「自伝」(小酒井不木 『中京朝日新聞』 大正15年1月?)
父の老年の時分の子であるから、私の記憶に残つて居る父は「老人」の一語に尽きる。頭のつるりと禿げた、あから顔の人で私は小さい時分、父親といへばどこの父親でも必ず頭の禿げて居るものだらうと思つたりした。
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父は私が物心ついて以来村役場につとめ、長らく村長をして、晩年には郡会議員に選ばれたりしたが、どんな役をつとめても、決して農業を捨てなかつた。五六町歩の田地を所有して居て、勿論その全体を自作することは出来なかつたので大部分は小作人に作らせてゐた。従つて一方では所謂地主であつたが、自ら田面に出て耕作したので、農民の生活状態は十分知つて居た。然し父は、別に農民の生活を研究するとか、或はその他の野心をもつて農業に従事するのでは決してなかつた。即ち父は農業に従事したくてならぬので従事したのであつて、換言すれば、父は『百姓』が好きでゝゝゝならなかつたのである。
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収穫の時の父のうれしさうな顔は今でも忘れることが出来ない。稲を苅る、ハサにかける、稲こき女にこかせた籾を庭一ぱいにムシロに干す、よく乾いた籾を土臼にかけて下男たちと挽く。塵埃が雲のやうに立つ中でカンテラの光のそばで土臼を挽きながら土臼歌を歌ふ声はまざゝゝと私の耳の底に残つて居る。父は声がよかつた。若い時分に高座へあがつて音頭を演じたこともあつた位で、機嫌のよい時は、いつも『傾城阿波の鳴戸』を音頭できかせてくれるのであつたが、そのよい咽喉で土臼歌をうたふのであるから、いふにいへぬメロデーを冬の夜の澄んだ空気に響かせて聞くものゝ胸を躍らせた。
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勿論父は勤勉することそれ自身に興味をもつて居た。父は一刻もじつとしては居られない性質であつた。さうした父の性質を幸ひにも私自身は受つぐことが出来た。私はこの性質を父に感謝せざるを得ないのである。
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私の父はウイツトとユーモアに富んで居た。面白おかしい話をして、人を笑はせることが好きだつた。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2019年11月27日)