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書簡

大正五年

田村利雄氏宛 三月九日発

 御手紙ありがたう。嘗つて片瀬の方へ君から端書が来ていろゝゝ心を労して居るとの事を聞いた時、大凡その事情は推してゐた。然し多年自分の切望してゐた兄(けい)の妻帯が実現して衷心から喜悦に堪へられぬ。在京せば何かとまた及ばぬ力でも尽すべきであつたにと思ふ。縁は意想の外にあるもの、誠によかつた。遅ればせながら茲に祝辞を述べる。
 自分の病気は昨今依然としてゐる。まだ咳嗽(がいそう)も少しはある。一月以来体重は約一貫目近く増加したけれど、患部はまだ病的機転が残留してゐると思ふ。
 生理教室の助手も辞職することに決した。そして一年でも二年でもよいと言はれる迄静養するつもりだ。そしてその間にボツゝゝ生来読み残した専門外の書籍を読むつもりだ。自分は今全くの農民の資格に変つてゐる。医師たるの観念を去る時、心の中から新らしき生食の泉が滾々として湧きいづる。医学者たるの自覚を除くときは、何等の栄達の心も、名聞利養の念もなくなつて了ふ。もし幸ひして健康旧に復して他日世の中に活動し得るに至らば、自分が今次の病中に得たる所のものは、無限の微笑を以つて回顧せらるゝであらう。
 四月には一度上京したいと思ふが、それとも田舎が恋しければなほ当分のうち止まるかも知れぬ。もう心の中に何等の悩みも義務的観念もない。然し一度兄が新閨にはなるべく早く御目にかゝりたいと思ふ。尚時折消息を聞かせて下さい。食慾もあるし気持もよい。少しも無理はしない。たしかに近き将来に於いて病魔を退治し得ることを確信する。どうか安心して下さい。余寒なほ厳し幸に御自愛あれ。目出度き御成婚式の早く来らむことを祈る。草々。

柴田萬吉氏宛 七月十日発

 今月初より又もや田園の人となり申候。徒然なるまゝ詩作に従事致居候。近詠二首左に御示し申上候。

 六十余年妙法門 杖刀瓦石血乾坤
 怒(※1)折伏三千界 日本男児日本魂
   詠親鸞
 称名飛錫普西東 教化有情徳不窮
 法喜洋々似春海 一天四界慕高風

 右御一笑被下度(くだされたく)候。祈健勝(けんしようをいのる)

柴田萬吉氏宛 八月二十五日発

  柴田君        不木
 良友貽吾風景園 奇山清水総仙都
 楊縫翠樹架雲嶺 泉迸青巌琢髪膚
 不辱関東耶馬称 当迎洛北頼襄徒
 難禁神往恨無翼 詫筆陳情附便夫

 洛北頼襄の徒は蓋し君を以て擬する也。請ふ自愛加餐せられよ。小生幸に健、貳旬(じじゆん)ならずして面語し得るを楽しむ。閑窓兎角寂寥の感あり。天を仰げば秋気清し。

(※1)口偏に「虎」。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)