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書簡

大正八年

田村利雄氏夫妻宛 一月一日発

 田村兄、御無沙汰は許してくれるでせう。近来は筆不精になつて相済まぬゝゝゝと思ひながら、ついつい申訳がない。お茶に塩あられ、また郵便では娯楽世界の不思議揃ひで、今下宿の室は兄の好意が充満してゐる。
 今日は一月一日だ。故国の春を思ひてなつかしさに堪へぬ。安藤君が先日愈々帰国の途に就いて、何かあつらへたいと思つても今は税関が困難で残念でした。その仔細はいづれ安藤君から聞いてくれるでせう。宮崎兄は今英語を頻りにやつてゐる。多分この四月の末か、五月始めには一緒に、又は殆ど同時に渡英し得るつもりだ。アメリカの見物も満足した。早く旧大陸の文化に接して見たい。
 兄の仕事も大分出来たとの事、何より喜ばしい。早く書いて纏めて下さい。又、午後のみといふ説も止むを得ないことゝ思ふ。平和になつたら欧洲留学の途が開けるだらうから留学といふことも望ましいが、その辺は木下先生や永井先生と相談して下さい。早く英文(又は独文)で発表するやう切に御願ひする。書くといふことも一つの仕事だ。
 先日ボルチモーアの石田君が人殺しをやつた。何れ仔細は新聞で見てくれたことだと思ふ。昨年は何分留学生に故障の多い年だつた。早くアメリカの土地を去つた方がよささうだ。渡英前自分はアイフイラキシーの仕事に取りかゝる様目下準備中だ。昨年の後半は自分にも兎角故障が多かつたが、今年こそはと今は勇気に満ちてゐる。今日は新年の書き初めこれにて失礼する。さよなら。紐育にて
                              光次
          ○
 奥さん、度々の手紙を読みつ放しは本当にひどいと思召すでせう。何もヤンキー・ガールに魅せられて気がボンヤリしたといふ訳ではありませぬが、英語をしやべつてゐると兎角日本語の手紙がお留守になりがちで、などゝキザな申訳も立たぬでせう。種々のものを頂戴して何から御礼申上げてよろしいやら、御父さんが病気で苦しまれたさうで定めし一時は御心配でしたでせう。宮崎兄から委細は聞きましたが、それから既に時が経つて宮崎兄とあなたの御噂をいろゝゝし合つた事など、今は覚えて居りませぬ。純ちやんがだんゝゝ活溌になると聞いて何より喜ばしいです。望も一時ハシカをしたとかですが、何でも夜よく寝ないで母親を困らして居るそうです。夜よく寝ない所などは、父の遺伝ですな。塩煎餅は四十八時間以内に平げましたが、御茶は下宿の連中と御好意を未だに味つてゐます。
 一月一日だといふに雨がふつてゐます。安藤兄の方がこの手紙より先に到着せられるので、いろいろ御聞き下さることと存じます。誂へたいものがありましたけれどそれが出来ず残念でした。勝手なことをいふやうですが、どうか度々御手紙下さいませ。楽しみですから、純ちやんによろしく御身大切に。

柴田萬吉氏宛 六月十三日発

 明日倫敦着の予定で今日太平洋を横ぎりつゝアイルランドの島影を目前にこの書を認めつゝある。この気持はアーヴイングのスケツチブツクの第一章に書かれて居るからそれに譲る。
 欧洲大陸を踏む心地を察してくれたまへ。

田村利雄氏夫妻宛 十月十二日発

 田村兄
 八月末日出の御芳書昨朝嬉しく拝誦した。と同時に自分の怠慢がかくまで兄を煩はしたことを思つて実に慚愧にたへぬ。実際英国へ来てからは故国を顧る隙のない程も忙しく且つ楽しく(?)暮して居つたから――といふと叱られるかもしれぬが、殊に奥さんから――ついゝゝ諸方へ無沙汰勝になつて了つた。然し自分の前二回のカードは皆無事受取つてくれた事と思ふ。
 何分英国へ来て十日後に研究室入りをしたので、まだロンドン見物が碌々すまない。巴里へは十月の末と予定してゐたが、今のところとても今一ヶ月位では出かけられさうもないから、ことによつたら今年一杯はロンドンに滞在するだらう。研究は遠からず片づくつもりだが、その以後少し道楽?として英国医学史をかぢつて見たいと思つてゐる。英国の医学は従来あまり日本に紹介せられてゐないのを自分は非常に残念に思ふからだ。
 健康は益々良好で、心身共に爽快だ。アメリカより衛生的設備には乏しいが、然し東京で暮すよりは、冬なども遙かに容易だと思つてゐる。
 先日鐵道従業員のストライキのあつたことは新聞で見てくれただらう。然し自分には一向痛痒を感じなかつた。独逸との交通も自由になつて、来年の夏には是非伯林でも見物したいと思つてゐる。今から思へばアメリカの滞在が少し長過ぎたかもしれぬと残念に思ふ。今の気分ではもう二三年海外生活がしたいと思つてゐる。
          ○
 奥さん、御手紙有難う御座いました。随分英国へ来てから怠慢になつて、諸方から御小言を頂戴します。英国は実に気に入つて了ひました。また怒られる種かも知れぬが少し気に入り過ぎましてネ……もう夏も早や過ぎて、ロンドンでは冬着に冬外套、ガスストーヴの期が来ました。然しロンドンへ来てからはや四ヶ月になりますが、少しの暑いと思ふこともなく、愉快に勉強が出来ました。いろいろやりたいことがありますので、本年一杯は当地で勉強しようかと思つて居ます。もう留学期も僅かに八ヶ月半となりました。心細くて仕様がありませぬ。
 すみちやんは愈々大きくなつたでせう。一度写真を見せてくれませぬか。自分の坊も随分腕白を発揮してゐるやうですが、何分こんなに遠くてはチヨイと抱きに行くわけにも行かず、また(※1)父たるの感じが明瞭でありませぬ。
 寒くなりますから随分御大切に。これからは少し筆まめに心がけます。
                              ロンドンにて

田村利雄氏夫妻宛 十一月二十七日発

 新年でないうちから謹賀新年も面白くないが、やつぱり正月の気分は正月に味つて貰つた方がよいと思つて、こゝに御目出度うを申さん。
 神戸で濱田君に逢つた御葉書有難く拝受した、安藤兄との共同開業大いに賛成だ。その如何に発展せしや御報知(おしらせ)を乞ふ。自分は相変らず無事に暮らしてゐる。英国滞在は今一二ヶ月のびることだらうと思ふ。彼これしてゐるうちにはや国を出てまる二年、今更ながら月日の早くたつには驚かされる。然し過去の月日も至つて平凡に暮れたのは返すゞゝも残念でならぬ。英国での小さい仕事も大方片づき、十二月の半頃にグラスゴーに出かけて行つて鳧をつける筈になつて居る。宮崎、佐々両君も至つて健在だ。逢ふ日がなかゝゝ少い。
ロンドンには、いま約二十人近くの医者連中が集つて居る。瑞西はまだひどいさうだ。留学といふのも変梃な現象だ。まあしかしいつの頃でもかくの如くであらう。
 英国はアメリカとちがひ、日本人には気に入る所だ。独逸なら今一層よからうと思ふ。来年の夏はベルリンから通信し得るだらうと思つて居る。一緒に日本を出た千葉の松本教授も十二月にマルセーユを出帆する。あの時の横浜の光景はまだ眼の前にチラついて居る。今日はこれで失敬する。御身大切に。
          ○
 奥さん、愈々正月ですネ。純子さんの年が一つふえる。定めしかわいゝでせうな。英国はカードが盛んですから、カードを行ふ度毎に竹早町の夜を思ひ出します。其後は御変りありませぬか。英国が気に入つてまだ動けない始末です。今一二ヶ月ロンドンの空気を吸はうと思つて居ります。
 かういふことがやりたいと計画したことの一つもなし遂げることは出来ませんでした。あゝ人間の命がもう少し平均して長いものだつたらよろしからうにと思つて居ります。東京は人民が生活といふことに目覚めて今更の如くに騒いで居るやうですが、これも時節でせう。
 霧はこの地の名物ですが、まだそんなに屡々遭ひませぬ。寒いことは日本の一月位、寒さ凌ぎにはアメリカよりも不便です。
 どうか御身大切。純ちやんによろしく。
                              ロンドンにて 光次

(※1)原文ママ。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)