御ハガキを読んで僕も雀躍(こをどり)した。書物の見つかつたことよりも君の心が軽くなつたゞらうと察して。
僕も高等学校時代に友人から借りたワトソンの物理原書を盗まれ、偶然古本屋に発見したが……その犯人が僕の知つた生徒とわかつたときには、もはや学校当事者の耳に入り、他にも同じやうな罪が重なつて居たので、その人は放校に処せられ、誠に苦い経験をしたことがあります。名古屋商業の生徒にもきつと苦しいゝゝゝ事情があるのでせう。僕もあつて見たい気がします。労働学校のこと結構です。いづれ委しくは面語の上に話しませう。暇なときにやつて来たまへ。
御手紙うれしく拝見致しました。実はあなた御自身が御出で下さるのではないかと心待ちにして居た位です。といふのは今朝森下氏から、あなたに私の住所を知らせたからといふ通知がありましたから。
『財布』も『呪はれし真珠』も『美しき誘惑』も皆私の記憶に残つて居ります。そして今更ながらなるほどとうなづきました。新趣味や新青年にあらはれた日本の作家の作品は皆読んで大抵は記憶して居るつもりで御座います。そして、これまでそれ等の作家と話すことが出来たらどんなに喜ばしいかと思つて居りました。ところがあなたをこの名古屋の地に発見して私は実に何ともいへぬうれしい思ひになりました。先日も江戸川乱歩氏が訪ねて来てくれまして正午から夜分まで語り合ひました。若しあなたの宿所がわかつて居たならば早速通知して来て頂いたものをと今更残念に思ひます。
新青年の四月号に発表される作品は首を長くして御待ち致して居ります。私も実は皆さんに刺戟されて女性の『四月号』(本月中旬発売)に純創作(いはゞ処女作ともいふべき一篇)を寄せて置きました。今後はやはり創作の方に主として活動したいとさへ思つて居ります。
名古屋にも探偵小説の同好者があるだらう、あればそれ等の人としんみり語つて探偵小説のために尽したいなどかねての念願で御座いましても、私自身殆んど門外不出のために、その意を得ませんでしたが、あなたに逢へることの出来るのは此上ない喜びです。一日も早く否一刻も早く御ひまを見つけて来て下さい。
私を御訪ね下さることならば御家庭でもさほど反対はありますまい。などと勝手な理窟をつけて拝眉の節を御待ちする次第です。私は毎日在宅、冬中は決して外出しませぬから、あまり朝早いか、あまり夜遅くは床の中に居ますがその他の時間ならばいつでも来て下さい。唯一人の御友人の方をも是非御つれになつて下さい。『財布』の感想も又海外小説の話などもその時ゆつくり致しませう。
あなたの御年を承りますと丁度私はあなたの十歳の年長なることを発見致しました。が趣味の上に年の長幼はありません。まして芸術的才能に於ては私の方が遙かに後輩です。とにかくまあ早く顔を見せて下さい。
玉稿『心理試験』繰返し拝読しました。いつもながらのプロツトの巧みさに心から感服致しました(。)(※2)実にいゝ所をつかまれたものと思ひます。叙述にも内容にも寸分の隙もありません。たゞ低級な読者はあまりに高尚だといふかもしれませんが、錦を見て高級な人でも低級な人でも一様に感服すると同じく、かうした上品な作物を示すことは読者にとつても極めて有益であらうかと思ひます。
ひいき目で物を見ると正鵠を失するかもしれませんが私はあなたの凡ての作品を、海外の名篇と比して少しも遜色のないものと見て居ます。『D坂の殺人事件』はたしか『新青年』一月号に出る筈でまだ拝見して居りませんが、あとの作品は一つ残らず熟読しよく記憶して居ります。そしてあなたは探偵小説作家として十分立つて行くことが出来ると確信して居ます。作品の紹介は森下さんが喜んでやつてくれませうけれど私も及ばず乍らいつでもその労をとりますから一つ今後はその方面に専心になつて見られたらどうです。
玉稿
30頁のphygmographはsphygmographの誤ですからなほして置きました。膝の関節を軽く打つて生ずる筋肉の『痙攣』は生理学上の用語からいへば『■(ちく)(※3)搦』とするのが本当ですが『収縮』として置けば攣痙(※4)よりも適当です。尤もこれは『膝蓋腱反射の多少を見る方法』とした方が医学的には正しいかもしれません。
四月号にはまだ一両篇御書きになるとの事是非拝見致したいものです。玉稿は別封御かへし致しました。御健在を祈り上げます。
(※1)底本では「大正14年」の項に掲載。実際の執筆年月日は大正13年11月29日(実物確認済み)。編集者の誤読か?
(※2)原文句読点なし。
(※3)手偏に「畜」。
(※4)原文ママ。「痙攣」の誤植。
底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)
(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)