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※チェスタトン「孔雀の樹」の内容・真相に触れています。

孔雀の樹に就いて

 国枝史郎


 最近読んだ内外の作で、最も感銘の深かつたのは、小酒井不木氏翻訳のチエスタアトンの「孔雀の樹」です。探偵小説としての筋立てから云つても、(非常に新鮮では無いにしても)一流の作に属す可きもので、最後の殿様ヴエーンの出現や、医師ブラウンが真犯人で無いなど――いや一切この事件に犯罪が無かつたといふことなどは、最後のカーテンのおろされるまでどんな読者でも考へられなかつたでせう。謂ふ所の龕燈返しが用ひられて居るが、龕燈返しのための龕燈返しで無くて龕燈返しをすることに由つて、人生的乃至社会的の意味を裏付け、強調した点などは、以て範とすべきでせう。現はれて来る人間が、みんな哲学者だといふ事なども、チエスタアトンの作らしく、甚だ愉快といふ可きでせう。つまり作者は登場人物をして作者自身の思想なるものを、代弁させてゐるやうです。もう一つ此作での特色は、その人間の現はし方が、対象的(※1)であるといふ事です。地主に対する小作人、詩人に対する批評家、迷信者に対する科学者等、実に巧に出来て居ります。往々此種の作品は「拵へ物」としての欠点を暴露するものでありますが、是には夫れが見られません。さうして此作は暖くさへあります。含蓄を持つた無数の警句を縦横に駆馳してゐる点は、チエスタアトンとしては常套ではあるが、しかし矢張り頗る愉快で、時々案を打たせられます。光彩派の絵でも見るやうに、人物風景がクツキリと、陰影を持つて現はされて居るのは、チエスタアトンの描写の筆の、優秀であることを思はせられます。詩人と令嬢との恋愛をはぶき、唐突に結婚を持ち出して来たのは、ツムヂ曲がりのチエスタアトンらしく、私にはひどく愉快でしたが、恋愛好きの読者には或は不満かもしれません。仏蘭西の作家にでも書かせたら、或は二人の恋愛描写に全力を注いだかもしれません。
 探偵小説といふやうなものも、単なる思ひ付やトリツクばかりに終始してゐたでは駄目だといふ事や、作家が思想家でないことには、可い探偵小説は出来ないといふことを、このチエスタアトンの「孔雀の樹」は証拠立てゝ居るやうです。
 探偵小説の作中へ、思想質を織り込んでも、充分面白いといふことや、探偵小説が芸術化されても、又一義を目差しても、決して興味を失はないばかりか、一層面白いといふこと等をも、この作は証拠立てゝゐるやうです。しかし或は此作をも、「死の爆弾」を非議した人達は、同じやうに非議するかも知れません。
 面白可笑しい物ばかりが、大衆物の目的ではありません。だが大衆は何ういふ作を、要求してゐるかといふことは、知る必要がありませう。その大衆の要求に投じ、面白可笑しく読ませることに由つて、大衆物へ食ひ付かせ、面白可笑しく読ませてゐる中に、作者の思想を読者に伝へ、以て味方とし同志とする。かうでなければならない筈です。さうしてチエスタアトンの「孔雀の樹」は、それにピツタリあてはまつた物だと、尠くも私には思はれます。小酒井不木氏の訳筆が、流麗であるといふやうなことは、もう云ふ迄もありますまい。

 

(※1)本文ママ。

 

底本:「新青年」大正15年4月号