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書簡

大正十二年

桑原虎太郎氏宛 四月二十日発

 拝復、高堂皆様益々御健勝欣賀此事に存じ候。古畑兄の学位記愈々到達の趣奉賀(がしたてまつり)候。もつと早く渡さるべき筈なりしも御不在中のことでもあり、又目下輻輳の由にて遅れ候事と存じ候。皆様の御喜び御察し申上候。小生其後御蔭様にて無異暮し居り候間憚り乍ら御安意賜りたく候(。)(※1)
 独逸よりは屡々御便りあり先日も二月二十日出の長き手紙を受取り申候。益々勇健の趣にて同慶至極に存じ候。光陰矢の如く最早古畑兄の留学期も半分過ぎ申候。帰朝後の御活動定めし目覚しきものと今より期待致し居り候。
 末筆ながら高堂皆様に宜敷御伝令下され度(たく)先は御祝ひ旁々御返事迄如斯(かくのごとくに)御座候。

森下岩太郎氏宛 五月二十八日発

 貴電本日拝手、がつかり致しました。やはり尿毒症だつたらうと、今更ながら哀悼の情に堪へません。定めし御力落しのことで御座いませう。父上様の御悲歎もさこそと御推察致します。謹みて御くやみ申します。
 御病中、御逝去後随分後疲労の事と存じます。どうか、御身大切に願ひます。
 御霊前に何か御供物をと思ひますが、又あとで御配慮をかけるのが心苦しいのですから、当方の仏壇の前で御母上様の冥福を祈ることにします。
 御家には老祖母様もあらせられ、今後のことも何かと御心配の御事と存じます。いや、もうどうも御同情致します。何だか悲しくなつて筆がよく運びませんから、これでやめます。
 どうか、御父上様始め皆様に私の言外の情を御伝へ下さる様……妻ともゞゝ御くやみ申し上げました。
   五月二十八日午後                          光次

 森下畏兄侍史
 二伸 田舎ですから、特別扱でないと電報が翌日配達されまして、御発信後二十四時間目に受取つた次第です。

江戸川乱歩氏宛 七月三日発

 御手紙うれしく拝見致しました。御親切な御言葉を切に感謝致します。森下さんから『二銭銅貨』の原稿を見せて頂いたときは、驚嘆するよりも、日本にもかうした作家があるかと、無限の喜びを感じたのでした。私の眼に誤りがあるかもしれませぬけれど、あなたには磨けば愈(いよゝゝ)光る尊いジニアスのあることを認めて居ります。どうか益(ますゝゝ)つとめて下さい。『創作のために費さるゝ時間の少い』といふことは如何にも残念ですが、あなたのやうな見方で人生を観察さるゝ方は、『無味乾燥』な生活のうちにも題材は得られませうから、怠らず心懸けて下さるやう御願ひします。
 私はドストイエフスキーが大好きですが『カラマゾフ』や『罪と罰』にはやはりあなたの仰しやるやうに探偵小説的色彩の多いために、引きつけられます。語学などは仰せの通り暗号を読むと同じ気分になつて始めて興味が湧いて来ます、私は高等学校時代に梵語をかぢつて見ましたが、限りない面白味を感じました。一時は辞書のない言語で書かれた記録を読む学問(広い意味の考古学)を研究して見やうかとさへ思ひましたがたうとう医学を修めるやうになつてしまひました。然し幸に動物実験といふ楽しい探偵的の仕事をするやうになつてから、多少なりとも好奇心を満足させられましたが今はかうして静養して居る身の実験室から遠からねばならぬやうになりましたから、探偵小説や犯罪学をかぢつて、せめてもの慰安として居るやうな訳です。どうかこれからどしゞゝ立派な作品を生産して私を喜ばせて下さいませ。
『恐ろしき錯誤』発表の日は待ちかねます。『赤い部屋』は出来上りましたら是非拝見致したいものです。今後はこれを御縁によろしく御交際を御願ひします。とりあへず御返事迄(。)(※2)

那須茂竹氏宛 八月三日発

 拝復早速診断書御送り下さつて有難う存じます。厚く御礼申上ます。
 御句は、原稿にそのまゝ評を書きました。上に○◎のつけてあるのがいゝ句です。
 とりあへ(※3)御返事迄。委細は拝眉の上に。
 ◎今下りし山見返へるや秋の空
   大によろし
  蟇(がま)這ひ出づる夕暮時や夕立雲
   蟇の方に印象を奪つて置いて、夕立雲と来るので少しまとまりがありません。
  遠雷や吹かれて巣蜘蛛ちゞかまる
  遠雷や巣に残る蜘蛛のちゞかまる
   蜘蛛は雷にちゞかまらないと思ひます。唯(だれ)(※4)かの句に、『雷に尻を向けたる……』といふやうな句がありました。
  樹々騒がして冷え来る風や夕立雲
   冷え来るといふ言葉改むべきと思ひます。
 ○雨暗き夜の梢明りや稲光り
   梢明りといふ言葉、よく用ひられて居りますが、常用語でしたらこの句佳し。
  棕櫚の葉のもがく風雨や稲光り
   棕櫚を芭蕉にしても句が出来ます。
  雷雨晴れて雨垂れの音澄みにけり
   澄みにけりは概念的な表現です。
  雷雨やみて牛追ふ話夜更たり
   牛追ふ話は蚊帳の中でせうか?
 ○黒蜻蛉群れとびて蓮田澄む真昼
   すむといふ言葉何となう落つかぬ気がします。
  紅蓮の中に白蓮光る朝
   奇にともし。
 ◎蝋燭の火来る蜂や雷雨の夜
   大へんいゝです。
 ◎夏果を樫の木に来る蜂の数
   数の字面白し。
 ○秋海棠咲き初めて夏の別れ哉
   面白いです。
  手作りの茄子出来すぎて配りけり
  雨一過紫紺色なす茄子畑
  瓦ゐざりて歪める屋根や夾竹桃
  夾竹桃広がり咲くや鶏屋かな
  苔湿める木深き庭や蝉の声
  朝顔に露けき小庭掃かれたり
   この六句には、これはといふ自然の発見がありません。
 ○朝顔の花に微風や内玄関
   一寸よろしい。
  朝顔の花や露けく透き徹る
   この表現がパツとしません。
 ○朝顔の花なめらかに揺るゝ風
   何んとなく面白いです。
  夏の疲れを鉢朝顔に甦る
   言葉に足らぬところがあります。
  朝顔に日々清新の思あり
   朝顔以外のものでも清新の思はありさうです。

那須太郎氏宛 八月五日発

 御芳書嬉しく拝誦仕り候。先日は暑さにも拘はらず御光来を忝うし恐縮に存じ奉り候。
 御高吟繰返し拝誦、御始めになりてより日なほ浅からぬに、この御上達実に驚入り申候。つとめて進み給はば、末恐ろしき伎倆に達し給ふべしと察し奉り候。中にも
  行水や時をはぐれし鶏の声
  内川や梅雨の晴間に四つ手網
  吹井戸に瓜冷しある野茶屋かな
  水番の土橋に寝たり夏の月
  京を出て野辺帰り行く日傘哉
などうれしきものに思ひ候。
 小生も昔は俳句を試みしこと有之(これあり)候へ共、近頃は雑筆に忙はしくて試みるひま無之(これなく)、名古屋へでも移り住み候後は始めむかとも存じ候。宜敷く御教示に預り度く願上候。
 当方へ御越になる節も有之候はゞ今度ゆつくり俳話承り度く楽しみに御待ち申候。
 乍末筆(まつぴつながら)御令室様によろしく御伝言下され度候。

(※1)(※2)原文句読点なし。
(※3)原文ママ。
(※4)原文ママ。「誰」の誤植。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)