身体に接しないでは御答へが出来兼ねます。又事が置きました(※10)御返事することにしませう。

米田庄三郎氏宛 九月二十五日発

 拝復
 脊椎カリエスは立派にかたまります。ですからこの際今少しギプス床においでになつて、X光線で見て、もうよいといはれる迄医師の命ずるとほりの安静にしておいでになることをおすゝめしたいと思ひます。脊椎カリエスの経過は長いこともあり、極めて短いこともあるやうに聞いて居ります。ギブス床は奏効顕著ときいて居りますから、今暫らく辛抱して御覧なさい。必ず喜ばしい結果を得ると思ひますから。ことに段々なほりかけた御様子ですから愈よ有望だと思ひます。

木村晴三氏宛 十月十五日発

 御送附下さいました印と画たしかに拝手致しました。印は実にうれしく思ひました。画も結構です。
 十五日から拙作脚本を河合武雄氏一座で新富座で上演しますので大多忙をきはめゆつくり筆とつて居れません。いづれ委しくは後便に。

白井喬二氏宛 十月二十日発

 拝復其後申訳なき御無沙汰に打過ぎて居ります。益々御健勝の御事と存じます。
 偖御配慮を煩はしました、小生の集は第十一回配本と決定されました由、平凡社編輯部から通知がありました。この意外に早き喜びに接するにつけても大兄の御骨折を思はずには居れません。とりあへず御報告を兼ねて、感謝の意を表します。
 秋が深くなつて、私ども弱い身体のものにとつては実に気持のよい季節となりました。御蔭さまで私は至極達者に暮して居りますから、他事乍ら御安神を願ひます。
 先は右申上度く、御健在を切に祈上ます。

江戸川乱歩氏宛 十一月二日発(※11)

 拝啓その後御無沙汰致しました。
 偖突然のことですが、探偵小説界も大衆小説界もどうやら千篇一律になつて来ましたから、この際どうしても局面を展開する必要があります。之れについては本当の意味の合作をして二人以上の人が十分練り合つて、昔の浄瑠璃作者のやうにして、いゝものを多量に製産するに如くはないと思ひます。それで国枝氏と相談した結果双方非常に乗気になり、国枝史郎氏は土師氏を誘ひ小生は大兄を御誘ひ致しこの挙に賛して頂きたいが如何でせうか。無論各自単独のものを発表することは従前通りにして、或は若し都合よかつたならば当分合作専門で進んでも、大衆を喜ばせさい(※12)すればよいと思ひますが、如何でせうか。差し当りこの四人でないと一堂に一定期日間参集することが出来ぬのですから、殖す必要あれば後に殖すとして、とに角素晴らしい作品を提供したいと思ひます。先に連作をやりましが(※13)、連作は尻取りですからいけません。本当の合作をして若し成功すれば大衆芸界(※14)を一時風靡し得ると思ひます。又それ位の意気込がなくてはなりません。探偵小説と髷物及び大衆劇といつたものをも製産したいと思ひます。西洋の大衆小説合作はヂューマ、探偵小説の合作はリースやスーヴエストルなどすでにやつて居りますが、日本でははじめてゞ御座います。
 二月号から私は新青年に長篇を約束しましたが、若し出来たらこの合作で行きたいのです。とに角この手紙と同時に横溝君へ、大兄たちの御賛成なくとも国枝氏と小生合作で書くことに申出ました。いづれにしても、大兄の御意見を御伺ひ致したいので御座います。一方に於ては創作的の修行にもなり、単独でもいゝものが書ける気が起きるかも知れません。とに角御賛成を切望します。

(※1)原文ママ。「深甚」の誤植か。
(※2)原文句読点なし。
(※3)底本では「大正15年」の項に掲載。正しくは昭和2年2月18日付(実物確認済み)。
(※4)原文ママ。
(※5)底本では「大正15年」の項に掲載。正しくは昭和2年2月20日付(実物確認済み)。
(※6)原文ママ。
(※7)原文ママ。「あつたら」の誤植。
(※8)原文句読点なし。
(※9)原文ママ。
(※10)原文ママ。「ら」の誤植。
(※11)底本では「昭和3年」の項に掲載。正しくは昭和2年11月2日付(実物確認済み)。
(※12)原文ママ。
(※13)原文ママ。
(※14)原文ママ。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)