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書簡

明治四十四年

古畑種基氏宛 一月廿七日発

 大切な友に消息を怠つたのは只管後悔の至りであるが、実のところ何だかだと忙しさに胆を潰して取るものも取り敢へずに二十日あまりはバタゝゝと暮れて了つた。
 暖かい玉章(たまづさ)を下宿の二階で受取つて比叡山の移り香を嗅ぎながら、今は東京に居て京を思ふ身と化した。同時に愛宕山から吹き下す刃風、脛凍る寄宿舎の寝室を想像して、今君が小使室の近傍を足早に通り過ぎて総代室の戸を右から左へ力を入れて開けてゐるなどゝ記憶の中に創り出されて面白くもあり、又嬉しくもある。今夜の夢に何時もよく見るその成行を空な事ながら祈る気になつた。
 三高の近状は大抵諸方面から承つたが、何だか寂寞の感がありはすまいか。何卒昔日の旺盛を恢復して貰ひたい。偏に頼む。総代に選ばれたとのこと、大に牛耳つて貰ひたい。寄宿舎の改善に努力して貰ひたい。何だか責任があるようなものゝ一方痛快なやうな点がある。大いに奮つて気焔をも吐くがよい。小生は目下解剖実習で忙しい。死体の相手をしてゐるのも一寸変つて面白い。腹截ち割つて内を寸切々々(ずたゝゝ)に裂くのも一寸趣味あるやうであるが、考へて見ると振つた話でもなささうだ。然し、小刀を掴んで皮膚に疵つけむと構へた時は、一種の異様なる感情が胸に浮んで来る。僕は今までに上脚の筋肉を終つて、火曜日から下脚に取りかゝる順序なのだ。
 千里眼問題はなかゝゝ怪雲の層が深く取り巻いて居るらしい。いづれにしても突飛なことは珍しがられるものだ。要するに一般の人々がこの能力を具へるに非らずむば疑問は解かれぬ事と信ずる。しかし僕は同時にその暁は近きにあるべき事と信ずる。
 ×××××の死刑、君のいふ如く痛快だつたけれども、彼等も幸福である。死の早かつた丈け幸福である。もし生きのびて居たら法網を逃れむに就いて幾多の苦心が必要であつたであらう。一面からいつて日本にとつても幸ひだつた。お互に胸を落着けて安閑と眠り得るやうになつた。
 弱きは死すべし、邪者は除くべし、我等の五体が蔵するある物は外気の冷ゆると共に益々熱を蓄積して行くのである。お互に奮闘して強者正者はた優者の地位に立たうではないか。
 東京は先日大雪があつて、それから陽気は幾分か暖かに感ずるに至つた。今は何といつても最上なる時季、何卒御自愛専一に勉強あれ。まだ言ふべきことの万分の一をも尽さないのに我筆がいと乱れた。不尽不終。

古畑種基氏宛 二月廿五日発

 其後は御無沙汰した。相変らず御活動のことゝ推察する。暖気追々に増し至極暮しよくなつた。万物春めいて勉強してゐても心地がよい。僕は例の如く無事であるから御安心を乞ふ。吉原も活発に勉強して居る。先日も僕の所で長く語つた。君の噂を始め、京都の懐旧談で持ち切つた。今頃は東山に霞棚曳いて見る目も楽しいことと思ふ。
 先日古沢氏からいろゝゝと書いて手紙が来た。君が骨折つてくれるとて喜んで来た。どうか厚く奔走してやつてくれ給へ。東京に居てはかゆい所へ手が届かぬ有様だから何分よろしく頼む。それから君も聞いたであらうが神辺が病気で寝てゐるが、彼は誠に寂しく気の毒であるから殊に僕が当地に来てゐるため、親しく慰めてやる事が出来ぬので、古沢君が神辺の事はよく知つてゐるから、僕の代りになつて神辺の処置方針に就て相談してやつてくれ給へ。平にお願ひする。
 今迄は君に黙つてゐたが、君も或ひは聞いたかも知れぬから告げるが、実は昨年末より数百頁のつまらぬものを書いて日出新聞に出したのだ。小説を作るとは言はれともなかつたから、黙つてゐたのだよ。今日もはからぬ人から言はれて、東京の方でさへ知つた人があるからもう駄目だ。然し君にはもし掲載になつたら知らせようと思つたが、今日一寸附け加へて置く、もとより匿名だから一般には知れないが、なるべく包んで置いてくれ。今迄君に言はなかつた罪は幾重にも謝す。毎日二時間宛の閑を貯へて書いたのであるから、勉学には少しの差支へにもならなかつたから安心してくれ。
 それから失礼だが三部三年(現在)の生徒の姓と名とを書いてなるべく早く送つてくれないか。先日前川昌三氏に寄宿舎宛で出して置いたが届かぬか一向返事がない。同氏は退舎でもしたのか、序にその事も知らせて貰ひたい。(序に三部三年の組長は誰がして居るか知らせてくれ給へ)それから君の写真があつたら一葉御送附を乞ふ。
 誠に突然いろゝゝなことをお頼みするが、どうかお願ひする。
 第二学期も三分の二を暮して了つて何かと君も忙しいであらう。十分身体を大切にして勉学してくれ。林先生にお目にかゝつたら精々よろしく申上げてくれ。
 本日は用向だけで失礼する。右の条々ども宜敷頼む。他は後便に。

古畑種基氏宛 三月一日発

 写真を有難う。
 それがよしや一葉の紙片なりとも僕は甚だ心強く感じた。
 開いて見て「よく出来てゐる」と思つた。それを緒として湧き来りたる緒情は決して筆に現はし得べきものではない。昨夜十一時半頃迄所用あつて他出して居つた。帰つて見るとあの一封、取る手遅しの文句は古いが、轍は同じ変らぬ思ひとでも言ふべきであらう。君が写真に打向ひて飽くまで思ひの縷(いとすぢ)を辿つて居つた。
 夜半の隔てにて世は三月の春を迎へた。月改まれば気もまた新也で、自ら清々した窓前の揺れ葉を眺めて茲に第一に友に筆を取るのであつた。
 反魂香のそれではないが、姿を眼の当り見ることは如何程嬉しきものぞ、交す玉章(たまづさ)は千束に余れども今君が姿を前に据ゑて書く心地は亦何に譬へむやだ。声のみ聞きて姿は見えずと嵯峨の枯野に泣く蟋蟀ではないが、今迄の僕は全くさうであつた。君よ察せよ、僕の嬉々の情を。
 思出す繰言は常に変らねども、今君の姿を前に控へては過去数年の洛陽の生活が夕日の如く荘厳の色を帯びて脳裡の海に照り渡つた。重ねていふ迄もないけれど、懐しきはその往にし年の事にこそ、寂しく独想に耽るとき偶ま情の凝りて悲観を呈する時太息化して訴歎の声となりし事は屡々であつた。君よ、重ねていふ、今日よりは心強き生活がなし得ると。
 光陰は脱兎の如く、瞬くまに二月も過ぎて了つた。名残惜しとも思はぬ心は疲れたのかもしれぬけれども我等の生活は大抵無意味なる日数がハウプトロルンをスピーレンしてゐる。たゞ来らむ日を期して慎重なるべきである。
 先日はいろゝゝ煩はした。前川君から報知は来たから安心してくれ給へ。三高の椿事は嘸かし全部の人を騒がした事であらう。僕も以外(※1)に思つた。
 寄宿舎の茶話会はとくに済んで君等も重荷を下したことであらう。けれども総代といふ役は面白い。大いに振つてくれ給へ。
 林先生が病気であるとか、軽いといふ話だから御見舞状は出さぬが、君より面語の節よろしく申してくれ給へ。神辺も気の毒で君にも心配をかけるが神辺も何分頼るべき人が少いから君や古沢君を力にするであらう。僕が京都に居た頃には及ばず乍ら彼の一身の相談にも与つた。今や離れて彼も寂しみを感じて居るだらう。君よ、僕の代りとなつて彼を慰めてやつてくれたまへ。病床に横はる人は健康な人が気づかぬ点まで覚知し得られ且つ健康な人の喜びよりも数倍の嬉しさを感じ得ることゝ思ふ。同時に健康な人の悲しみよりも数倍の悲哀を嘆くものである。不遇なる彼神辺は飽く迄運命の翻弄するに委せてゐる。人間は極端に迄運命のために押しつめらるゝのである。何卒よろしく彼の為に願ふ。
 追々季節も定つて何となく長閑な空気が田野に充満するに至つた。蒼空に向つて嘯くにも都合よき季節となつた。叡山も嘸かしよいであらう。君よ、彼の山に向つて吟ぜよ。然らば我れ聞くを得む。
 近来は解剖の実習などで、思想の方面にはさしたるボイテも無い。今日これから大学の記念式に出て、一高の寄宿舎の飾り物でも見に行かうと思ふ。うらゝかな春日が障子に昇つて筆が異様に動く。君よ、今日はこれにて失敬せむ。書かば際限なき也。後便に譲るを可と思ふ。
 君よ、奮発勉学せよ而も一方には身体が大切也。
 二伸 南寿君、林良君、内藤君によろしく申上げて下さい。

(※1)原文ママ。

底本:『小酒井不木全集 第十二巻』(改造社・昭和5年5月21日発行)

(リニューアル公開:2006年2月28日 最終更新:2006年2月28日)